2025年
11月
30日
日
前者は抜刀して手刀振りかぶりで吾勝に、後者は納刀のまま対側の返し突きで入り身転換の正勝になると同時に抜刀して陽の陽
同時打ち正面打ち入り身投げ表は陰・二教の手で上丹田に結び、裏は抜刀せず入り身転換で初めて抜刀・陽の陽に。
2025年
11月
26日
水
*外転換:正勝吾勝・半身から正勝・非軸足を外に置き換えて軸とし、対側の軸足を非軸足に交代して剣線の手前に足先を置いて、正勝吾勝の反転と目付を剣線に直行する足捌き体捌きを言う。
2025年
11月
23日
日
2025年
11月
19日
水
2025年
11月
12日
水
2025年
11月
10日
月
開祖植芝盛平の合気道の要約(『合気神髄 合気道開祖・植芝盛平語録』より)
心のたましい魂は天に昇り、肉体のたましい魄は地に下り、間を満たすのは気である。左右片寄りのない足で体幹軸を垂直に支えて立つことに、開祖は〝天の浮橋に立つ〟という言葉と思いを込めた。
吸気で緊張伸展した手に〝天からの気〟魂気を受け、呼気で弛緩屈曲した手は体幹に巡り、足は地を踏み魄気を受ける。次の吸気では緊張伸展した指先から天空に魂気を発して、これは陽の気。呼気でふたたび〝魂気すなわち手〟を体幹に巡らせ、陰の気。これが丹田において魄気と結ぶ。つまり、〝天地の気に気結びする〟ことが禊である。〝一切の力は気より〟〝結びで力を生ずる〟〝合気は禊から始める〟と開祖は明言する。
踏み直した足を〝吾勝〟、〝軽く半歩出し〟た対側の足先は〝正勝〟。吾勝で魄気を地から受けて正勝は地を解脱する。半身の思いを開祖はそう教えているようだ。私はこの体勢を「魄気の陰」と呼んできた。
正勝吾勝で剣素振り。魂氣・正勝は陰陽に巡り、魄気・正勝は非軸足先であって地に置かれるのみである。そして魄気・吾勝は不動の体軸を成し、小林裕和師範の剣素振りはまさにこれである。
打ち込みの入り身一足で面打ちが生まれると、開祖はその体捌きを〝勝速日〟に喩えた。ところで、正勝吾勝と勝速日の間には「魄気の陽」が内在する。前で踏み詰め、後ろで突っ張る左右片寄りのある両足に魄気を受け、体幹軸を前後で支える一瞬の体勢が魄気の陽ということになる。体軸を失った瞬間でもある。
開祖は吾勝を〝自転公転の大中心〟、正勝は〝体の変化〟を生じるとした。正勝の足先を内転に捌いて魄気の陽から吾勝に転換し、体幹を後方へ反転して正勝吾勝にもどると「上半身転換」。続けて正勝を一歩後ろに置き替えて直ぐ吾勝に戻れば半身の転換はなく、正対方向を180度変更したことになり、これは「全身転換」と名付けられた(植芝吉祥丸二代道主著『合氣道』より)。今では体の変更とよばれることが多くなった。小林裕和師範は、一気に全身転換で魄気の陰とし、「三面に開く」と表現した。即座に上半身転換を続けると後ろ一回転の捌きとなる。
ところで、片手取り体の変更が魄気の陰にとどまらず陽に発するならば正勝の魂気で受けを前方に放つことになる。したがって、この動作で受けを取りの五体に閉じ込めようとするには無理がある。
魄気の陰が体捌きの兆しなら、魄気の陽は体捌きの要である。しかし、技が生まれる残心は勝速日であり、魄気の陽とは明確に区別するべきである。〝勝速日の基、左右一つに業の実を生み出します〟と開祖は明言している。
また〝正勝、吾勝、勝速日とは武産合気ということであります〟という開祖の言葉は、武産合気が明確な観念を伴う一方で、特徴的な形の集合を分類するものではないということを示唆している。
徒手の相対動作は合気の剣と通底する。魂気の陽ではその母指先と同側の非軸足先が同期して進み、正勝である。魂気が巡るとき、非軸足は踏み詰めて魄気は陽となり、呼気で魂気が体軸に結ぶと対側の継ぎ足が同期して入り身一足が成り立つ。つまり勝速日で五体は〝御柱〟となって地に立つ。〝魂が上、表になって魄を使う〟という開祖の教えである。
魂気が巡る前に魄気が陽となれば、その手の働きは魄力による。〝それはだめだ。魄力はいきづまるからである〟〝魂の気で、自己の身体を自由に使わなければならない〟。これぞ開祖の合気の本質であろう。
正勝となるべき手には〝魂の比礼振り〟が起こり、それまでに体軸を成していた魄気との結びから解脱している。〝身の軽さを得る〟、つまり武の兆しである。力を抜くのではなく、「抜けた手」(植芝守央三代道主著『合気道 稽古とこころ』より)である。
鳥船の動作(池田憲夫師範による小林裕和師範の口伝から)において、この思いが所作に現れているかどうかが肝であろう。比礼振りを吸気で前に発して掌に魂気を包む、陽の魂気、すなわち正勝。振り戻しから呼気で下丹田に巡って魄気と結ぶ陰の魂気、すなわち吾勝。この瞬間、イェイと発する。魂気は下丹田に置いて、体軸・吾勝から解脱した手はさらに後ろへ振り下りて再び魂の比礼振りとなる。鳥船の反復動作である。
合気道では、魄気の陽で両手を手刀にして前方に掲げる体勢を、構えとしては採用しない。
魂気と魄気の〝置きどころを知る〟ことが〝気がまえ〟であり、これが自在に出来ておらねば十分な力は出せない、と開祖は言い切る。掌に魂氣の珠を包む思いで体側に両手を垂らして片寄りのない両足で正対し、母指先が地を指しながら母指の伸側を前面に向ける。いわゆる無構えにして気がまえを成すのが本質であろう。松竹梅の剣の大前提がこれであるからだ。
徒手の半身では、吾勝の手が腰仙部に結び同側の足腰と結んで体軸に与る。正勝は掌に魂気を包んで下丹田に置く。同側の非軸足先と共に体軸から解脱して〝千変万化〟の武の兆しが生まれる。
天の浮橋に立つ思いから、左右片寄りのない禊と、正勝吾勝からなる剣素振りの禊と、魄気の陽を加えた禊・鳥船。つまり、合気の禊に三法あり。
合気道の練習において、老若男女それぞれの動作は間口を広く取るべきである上に、緩急自在に。但し、開祖の言葉と思いと動作の三位一体は忘れてならない。
敢えてみずから言触れせずに、開祖の言葉と思いで手捌き足捌きを同時に行えばすでに合気道である。開祖の肖像の下で、開祖の言葉と思いに裏打ちされた動作と理合を楽しむことこそが合気道である。
追補
植芝吉祥丸道主の呼吸(力養成)法について松竹梅の剣(小林裕和師範伝)を拠り所にして言語化する試み
呼吸法とは、自然の呼吸に伴って取りの魂気が受けとの接点より内に入り、互いの魂気の気結びによって受けが取りと一体になり、取りの動きのままに導かれる術技である。
抜刀から円を描く:
魂気の珠を掌に包んで掌屈し、正勝吾勝で下段に与えると回外して母指先を内に向けた状態で手首を取らせる。尚も回外して母指先は受けの真中を指し、吸気で手根は伸展して掌は開き、母指を手刀と見なす抜刀が成り立つ。さらに母指先の反りの方向へ気を発する思いで空間に円を描いていくと、呼気で腋を閉じて体側に巡る納刀の動作に移行する。円の中心に技が生まれる。
両手で気の巡り:
受けが手刀を振りかぶる動作に合わせて上段に与えると正面打ちに対する呼吸法となる。抜刀から母指先の反りの方向へ気を発する思いで円を描いていくと、手刀の横切りに同期して対側は側胸への当て身から陰に返して両手で気の巡りにより円弧を成す。勝速日から三角法で半身を転換し、腋を閉じて両手が体側に巡る納刀の動作に伴い、魄気は陽から陰へと鳥船の振り戻しに通底する。引土道雄師範の正面打ち一教表である。
道歌:右手をば陽にあらはし左手は陰にかへして相手みちびけ
手刀振りかぶり呼吸法:
抜刀した陽の魂気の手刀を弛緩して背屈・回内すると母指先は正勝のまま自身の頂丹田に巡って橈屈し、尺骨手根靭帯が伸展して手刀の刃先が受けの真中に立つ。植芝守央道主の〝力の抜けた〟手である。これは手刀振りかぶり呼吸法と呼べる。
陽の陽から陰に巡って狭義の陽でも陰でもない手刀。
切り返し呼吸法:
片手取りや交差取りで母指を抜刀して即弛緩回内から掌屈し、上丹田に巡って肘を屈曲すると母指先は受けの真中へ転回し、手背が受けの手首屈側に密着して結ぶ。魂気は陰で体軸を成して小林裕和師範は〝二教の手〟あるいは〝巡り〟と呼んだ。下丹田に小手返しの手(陰の陽)で体軸を降りると切り返し呼吸法が成立する。受けの手刀振りかぶりにおいては、切り返し呼吸法で吾勝へ体軸交代することで逆半身入り身・転換から入り身投げや一教裏の唯一無二の初動となる。
抜刀のまま陰の陽で上丹田に結ぶと同時に回内して狭義の陰に巡り、下丹田に降りるとこれも切り返しである。