〝人間の力というものは、その者を中心として五体の届く円を描く、その円内のみが力のおよぶ範囲であり、領域である。すなわち、相手をその者の力のおよばぬ円外において抑えるならば、相手はすでに無力ゆえ、人指し指であろうと小指であろうと、指一本をもって容易にこれを抑えられることになるわけである〟
〝己れはたえず円転しつつ、なお己れの円内に中心をおき、そして逆に、相手を相手の円外に導き出してしまいさえすれば、それですべては決してしまうというわけである〟(p171〜p172)
〝人を導くにも、また導かれるにも、みな手によってなされる〟〝一方で導いておいて一方で和す〟(p98)
相手を相手の円外に導き出す、とはどのような手捌き足捌きに基づくのであろうか。直立歩行を行うヒトの中心軸は鉛直であり、基本的にはこれを傾斜させた円弧に導くということになろう。
体軸が垂直に立って「吾勝」。非軸足と同側の手が体軸から解脱して身の軽さを得る、いわゆる、「魂の比礼振りが起こる」。つまり「正勝」、それにより母指先から魂気を発する思いで五体の届く円を描くことができる。
体軸が傾くということは、実際の動作において瞬時の微妙な傾斜に他ならない。つまり、体幹軸の直立を維持するためには体軸を放棄して非軸足を踏みつめ、元の軸足を伸展して地を突っ張ることにより、両足で体幹を支える動作が生まれる。魄気の陽と呼ぶ鳥船の吸気相での体勢である。そもそも動作の中の骨組みであるが、静止の状態では「隙だらけ」(引土道雄師範伝)となる。すなわち前三角と後ろ三角の頂点それぞれに、体幹軸が容易に倒れる方向を持ってしまう。
このとき取りの魂氣は受けのそれに結んで一繋がりとなり、受けは体軸・すなわち吾勝を失っている。開祖の使わない用語であるが「崩し」に相当する。
その体勢から受けは継ぎ足によって体軸を前方の足のもとに回復するべく体幹軸がさらに浮動する。同時に取りは体軸を寄せて間を詰める。互いの魄気の結びである。これはいわゆる「作り」である。
そこで非軸足側の魂気すなわち手を受けの真中に、あるいは側頸に接して気力を体幹の芯に及ぼすことが可能となる。いわゆる「掛け」に相当し、吾勝のもとに正勝が働くのである。取りの非軸足は同側の魂気が巡ることで初めて踏み詰めることができ、入り身一足が可能となる。〝形より離れたる自在の気なる魂、魂によって魄を動かす〟(p130〜131)。〝魂が上、表になる〟(p13)という説明もこのことを示唆するものであろう。
魂気が巡るとは、つまり受けの体幹を通って底に抜けた魂気が魂の比礼振りとして取りの体幹に戻り、螺旋で密着することによって体軸の移動と確立に与ると思うことにするのである。足捌きでは非軸足の入り身と継ぎ足が可能となって四肢が一本の体軸を成す〝勝速日〟(p70)で合気の技が生まれることとなる。
一般に、手と同側の非軸足が共に剣線上で同時に働くとき、とりわけ足先が手に先行して踏み詰める場合は「押し、引き」に相当し、合気道の手捌き足捌きには含まれない。
2026/4/2
2. 勝速日から正勝吾勝へ 手捌き足捌きの実際
合気道の残心は動作の終末から次の動作の兆しへ、入り身一足という五体の体軸化つまり勝速日から非軸足と体軸の正勝吾勝へ。一瞬の静止から千変万化を可能にする構えなき構えに。
剣・杖操法による手捌き足捌きの実際:
打って突いて、
二段突き、
八相返しから(体軸)転換・振り込み突き/転換・面打ちさらに転換・振 り込み突き
2026/4/4
植芝盛平合気道開祖の教え『合気神髄』より、
〝人間の力というものは、その者を中心として五体の届く円を描く、その円内のみが力のおよぶ範囲であり、領域である。すなわち、相手をその者の力のおよばぬ円外において抑えるならば、相手はすでに無力ゆえ、人指し指であろうと小指であろうと、指一本をもって容易にこれを抑えられることになるわけである〟
〝己れはたえず円転しつつ、なお己れの円内に中心をおき、そして逆に、相手を相手の円外に導き出してしまいさえすれば、それですべては決してしまうというわけである〟(p171〜p172)
〝人を導くにも、また導かれるにも、みな手によってなされる〟〝一方で導いておいて一方で和す〟(p98)
以上の教えを一言にまとめれば、
「相手をその者の力のおよばぬ円外に導き出し、なお己れの円内に中心を置いて抑える」ということになろう。
導き出す動作に伴う取りの円の変形、つまり中心が体軸と不一致になる瞬間は避けることができない。とりわけ受けの体幹に通じる真中に魂気を及ぼす動作は〝正勝吾勝〟(p70)から体軸をあえて失い、鳥船の陽の魄気で前方の足に体軸を移そうとする足捌きに他ならない。それは入り身一足の前半動作に相当する。受けはその時すでに自ら体軸を失っており、取りもそれと同様の体勢にある。
取りの〝魂気、すなわち手〟(p170)は受けの魂気に結んで円を描き、受けの体幹から底を抜けて取りの体側もしくは下丹田に巡るとともに入り身一足のいわば体軸復活を成して円が完成される。五体(左右の手・魂気と両足で一本の軸足・魄気に目付けが加わる)が全体で体軸を成して〝御柱〟(p131)を屹立するのである。
円を描いて五体が中心を生ずるとき技を生み出します、と開祖は説かれる。これは一瞬の静止である残心の姿勢であり、〝勝速日〟(p70)に相当する。即座に体軸と非軸足を作り、四方八方への発気を可能とする半身・正勝吾勝を生むことができる。したがって半身とは、すでに静止ではなく〝千変万化〟(p70)構えなき構えの姿勢である。
2026/4/13
結論から言えば、正反対に見える両手の捌きには気の働きとして矛盾がない。
まず徒手では、両手が下丹田と腰仙部の前後に螺旋で巡り、前は陰の陰、後ろは陰の陽で結び、両足が一本の軸足となって五体が体軸を成す。開祖の言う勝速日である。相対動作でも入り身投げや四方投げの技が生まれた瞬間の残心であるから、単独動作と変わりはない。
一方、剣の正面打ち込みで入り身一足の瞬間、両手は剣を把持して緊張伸展し、剣先は受けの額に打ち当てている。魂気の陽であり徒手の場合の正反対の形を現している。しかし、魂気は形から離れたところで働きを示しているのである。つまり、勝速日の瞬間、腕と剣は一線になって受けの真中に伸びているが、気力は剣先を経て全て受けの上丹田から体軸へとひびき、実際は瞬間的に広義の陽でも陰でもない。
残心の直後、正勝吾勝へ戻ると同時に柄頭の手は体軸に与り、縁の右手は同側の非軸足先に一致して弛緩するが、伸展したまま剣先につながる気が下丹田から小指球と母指球に流れ来ると思うことになる。まさに魂気の珠を包む思いに変わりなく、合気は禊である、という開祖の言葉の通りである。
魂気の陰陽は形そのものを表す言葉ではなく、また形はそれだけで気の働きを持つわけでもない。剣打ち込みの成立では緊張伸展した手に最早気が滞ってはいない。そして、片手取り入り身転換から体の変更へ軸足交代がなされた時の下丹田の手のように、弛緩して体幹に置かれた手が魂気に枯渇しているわけでもない。魂の比礼振りが起こる、と開祖が比喩的に教えるように、手の緊張伸展が魂気を伝えるものとは限らないのである。
2026/4/20
体の変更も、外転換、入り身転換も魄気の陽ではなくて陰。正勝吾勝の体勢。
残心も魄気の陽ではなくて入り身一足。勝速日の体勢である。魄気の陰から陽を経て、陰に巡って体の変更、転換、入り身転換が成る。勝速日は魄気の陽から継ぎ足で入り身一足にて生まれる。
魄気の陽とは、正勝吾勝から前方の非軸足が垂直に地を踏み詰め、後方の軸足が体軸を失って伸展し、体幹軸が前方に移った瞬間である。それは継ぎ足によって二足で一本の体軸となる勝速日への動作の途中である。また、鳥船で両手の振り出しに相当する足腰の動作である。ただし、その場合は振り戻しによって、静止することなく正勝吾勝つまり魄気の陰に巡って下丹田で魂氣と魄気の結びが成る。魄気の陰こそ安定した静止であり、しかも次の動作に移る変化の兆しを有している。
魄気の陽の瞬間は、静止ではなくて動作の最中の体勢であるということだ。動作の最中に静止すればすなわち倒れる。体軸を伴わず、体幹軸が片寄りのある足で前後から支えられているに過ぎないからである。 2026/5/25