2020年
9月
30日
水
一教運動表が合気であるために
正面打ち一教運動表で動作される坐技単独呼吸法の〈両手で気の巡り〉から固めまで
合気とは、言葉と思いと動作の三位一体である。
一教運動表の足腰の動作、つまり魄氣は、陰の非軸足先を相半身で45度外(受けの腹側)に進め、入り身運動の継ぎ足の先が受けの真中を指すように送り、同時に足底は交代した軸足の足背を覆うことで非軸足を維持する。体は逆半身へと転換され、静止せずに非軸足を受けの両足の間に進める。そこでは直角に入るわけだが、初動からの体捌きは、三角に進む、あるいは半身を転換することから井桁に進むという表現を教わっている。そこでは逆半身で真中を振込突きで撃つ動作であるが入身一足ではなく、陽の魄気から陰の魄気へと鳥船の動作を行い、体軸の移動までは進まない。その理由は後述する。
三角に進む入り身と同時に両手の動作つまり魂氣は、〝右手をば陽にあらわし 左手は陰に返して〟と道歌が教えるように、非軸足の入り身と共に同側の魂氣は掌に包まれて受けの手刀に触れると同時に、受けの手首内側の空間に陽の陽で発して気結びする。魄気は陽から入り身一足で軸足交代となり体軸が確立する。そこまで体軸が進むことから、受けに結んだ魂氣は自ずと(相対的に)陰に巡って自身の上丹田にも結び、体軸に与ることとなる。受けの手は取りの手首を経て取りの体軸、つまり魄気にも結んだわけである。この動作が合気に特徴的な形を生み出すと言って良いだろう。
間、髪を容れず井桁に進むわけだが、軸足の甲に被せた非軸足と同側の魂氣は、脇と肘を閉じて体軸上で畳むように陰の陽(降氣の形)から母指先を回外して、側頸の高さで掌を開きつつ受けの真中へ陽の陰で振り込み突きとする。その手は受けの上腕伸側を包んで取りの上丹田の高さで緊張伸展し、対側の手は陰の陽で上丹田から下丹田へ体軸上を降りて軸足側の魂氣を維持しながら受けの手刀の手首に結んだまま大仏の手を示す。つまり、脇を閉じたまま肘から遠位を差し出して掌は天を向けて開く、坐技単独呼吸法〈両手で天地に気の巡り〉をそのまま表す形となる。
この姿勢で一教運動表の基本動作として静止することができるのは、取りが受けの真中へ入って魄氣が互いに結び、取りの天の手が受けの手刀の脇を完全に開くことで、受けの対側の手は上体の反り返りを支えるために同側の膝に置いて軸足の確立を維持するしかないためである。
ところで、三角に進む入り身で両手を同時に緊張伸展し、左右並行して受けの手首と上腕伸側を把持しながら、やがて水平に押え込む動作を一つの形とした場合、禊の鳥船による足腰と、呼吸法の〝右手をば陽にあらわし 左手は陰に返して相手みちびけ〟という手の動作がいずれも反映されないこととなる。
井桁に進んで逆半身内入り身の陽の魄気の瞬間は吸気相の極限であって、魂氣の天は陽の陰で最大限緊張伸展し、対側の地は脇を閉じたまま前腕を差し出して受けの手首に取りの尺側手首を十字で密着させている。鳥船のイェイに巡るから、天の魂氣は陰の陽に巡って受けの上腕を包み込んで取りの下丹田に向かう。地の魂氣は陰の陰に巡って受けの手首屈側を包んで軸足側に戻り、下丹田を過ぎて後方へ手繰ると同時に、対側の魂氣が上丹田から下丹田へ降氣で巡る(動画)。
鳥船の陰の魄気となって下丹田にある手は受けの上腕伸側を包んでいるが非軸足側である。体軸に与っているわけではない。すでに対側の手で受けの手首を軸足側に結んだ後に後方へ手繰っているので、受けの対側の手は同側の膝から地に着いて魄気に結んで静止している。そこで取りは非軸足の膝を地に着けて軸足側へと交代させ、同側の手の下丹田での結びを確実にして、しかも体軸に与って地に限りなく近付くから、固めの位置へと動作することになる。
次に対側の膝を着いて、受けの手首を取る手は受けの肘を取りの膝から地へ滑らせて、ここに受けの手刀を作った上肢は伸側全体を地に密着し、取りの両手と共に地に結ぶことで固めが成り立つ。
2020年
9月
23日
水
2020年
9月
20日
日
〝禊は合気であり、合気は禊から始める〟と開祖の教えである。始めに体軸を静止させて呼吸と共に天の魂氣と地の魄気を下丹田に結ぶ動作である。〝天の浮橋に立つ〟と表現されるのがこれであろう。次は鳥船によって軸足と非軸足を確立し、体軸の揺れから魄氣を体感する。そして振り魂によって掌に包んだ魂氣の珠を想い浮かべる。
片手取りや正面打ちでは、魂氣を与えるという思いが手に魂氣の珠を包んで差し出す動作となる。実際に受けがその手を自由にするなら、以後取りは存立し得ない。しかし取り自身が吸気で手を緊張伸展して一気に掌が開き、円を描いて丹田に巡るとき、受けは螺旋で地に落ちて最早魂氣の珠を手にすることができない。合気の技が生まれるとはこのことである。
腹式吸気のはじめで下段や上段に魂氣を与えるとき、対側の手が腰仙部に結んで体軸に預かることから軸足はますます確立し、同側の非軸足を魂氣の珠と共にさらに半歩進める。胸式吸気の加わることにより一層胸が張って上体は自ずと直立する。このとき下段では例えば母指先を内に巡り、上段では受けの手首で一旦陽に開いて結ばなければ足腰を入り身で進めることができない。
もしも非軸足が早々と軸足に交代すると、魂氣の内巡りで入り身転換や、外巡りで外転換といった体捌きが全くできない。なぜなら、軸足交代が成れば魂氣が丹田に巡って結び、手足腰が一致して体軸に与っていることが開祖の所謂〝自然の法則〟であるからだ。ナンバ歩きという言葉は用いられないが、軸足側の手は体軸から離れて動作するわけにはいかない。入り身の継ぎ足や転換とともにその軸足へと交代するまでは、はじめの非軸足(与える魂氣と同側の足)先は地を滑るように自在に動く必要がある。
繰り返して軸足を交代するなかで、取りでは魂氣と魄気が結んで体軸は揺るぎなく、一方、受けは初動の接触から自身の天地の結びが解けたままである。その上で互いの魄氣も結んで体軸が密着すると技の生まれる状況が整ったことになる。
取りの非軸足は再度入り身で受けの真中に進み、体軸から解かれた同側の手には開祖の所謂〝魂の比礼振りが起こり〟陽の魂氣が受けの側頸から体軸へと響く。そこで受けの底丹田を抜けて取りの丹田へと円を描いて結ぶと禊の動作が成り立ち、合気の技が生まれる。
〝合気は禊であり、禊そのものが武道である〟〝要するに天地の気と気結びすることである〟
2020年
9月
16日
水
*ここで陽の魄氣と共に魂氣を前方に差し出して掌を開くと(陽の陽)、受けの手は対側の足先を軸として前方に放たれる。
*魂氣を早々と陽で受けにあてがうと軸足の確立が追いつかず、魂の比礼振りが起こらず(身の軽さを得ることが出来ず)非軸足と共に入り身を動作できない。
2020年
9月
13日
日
2020年
9月
09日
水
*母指先を外に回して前方を指す回外の瞬間に、脇が緩んで肘がぐらつくようだと体軸から解けるわけで、腕だけで受けの下から、しかも陰から陽へ魂氣を発するのは無理。わざわざ四教に返してもらうようなもの。
*地は肘から先だけを陽の陽で差し出す。腰を落として上体は直立、つまり目付は水平に。
*後ろ回転の終末は八双の構えで目付は天。
*先手は相半身で内転換異名側の手を陽の陽で受けの前腕を制する。
*同時は逆半身で受けが手刀を振りかぶる瞬間、外転換で異名側の手を鎬として軸足側に、同名側の手は非軸足側となって自己の顔を対側から外へ拭うように陽で差し出せば受けの手刀に結ぶ。
*後手は逆半身で振りかぶった直後、異名側の手で鎬を作って対側の手を振り込み突きで相半身入り身。受けは異名側の手で外から内に払うのが理合。受けが異名側の掌を開き、顔の前に固定して守るのは無理。
*取りの魂氣が受けの魂氣に結ぶ=崩し、互いの魄気が結ぶ=作り、取りの魂氣が受けの魄気に結ぶ=掛け、取りの魂氣が巡って丹田か体側で取りの魄気に結ぶ=禊=残心=投げ
従って、残心なき動作は合気の投げ技を生まない。
今回の稽古は投げまたは固め技の生まれる直前、掛けの寸前までの稽古。すなわち受身を取る前で中断。
2020年
9月
06日
日
*母指先から魂氣を発して反りに合わせて円を描くから、手首や肘を外に開こうとする動作はできない。むしろ脇がますます閉じて肘は内側に寄るほど、母指先の反りにあわせて魂氣が流れて手首は反屈して外側の虚空に円を描いて肘が伸展し、受けの手の屈側から橈側へ結んで、陽で開いた掌が地に結ぶ。
*正面打ちに鎬を作って入り身転換・体の変更にその場の入り身転換で後ろ回転の終末は非軸足側の手が天を指すことで受けを通して後ろを取る:入り身投げ裏での八双の構えから入り身の足腰の捌き。
2020年
9月
05日
土
*体幹に結ぶ手と体軸(魄気)にまで結ぶ手は同じ陰の魂氣でも、前者は軽くていつでも自由に虚空へ魂氣を発する事ができるが、後者は重さを地に繋いでいるため同側の軸足と体軸とともに決して動かない。言い換えると、体軸から解かれた手であっても一旦魄氣と下丹田に結んだ手は陰の魂氣として体幹に密着し続けることが肝要で、体軸から解かれて陽の魂氣として発せられる直前はその兆しが生まれるときである。それを意識して意識下に留め置くことが動作の上で見えない要点である。
*開祖の〝心の持ちようが問題になる〟とはこのことを指しておられるのではなかろうか。結びとは、出番の無い瞬間に緩むと、いざと言う時に役立たない。結び直そうとする瞬間すでに形勢は逆転して生死にかかわる。
*鳥船の陰の魄気で軸足側と非軸足側の両手は見た目いずれも陰の魂氣であるが、非軸足側の手には陽の魂氣の兆しがある。静止した同じ形の両手であるが天と地ほどの差がある。