概要

 合氣道とは

 開祖植芝盛平翁(明治16年〜昭和44)により創始され、現在世界の国々の約7割、約130ヶ国に組織・団体がある。この海外普及の結果、(公財)合気会の登録団体によって組織された国際合気道連盟(IAF)が1976 年に結成され、国際大会と総会が四年ごとに開催されている。

 合気道は力を競って技をかけるものではなく、逆に力を終始抜きっぱなしで技を作ることが目的でもない。合気道の本質は呼吸の緩急に伴う動作と姿勢につきる。

 つまり、呼吸とともに天より上肢に魂氣を、地より足腰に魄氣を受けて下丹田(下腹)に氣結びし、胆力を養う。そのうえで、母指から魂氣の発することを思いながら動作することによって相手に氣力を及ぼした後、残心によって技が生まれる。魂氣も魄氣も曖昧であれば氣結びも残心も動作として現れることは無い。氣を思い、受けては与えることが動作となり、それが術理にかなう技を生むのである。

 剣・杖術に由来する足腰の動作も特徴の一つであり、目線の位置(目付け)や姿勢の安定性はそれに依る。

 日本古来の相撲や柔術の心をそのまま残し、一方で試合の必然である勝負の執着やそれによる心身の弊害も無くすることで、真に健康を増進させる現代武道である。

 したがって旧来の武道に比べて際立った違いは、互いをより良く活かす修練により、真剣な中にも愉しみながら武道を身につけることができる点であろう。 

                                      2017/3/12      

魂の比礼振りは神氣館の象徴

陰の陽で与えて手刀に当たり陽の陽で結ぶところを図案化しました。        2013/8/6

魂の比礼振りは、陰の陽で鎬、陽の陽で真空の氣結び。

魂氣を与えて、片手・交差・諸手取り・正面打ち・横面打ち。

突きに、杖巡り・横面打ち転換…ことごとく魂の比礼振りのうちに陰陽・巡り・結び、則ち魂氣三要素がある。

                                      2016/6/9 

公益財団法人合気会公認道場 神氣館 について

 植芝盛平合氣道開祖は「合氣神髄:植芝吉祥丸監修」の中に自らのお言葉とともに合氣道の奥義を遺されました。わずかな映像の中にそのお姿もお示しになっておられます。そして多数のお弟子さんに合氣道をお伝えになりました。

 また、開祖の直弟子である小林裕和師範は指導・普及のために単身ヨーロッパへ赴かれ、なおも錬磨を重ねつつ合氣道を独特の風格として我々に示されました。

 全身を統べ合わせ常に無理なく無駄のない姿を表出させるその核心は飽くまでも純一であります。

従って、技としての昇華に至った要素それぞれをうかがい知り得ぬところにこそ極意の手解きが必須でありました。

 師範は時間を限らず思いつくことを次から次に指導され、機会あるたびにすべてを与え尽くすというご自身の心構えを説かれるのが常でした。

 魂氣と魄氣の結びのなかで陰陽の巡りを現す稽古は、緩急、剛柔、呼気・吸気、緊張・弛緩、伸展・屈曲、上昇・下降といったあらゆる隔たりをことごとく連ねていくことに集約されるとすれば、所謂「円運動」とされる合氣道の特徴の一つが躯幹の長軸を中心とした回転に留まるものではないという結論に行き着くはずです。

 師範のお示しになった極意の素を基本動作として、稽古の仲間と大切に共有していくことも報恩であろうと考えております。

 植芝守央道主がお示しくださる稽古の要訣の一つは、種々の技を形として習得することよりも、上肢と足腰の基本動作が次々と自在に組み合わせられて流れるように連なるなかで、合氣道のあらゆる技が成立していくことを体得するものであります。

 以上の統一的視点を貫き、開設14年目にして財団法人合気会登録道場 神氣館 を広くお知らせすることといたしました。

 どうぞよろしくお願い申し上げます。

      2010/8/15

古今天地に

古今天地に魂魄あり

間を満たすもの 悉く氣なり

動静は 魂氣と魄氣の結びにて産まる

 

思い先立つといえども 動き無くして叶わず

息とは唯呼吸のみに非ず

魂氣陰陽の巡りにこそ伴う

 

地を踏みて 魄氣を受けて軸となし

踏み替えて 軸の移るを歩みとす

これ魄氣の陰陽なり

 

陽の魄氣で真中へ進み 陰に転じて入り身転換

右足に軸を預けて 左を沿わせ踏み替え

軸の移るや右足を その場で廻し

陰とすれば回転なり

 

魂氣魄氣各三要素 合わせる道こそ合氣道なり

2013/3/13

 天地の結び

 自然体で地から魄氣を足底に感じ腰から丹田にあがってくるイメージ

両手を左右に広げて掌を地に向け、目の前で手掌を合わせて真直ぐ頭上に掲げ天から魂氣が上肢を伝って丹田に入るイメージで眼前に下し、更に吸気で掌を天に向けて左右に開いて行く。その間両腕と胸に天から魂氣をいっぱいに受けているイメージ。限界まで左右に開いた後、呼気とともに正面で四回柏手を打って体に魂氣が入るイメージ。四回めで手を合わせて臍下丹田に陰の陽で納め、すっかり丹田に魂氣が納まり、魄氣と共に丹田で一つになったとイメージする。これを氣結びとする。二回行い、天と地に丹田で結んだ、則ち天から魂氣地から魄氣を丹田に結び、合氣を成したとイメージする。天の浮橋に立つということに通じる単独動作であると考えざるを得ない。いずれも合氣そのものであるからだ、


 

①両手を左右に広げて掌を地に向ける
①両手を左右に広げて掌を地に向ける
②前で合わせ
②前で合わせ
③天に差し上げ
③天に差し上げ
④前に戻して
④前に戻して
⑤吸気と共に両手を陽の陽で広げて左右に魂氣を発し同時に魂氣を天から受けるイメージで
⑤吸気と共に両手を陽の陽で広げて左右に魂氣を発し同時に魂氣を天から受けるイメージで
⑥両手を4回打ち合わせると受けた魂氣が内に充ちると感じる 直後丹田に印を結んで魂氣を腹に感じる 
⑥両手を4回打ち合わせると受けた魂氣が内に充ちると感じる 直後丹田に印を結んで魂氣を腹に感じる 

鳥舟左半身陰の陽

 丹田の魂氣を陰の陰で両手に感じ左半身の陰の魄氣とする。吸気で左半身の陽の魄氣とともに両手を陰の陽としながら手首までを伸展し、ホーと発して手首で上肢の伸展が尽きると魂氣は陰の陽となり母指は地に向き他の指は揃って丹田に向かい、掌は母指球と丹田に向く指によりほぼ閉ざされている。

 

丹田から伸展した上肢を経て魂氣が出されようとしたが、指先とともに丹田に還って行くとイメージし、呼気に巡って行く時イェイの声とともに魂氣は陰の陽から丹田に結んで陰の陰にて下腹部側面に接する。

 このとき肩甲骨が後ろで左右接するぐらいに胸を張り、腹を引き締め、両上肢とも脇から上体に密着しており丹田に再び魂氣と魄氣が結んだとイメージする(腹式呼吸)。魄氣は左半身の陰に戻る。此れを反復する。左半身ホー・イェイの舟漕ぎ運動。魂氣は広義の陽に至らず、指は終始丹田に向き手掌の中は包まれたまま。

 

鳥舟右半身陰の陰から突き出し

 右半身にて両手を握ったままイェイで魄氣の陽にて肩の高さに突き出す。肘と脇を開き手根も伸展するが、指を曲げて手掌を包む所が次のサー・イェイと異なる。

 

再度イェイで魄氣の陰の呼気にて丹田に引きつける。足の置き換えは無く後ろと前で踏み替えて、軸足を陰では後ろに置き前の足を伸展し、その足先だけは地から離さない。陽では体軸を前方に寄せるが後ろ足を伸展させて踏む。送り足を取らない。

鳥舟左半身陽の陰

 左半身のホー・イェイに対してサー・イェイ。異なるところはサーで吸気とともに陽の魄氣で両手拳を突き出し、陽の陰で限界まで指先を伸展し

 

イェイで呼気とともに陰の陽で丹田まで巡り陰の陰で結ぶ。ここでは手掌を開いて全てを放ち、その都度それ以上の魂氣を地から掻き取り足先を経て丹田に結ぶとイメージする。

  振り魂

 鳥舟の後各三回右手に氣の玉を受け左手でそれを覆うようにして丹田との間に前後に巡らす。丹田に納めて静止。三回めの降り魂の後は、再度天に受けて丹田にて地と結んだ後、印を結んで天地を一気に気合いで丹田に結ぶ。


両手掌を合わせて臍下丹田に接しては前方に腕を伸ばし再度引きつけて丹田に接する 繰り返す
両手掌を合わせて臍下丹田に接しては前方に腕を伸ばし再度引きつけて丹田に接する 繰り返す

両手で氣の巡り

 陽の陽で吸気、陰の陰で呼気(動作が呼吸を伴う)を体側と丹田の間で巡る。次に左手を陽、その上に右手を陰として被せ、掌を合わせ両母指先の反りの方向に丹田から魂氣を出しては巡らせるイメージで水平に左方向へ両手を廻す。次に右手を陽左手を陰として被せ、掌を合わせ両母指先の反りの方向に丹田から魂氣を出しては巡らせるイメージで水平に右方向へ両手を廻す。いずれも径を小さくして行き丹田に結んだまま魂氣が腹の底に納まったイメージ。次に頭上に掲げて天空の魂氣に繋がり、次第に大きく上肢と上体を廻すことで気流を起こして天空全体に渦をおこすイメージ。徐々に小さくして静止して丹田に置き、全て丹田に降りて結んだイメージ。

2013/4/4

『五輪書』水之巻にみる平常心

『五輪書』水之巻

一 兵法心持の事

 兵法の道において心の持やうは常の心に替る事なかれ。常にも兵法の時にも少もかはらずして心を広く直にしてきつくひつぱらず少もたるまず心のかたよらぬやうに心をまん中におきて心を静にゆるがせて其ゆるぎのせつなもゆるぎやまぬやう能々吟味すべし。静なる時も心は静かならず何とはやき時も心は少もはやからず心は躰につれず躰は心につれず心に用心して身には用心をせず心のたらぬ事なくして心を少もあまらせずうへの心はよはくともそこの心をつよく心を人に見わけられざるやうにして少身なるものは心に大きなる事を残らずしり大身なるものは心にちいさき事を能しりて大身も小身も心を直にして我身のひいきをせざるやうに心をもつ事肝要也。

 

【現代語訳】兵法における心の持ち方

 兵法の道における心の持ち方は、平常の心と変わってはならない。普段も、合戦のときも、少しも変わらず、広い視野から真実を見きわめ、緊張しすぎず、少しもだらけず、心が片寄らぬように真ん中に置き、心を静かにゆるがせて、そのゆるぎが一瞬もとまらぬよう、つねに流動自在な心の状態を保つことに、意を用いねばならない。

 体が制止しているときでも心は静止せず、敏捷に行動するときも心は平静に保ち、心は体の動きにひきずられず、体は心にひきずられることなく、心に気を配り、体には気をとられず、心を十分に充実させて、余計なことに気を奪われないことである。表面的なことにとらわれず、根底の精神は強く、心の底を他人に見抜かれないようにする。また体の小さい者は、体の大きい者の状態をよく知り、体の大きい者は、体の小さい者の状態をよく知って、大きい者も小さい者も、心をまっすぐにして、自分自身の条件にとらわれないようにすることが大切である。(五輪書 大河内昭爾)

 

*ここでの「ゆるぎ」とは、動揺、ぐらつき、不安定と言った意味でないことは明らかである。「静にゆるがせ…ゆるぎやまぬ」とは、緊張しすぎず、かといって少しもだらけず気を配り、心を静止させずしかも独りよがりで片寄った気持ちにならないこと…と言えそうだ。

 「静なる時も心は静かならず」は振り魂の動作に相応し、「何とはやき時も心は少もはやからず」とは初動の入り身や転換で魂氣と魄氣がそれぞれに巡ることで整然と動作した後、残心の氣結びにて合氣の成り立つことを象徴しているようにも思われる。魂氣と魄氣、つまり手足腰目付けの一致した静止の安定(結び・残心)に対して、動作における安定とは一時期の不一致(陰陽・巡りと入り身・転換回転)にこそあると思われる。

2013/4/2

『五輪書』風之巻にみる基本即神髄

『五輪書』風之巻

一 他流に奥表と云事

中略  我兵法のおしへやうは初而道を学人には其わざのなりよき所をさせならはせ合点のはやくゆく理を先におしへ心の及がたき事をば其人の心をほどくる所を見わけて次第次第に深き所の理を後におしゆる心也。 

中略 此道を学人の智力をうかがひ直なる道をおしへ 

中略 うたがひなき心になす事我兵法のおしへの道也。能々鍛錬有べし

 

【現代語訳】他流に奥、表があるということ

中略 自分の兵法の教え方は、はじめて学ぶ人には、その人の技量に応じてやりやすいところから習わせ、早く理解できる道理から先に教え、理解しがたいことは、その人の理解力の進んできたころあいを見分けて、しだいに深い道理を教えていくように心がけている。

中略 この道を学ぶ人の智力によって、道の神髄を教え、  

中略 疑いのない心にすることが、わが兵法の教えのみちである。よくよく鍛錬すべきである。(五輪書 大河内昭爾)

 

*初めて学ぶ人には動作し易いことから習得させ(禊・剣・杖・単独呼吸法)、次第に手足腰目付け(単独基本動作)、相対基本動作や多人数の理合を修めて行く。いずれにしても核心を示し達成感の得られる教えの積み重ねが指導の要訣である。

2013/4/9

『五輪書』空之巻にみる「為す」ということ

『五輪書』空之巻

「直なる所を本として実の心を道として兵法を広くおこなひただしく明らかに大きなる所をおもひとって」 また、前段に「まよひの雲の晴れたる所こそ実の空としるべき也。」

【現代語訳】「まっすぐな精神を根本とし、真実の心を道として、兵法を広く行い、正しく明らかに、大局を判断できるように」  「迷いの雲の晴れた状態こそ、真の空であると知るべきである。」(大河内昭爾)

 

*合氣道を「為す(成す)」とは、「作り上げる」、「産む」に通じて、形の奥にある基本即真髄を体現することである。単に敵を制圧する競技ではない。

また、動作で形を現そうとも言葉と念いが伴わなければ心に響かない。つまり、それは合氣に及ばない。

そして、言葉の意味や念いだけで動作は確立しない。つまり、合氣たり得ない。

知識のみで見識が深まる訳ではないことに思い至るべきである

2013/6/4

 

合気道の基本と稽古の本質

 合気道を形あるものにするための基本は、用語の意味と思いとその動作の三位一体である。

 思いだけがが先立ち、用語が不確かで、それに見合う動作が曖昧となれば、理合と合氣によって生み出されるはずの種々の技は異質のものとならざるを得ない。則ち、結局は接点で圧倒し軸足を挫き押して倒す動作や、或は空かしてのめらせ前方受け身を行わせる動作などである。つまり魂氣と魄氣が及ぶことなく、真中の底を抜くことのない動作が広く行われることとなる。

 “基本なきは合気道に非ず”、“基本即真髄”であるから日頃の稽古はこの一点を外すことが出来ない。それでも演武や研修会など稽古以外の場面で真髄を発揮することの難しさを知り、終わりの無い稽古の積み重ねへと継続して行くのである。

 普段行う基本動作は決して難解なものではない。『愉快に行え』と稽古心得にある通りだが、正しい認識と体得に勤しむ過程抜きでは稽古の本質を為すとは言えない。

 禊と合気道に連なるものはより良く生きる思いから天に感謝して動作に現すことである。

2013/11/20

合気道の研鑽会

 合氣道の稽古では、特に相対動作において、指導者からの指摘や相手からの誘導が不可欠である。講習会などでは、1人の指導者が参加者多数に対して共通の要点を同時に指導して廻ることは困難な場合も少なくない。基本的には参加者二人が取りと受けを交互に稽古する様式を取る。

 そこで、比較的習熟の程度が高いと思われる稽古相手が主導していくことになり、他道場の稽古者が段位を互いに自己紹介する訳ではないが、その場での研鑽内容については即座に主導か受動かを感じ取ることができ、円滑な稽古を続けることになる。取りとしての動作、受けとしての動作それぞれに基本を再確認しながら滞らずに連なるよう習練する。

 しかし、技や基本動作によってはどうしても第三者でなければ指摘できない場合がある。たとえば固め技や、投げで取りが送り足の寸前などは受けが適切な指導に廻ることはまず出来ない。前者では互いに向き合うことが出来ないし、後者では受けの軸足が地から離れた瞬間であるからだ。さらに、両者が共通して習熟すべき点は、その指導者が気付いてくれたり、あるいは積極的に教えを請うことができる。

 日常では得難い技能・知識を稽古経験の異なる相手を経て、その講習会の指導者から授かることは、自己と他者を豊かにする以外の何物でもない。だからこそ、このような稽古会の終わった後の感慨は何ものにも代え難いのである。具体的に成果を量ることは出来なくても特有の達成感を互いに共有することで十分感じ取れるのである。

 2013/12/2

合気道講習会における研鑽のピットフォール

 指導者の講習を受けて他道場の道友と稽古を通じて研鑽する際、互いに取り受けを交互に動作するが、稽古経験の差によっては一方が主導し、他方が受動的な役割を持って指導者の指摘する点を理解しようとする。

 その際主導的立ち位置を取る者は指導者の示す内容をよく認識し、率先して指導者にその教えを請う必要がある。これが研鑽の肝心な部分である。

 その点をおろそかにすると、稽古をする両者が(主導者と受動的立場を取る者)いずれも研鑽からはほど遠い時間を費やすことになる。

 

  人の患いは好んで人の師と為るに在り 『孟子』

 

    学びて然る後に足らざるを知り

  教えて然る後に困しむを知る   『礼記』

 

  子曰く、道に聴きて塗に説くは、徳を之れ棄つるなり。  『論語』

 

2013/12/2

合氣道の概念

天地人に魂気魄を思えば、

魂氣魄氣それぞれに三要素あり。

ひとつひとつに、言葉、思い、動作の三位一体あってこそ、

われらに体現可能のものとなる。

呼吸と共に氣結びを為し、魂氣と魄氣を結んで禊とする。

相対動作に氣結びが及び、単独動作の残心に巡れば、

そこに合氣の技が生まれ出る。

 天地の間にあって、

人の息吹の和を現すことこそ合氣道である

2013/12/18

氣の思いにこだわるほど力みが増す理由

 たとえば、結びと云う用語であるが、その概念、つまり合気道における意味と、その具体的な動作や体での表現という三つのことが同時に備わらないと、認識できるものではない。つまり、三位一体でなければ互いに共有できない。解ったつもりでいて互いに別のことを思い、異なった形を表わしていることもあろう。

 呼吸法にしても、単独であれ相対であれ、魂氣とその陰陽、巡りという言葉のそれぞれが意味と動作の三位一体で体得されて初めて結びがなされ、数々の基本動作となる。したがって合氣の技も、このような動作の連なりと残心それぞれが言葉と思いと動作の三位一体でなければ生まれ出ることはない。

 同じことを体得していると思うだけでは真の共有はない。思いが勝っているうちは意味が一定せず動作が曖昧とならざるを得ず、技としての完結については筋力の仕事量で補うことになり易い。

 観念が勝るほど皮肉にも筋力が目立ってしまうのはこのような理由からである。

2014/1/29

正面打入身投げの魄氣

  • 正面打ち入り身投げ表の魄氣

 上段に与えて受けは相半身で手刀により正面を守る。

陽の陽で氣結びとともに逆半身外入り身で同側の前胸腰部が受けの同名側の背腰部に接する、魄氣の結び。

 対側の陽の陰の魂氣は大きく陰の陽に巡って受けの同名側の側頸に結び、

送り足と共に相半身外入り身で、受けの魂氣に結んだ手を陽の陰で側頸に巡り、すでに結んだ自身の対側の手背上に合わせ、両手で側頸に結ぶ。

 魄氣は、相半身・逆半身外入身・相半身外入り身で受けの真中に向き・残心。……画像参照

 

  • 正面打ち入り身投げ裏の魄氣

 受けは手刀を上段に振りかぶる。

取りは同名側の手足で上段受け流し(一教運動裏の初動)で返し突き近似の逆半身外入身転換。置き換え踏み替えで後ろ回転。

 受けの体の変更により相対的に相半身外入り身となり、受けの魂氣に結んだ手を陽の陰で側頸に巡り、すでに結んだ自身の対側の手背上に合わせ、両手で側頸に結ぶ。

 表も裏も魂氣は陰の陰で丹田に結び残心。

 魄氣は一教運動裏の入り身転換・置き換え踏み替え。

剣線を外して軸とすると逆半身外入身は後ろ回転の軸足の確立に相当し、以後(入身)転換・置き換え踏み替えは後ろ回転そのものである。……画像は準備中

2014/1/30

 

正面打ち入り身投げ表

①魄氣は陰、左半身で魂氣を陰の陽で上段に与える
①魄氣は陰、左半身で魂氣を陰の陽で上段に与える
②受けに当たれば陽の陽で結び、魄氣は陽で左足を軸として
②受けに当たれば陽の陽で結び、魄氣は陽で左足を軸として
③右逆半身外入身
③右逆半身外入身
④左足を送り足で受けの右足の後ろに置き、左相半身外入り身
④左足を送り足で受けの右足の後ろに置き、左相半身外入り身
①右半身魄氣の陰で上段に与える
①右半身魄氣の陰で上段に与える
②受けに当たれば魂氣を陽の陽で結び、魄氣の陽から右足を軸とし
②受けに当たれば魂氣を陽の陽で結び、魄氣の陽から右足を軸とし
③左手を返し突き近似で“両手で氣の巡り”、左逆半身外入り身
③左手を返し突き近似で“両手で氣の巡り”、左逆半身外入り身
④送り足で右相半身外入り身、右足先は受けの左軸足に向く。
④送り足で右相半身外入り身、右足先は受けの左軸足に向く。

合氣の剣に正眼の構えはあるか

 そもそも合気道では徒手でも剣でも、いわゆる構えを指導されたことは無いし、整理した基本動作のなかにもその要素は見当たらない。

 魄氣の陰で半身となれば剣先は受けの異名側の前頸三角に定まり、その瞬間、魄氣の陽で突き当たり、送り足で突き通せる。則ち、守りではなく攻めの瞬間である。従って、剣先を中段に置いたとき、合気道ではいわゆる正眼の構えではない。

 自然本体から受けの剣線を外して魄氣の陰へと半身で開くことは後手である。すなわち、攻める瞬間ではあるが剣線を外す分後手であることから、この攻めには瞬間的に受けが当たって再び真中を取る。それを受け流して降氣の形とし、反対側へ踵を外して軸を作り、一歩逆半身入り身と同時に受けの真中を突く。

 合気道では、自然本体で手にした剣を、半身で中段に置く瞬間は攻めが成り立っている。後手であっても次の動作を待ち構えるための守りではない。

2014/2/11

“入身一足”の動作についての考察

はじめに

 

言葉と思いと動きの三位一体から“入身一足”を足腰の動作について考察する。

そこで、“入身一足”という語句について“入身”と“一足”に分けて考える。

まず、“入身”という語を『五輪書』から引用する。次に“一足”つまり足の関わりを『武道論』、『五輪書』、『兵法三十五箇条』、『合氣神髄』に求めて考察する。

 

“入身” 

 しうこうの身と云事

 秋猴の身とは手を出さぬ心なり。敵へ入身に少も手を出す心なく敵打前身をはやく入心也。手を出さんと思えば必ず身の遠のくものなるによって惣身をはやくうつり入心なり。中略               

 「五輪書」水の巻

   秋猴:手の短い猿のこと。秋猴の身:手を出すより身を入れよということ。

 

 しつかうの身と云事

 漆膠とは入身に能付てはなれぬ心也。敵の身に入時かしらをもつけ身をもつけ足をもつけつよくつく所也。人毎に顔足ははやくいれども身のゝくもの也。敵の身へ我身をよくつけ少も身のあいのなきやうにつくもの也。能々吟味有べし。

                         「五輪書」水の巻

【現代語訳】相手に身を密着させて離れないことをいう。敵の体に接近するとき、頭もつけ、体もつけ、足もつけ、体をピタリとつけるのである。たいていの人は、顔や足は早くつけても、身だけは退くものである。だから、敵の体に自分の体をよくつけ、少しのすき間もないようにする。よくよく検討すべきである。

                『五輪書』宮本武蔵(大河内昭爾:教育社)

以上より“入身”の身とは取りの身であり受けの身でもあることがわかる。

 

“一足”

 『武道論』より。

剣術の極意に「皮を斬らして肉を斬り、肉を斬らして骨を斬る」という語がある。術理を極め尽くして、その勝敗の分かれるところが「相討ち」すなわち、捨て身の「わざ」にあることを訓えている。そして次の歌がある。

  振りかざす太刀の下こそ地獄なれ

  一と足すすめ先は極楽      (宮本武蔵)

またいっぽう、両刃を交えて対峙するとき、相手の剣先が我に届くか届かないかを見きわめるために「一寸のみきり」「五寸のみきり」という語がある。

剣の術理において「目付け」「間合」の厳しいことを訓えている。

 これらの遺訓によって、剣の修行には肉弾相討つ体あたり戦法の半面、対峙する相手の剣先を触れさせないために、距離と位置とのとりかたに、細かい心をくばったことを知る。                『武道論』(富木謙治:大修館書店)P150

 一足進んで受けに近づくことが勝ちを見出すとしている。

  

他に足の動作について、宮本武蔵の言葉からいくつか引用する。

  足の使い方のこと

中略 足使いは場合によって大小遅速の違いはあるが、自然に歩むようにする。中略 片足だけを動かすのではなく、切るときも、退くときも、受けるときも、中略 右・左、右・左、と足を踏むことである。

くれぐれも、片足だけを動かしてはいけない。十分注意しなければならない。

                           「五輪書」水の巻

 

 他流に足使いがあること

中略 踏み詰める足は、待ちの足といって、敵に先手をとられる足使いであるから、ことに嫌うものである。

*踏み詰める足:踏みつけたまま動きのとまっている足

                           「五輪書」風の巻

 

 

“二足”(二ツの足)

「兵法三十五箇条」(宮本武蔵)より引用する。

 二ツの足と云事

二ツの足とは、太刀一ツ打内に、足は二ツはこぶ物也、太刀のりはづし、つぐもひくも、足は二ツの物也、足をつぐと云心是なり、太刀一ツに足一ツづゝふむは、居付はまる物也、二ツと思えば、常にあゆむ足也、能々工夫あるべし、

          「兵法三十五箇条」宮本武蔵遺蹟顕彰会篇『宮本武蔵』

                    『五輪書』(大河内昭爾:教育社)

 

植芝盛平語録より

合氣道の足腰の姿勢と動作の極意に触れるお言葉を以下に引用する。

  円に十を書く、その十の上に自己の左右の足で立つのである。それで全部三角法で進むのである。立ったおりに、右足を動かしてはいけない。左足だけで巡るのである。そして天の気、地の気、要するに天地の気と気結びすることである。

『合気神髄 合気道開祖・植芝盛平語録』(植芝吉祥丸監修:柏樹社)P172

 

【解釈の試み】はじめに自然体で立ち、魄氣の陰陽を定めて軸足の周りを他側の足が巡ることで入身と転換・回転が成り立ち、魂氣が受けの魄氣に結び、終末で取り自身の魂氣と魄氣を結び自然体となる(残心)ことで技が生まれる。

 

考察

“一足”は片側の下肢全体を表わす場合と、足先と踵までを指す場合もあり、一歩の動作を示す場合も当てはまる。その際、一歩で受けの前の足より内に入ることのできる間合いを取ることが肝心である。つまり、一足をその間合いの意味に表現することもあり得る。一方、入身で足をついだ(送った)とき両足が密着して一本の足として軸になる瞬間(残心)もある。

 また、開祖は一足(右)を軸とし、他側(左)を自在に進める(巡る)と記されている。それにより入身、転換、回転を為し、次の軸足とする事を指しておられるのであろう。また、全部三角法で進む、というお言葉は相半身から逆半身または逆半身から相半身へと、武蔵の言う、足は二ツはこぶ物、ということを踏まえた運足である。そして、開祖は、天地の気と気結びをすることに帰すると言われる。足の動作により魂氣(手)と魄氣(足腰)が丹田(胆)に結び自然体(残心)に戻るということであろう。

 以上のことから、入り身により魄氣の陽で一歩入ると後ろの足を前の踵へ送ること(継ぎ足)によって、同じ半身で残心とするのを入身一足と表現しうる。そこで、後ろの足の踵が前の内側(土踏まず)に当たる位置へ送り、半身を換えて一瞬陰の魄氣としてさらに入り身を反復すると、受けの中心(体軸または軸足)に取りの体軸が入り魄氣が結ぶことになる。それが三角法による入身と氣結びである。同時に、取りの魂氣が受けの魄氣の結びを経て取りの丹田に結べば取りは自然体に戻り、受けは取りの体軸に沿って螺旋で地に落ちる。合氣の技の成立である。

 また、入り身により一歩入って内股で転換の軸とし、対側の足をを引き寄せて半身と体の向きを転換した陰の魄氣を入り身転換という。そこから前の足先を後ろに置き換えて初めと同じ半身に巡り陽の魄氣となれば体の変更である。

 

まとめ

“入身一足”は、受けの力及ぶ所の隙間から一歩で真中に近付くことの出来る間合いを表わす。また、その動作そのものを表わす。一歩で入れば必ず継ぎ足をするから、一足には左右の足を運ぶことが含まれている。一足で軸足の交代と半身の転換を伴えば三角法の運足に繋がる。さらに、その軸足が腰と目付けの転換を伴えば入り身転換へと連なる。

 いずれにしても、入り身一足は先手か相打ちの際、魄氣の陽で一方の足を前に進めてその分受けに接近するだけの動作ではない。すなわち、単にいち早く間合いを詰めるだけではなく、つぎ足(送り足)によって剣線を外し入身を完遂して尚かつ自然体に還る動作が基本である。

2014/3/7

動静一如について

 合気道の概念として様々な用語を選び、それぞれに思いを注ぎ、そして各々に対応する緻密な動作が確立すれば初めて基本動作の一つとなる。それは氣の要素に加わるところの合氣の確たる動作である。

 ことごとく連なり技となる。これらを置いて技は生まれない。したがって、確信なき動きは基本動作たり得ない。形は連なって動きとなり、動きの中に形はある。

 静止の瞬間に動作はあり、動作は静止の連なりである。動静一如とはこのことである。

2014/4/16

氣を語る

 人の心のたましいは天に昇り魂と言い、体のたましいは地に下り魄と言う。

天地のあいだには氣が満ちている。

 吸気と共に日を受けて手を伸ばし、掌を天に向けると魂の氣を受け、両足で踏みしめた地からは魄の氣が昇ることを想う。

 呼気と共に手を緩め、側頸や臍下丹田に屈曲しながら巡ってくれば、魂氣が上肢の屈側を通って体の真中に入ってくることを想う。

 再び吸気によって広げた指先からは魂氣がすべて流れ出ていき、同時に伸びていく腕には天から再び魂氣が降り注がれる。

 この繰り返しによって魂氣を発しながらも丹田にはいつも魂氣が満ちていくことを想定できる。そして体軸と目付の保持のもとに、呼吸に合わせた上肢各部の緊張弛緩、伸展屈曲、内外への回旋という動作が特定される。

これを呼吸法と言う。

 相手が腕を取って握り締めてきたとき、その箇所で跳ね返すには尋常ならざる力を要する。そこで、⑴受けの丹田から出る浸透力をそもそも弱めること、⑵握って気力を伝える受けの接触部を弛ませて、⑶接点で伝わる力の方向を分散して弱めることの三点を同時に行うことが必要であろう。

 この場合、行うとは全身各部で動作をし、氣の巡りや魄氣の要素を存分に働かせていわゆる呼吸法を行うことである。魂氣には陰陽/巡り/結び、魄氣には陰陽/入身/転換・回転のそれぞれ三要素を選び出し、これらの用語と、それぞれの氣の想いと、それにあてはまる動作をひとつにして行わなければ、呼吸法を含めて実体のある動作、つまり技を為したことにはならない。

 ⑴ 受けの丹田を含む中心軸が両足の底から抗力を受けて垂直に立ち、取りまでの上肢の経路が途切れることなく十分に体重の加わることが受けの気力を充実させるのである。従って、これを弱めるには、先ず受けの両足が地をしっかり踏めないようにして、受けとの接点が受けの丹田より高い位置にあって尚かつ、受けの脇の開きが大きくなることを、受けに誘導すべきであろう。

 ⑵ 握るとは手掌が取りの手首を包み込むことである。具体的には母指球と小指球が手掌の真中へ寄り合い、掌底では特に母指球近位端が盛り上がって堤をなして、母指と特に小指が屈曲することである。このような包みの形では掌底の小指球側が弛緩し易く、取りの手首における湾曲の微細な楔効果を適応し、小指球と小指が弛むようにする。具体的な動作はまとめて記す。

 ⑶ 接触面は接点の多数の集まりであるから、各点における接触をずらして剝離させて行けば接触面の離間が生じて、受けから伝達されるべき氣力は包みの掌底側から受けの丹田へと後退し、その手掌は揺るんで開いていく。受けは中心から力が抜けていく感じを受けるはずである。

 ⑴⑵⑶を同時に満たす取りの動作は鳥船において魂氣を陰の陽で差し出す技であろう。

 これは受けが手を取る動作を無効にする。

与えるとは、取りが陰の陽で差し出す。脇を開いて行くことは広義の陽であるが、次第に手首の屈曲は確かなものとなり手掌と指先は丹田に向けられる。つまり脇が開き肘が伸展しても魂氣は手首の屈曲により指先の向く丹田の方へと巡って行くから、脇はすぐに閉じ始める。このとき体軸が前方へ魄氣の陽でわずかに移動してすぐに陰へと戻る。つまり、魂氣は広義の陰から陽に向かおうとするが、指先まで伸展すること無く陰へと巡る。狭義には与えた状態から手掌を丹田に向けながら差し出し、戻って来る。

 差し出したままなら巡りはなく、結びもない。受けは離れて取りの魄氣に合わせて後ろに移動する。受けの手を離させて後ろに倒すことになる。結びではない。

2014/6/7

徒手と武器の異同

 合氣道の徒手と武器の異同を再確認する。「基本動作の連なり」62. を補足する。

陽の魄氣とそれに連なる送り足(継ぎ足)が入身である。

入身は送り足で終わらなければならない。

結論を言うと、徒手の送り足は残心であるが、それに比べて、武器を用いた際の送り足は打撃の極致である。魂氣は巡らず前方に発せられている。

 正面打ちと直突きは陽の魄氣で振りかぶりまたは扱き、送り足で打ち、または突く。そのとき受けの真中に取りの魂氣が武器を通してひびいている。取りの魂氣は陽で上肢は伸展している。直後に魂氣を巡り丹田に結んで柄頭または杖尻を納めるには、その場で陰の魄氣となって初めて可能となる。これが残心である。魂氣は次にいつでも発せられる。

 徒手では陽の魄氣のとき魂氣もすでに陽で受けに当たり、送り足では魂氣が取りに巡り丹田に結んでいる。そして、受けの底に魂氣はすでにひびいている。

相対動作の呼吸法で、取らせた手を陰から陽、そして陰へ魂氣の巡りと共に同側の足腰で入身を行えば送り足と共に体側部に魂氣が巡り、残心となる。

 

 武器では横面打ちを除いて送り足で受けに魂氣を及ぼし、再び陰の魄氣で初めて魂氣が自身の丹田に巡って結び、これが残心となる。一方、徒手では送り足で魂氣が自身の丹田に結び、すでに残心となる。ここに徒手と武器の違いがある。

 

 徒手と武器にあって、間合いの違いのみならず、氣の響きと打突という核心の異同は、動作の形と用語の意味において確かな違いを示すのである。

2014/5/21

打つと切るの異同

 陰の魄氣で剣を振りかぶり、陽の魄氣で魂氣も陽で発して受けの正面を打ち、陰の魄氣で剣を持つ手は丹田に巡る、つまり残心である。魄氣は陰・陽・継ぎ足・陰で呼吸は呼気・吸気・呼気となる。正面打ちである。ただし、吸気とともに陽の魄氣で間をつめて振りかぶれば、呼気で振り降りて同時に継ぎ足としてから陰の魄氣で残心とする場合もある。大きく振りかぶり魄氣は陽・継ぎ足・陰で呼吸は吸気・呼気・呼気である。これは正面切りと言える。

 横面打ちについても同様に吸気の陽の魄氣で打って継ぎ足、呼気で陰の魄氣とともに剣を丹田に巡らす場合、正に打ちである。一方吸気の陽の魄氣で振りかぶり、呼気の継ぎ足とともに剣を持つ手が丹田に巡って横面を切り。呼気のまま前の足を軸として入り身転換、または後ろの足を軸として魄氣の陰から、剣の持つ手を陰の陰に返して内入り身で切り返し。これは横面/袈裟切りに相当する。

 打つは魄氣が陰から陽で継ぎ足、魂氣も陽で吸気。呼気で陰の魄氣に魂氣を丹田に巡ると残心。切るは魄氣が陽から継ぎ足で吸気・呼気。魂氣は陰で額から丹田へ降氣。

                                     2015/5/22

教育に資するもの

動作や姿勢、つまり形を伴わない言葉と想いには共感が生まれない。

共感を連ねる確信が曖昧となる。

また、言葉と想いを伴わない動作は真に共有されない。曖昧な伝達から伝統の散漫をもたらす。

三位一体の確かさは伝えられて学ばれる普遍性である。

この新しい捉え方こそが教育に資するものである。


                                      2015/5/31

合氣道は氣の武道である

天地に魂と魄、その間に氣を想う。

魂氣と魄氣が臍下丹田に結んで精気の想いと同時に形が現れる。

禊が合氣道の始まりである。

合氣道とは、その名の通り氣の武道である。あの明快な術理と、緻密な術技と、圧倒的な技倆を示された小林裕和師範のお言葉である。

これまでは、理に適う熟達した動作に出会ったとき、自らの抱く劣勢から相手の一挙一動に圧倒的技量を感じ取ることを(合氣道では接触と把持が中心となることから)、氣と言う浸透力の存在として表現して伝えてきた。

また、相対的に魂氣を発するとは、陰陽の氣の想い(柔の理)で受けの死角に入った上肢を、体軸や足腰による支えのもとで伸展することによって、受けのツボを経て十分な効果をその中心に浸潤させることである。そのことに対して、氣の効力または呼吸力の存在として表現されてきた。

したがって、氣と言う言葉に想いが無ければその動作は合気道ではない。

形の手順を知ってもそれだけに留まる。

氣と言う想いだけで動作が無ければ合気道ではない。

念じて力を込めても伝わることはない。

言葉と想いと動作の三位一体で初めて合気道が生まれる。

魂氣の陰陽。氣を受ける、与える、巡る、発する、結ぶ。

魄氣の陰陽。入り身・残心、転換・回転。

これだけであるが、それぞれに想いと動作があるからこそ合氣道の基本動作と呼吸法(呼吸とともに氣結びを為す)が成り立つ。

                                       2015/6/9

基本即真髄

術理による動作から生まれる形は技を成し、

技を見てなぞる動作は形を成すが術理に裏打ちされない。

稽古においては、正師による言葉と思いと動作の三位一体でこそ、ことごとくを共有できるのであって、さもなくば互いに確たるを見出し難い。

                                                 2016/4/23

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