はじめに
合気道に出会った時から何年経っても習熟した達成感をもてず、術理に合点がいかなかったのは徒手技の正面打ち一教である。
初動は受けが手刀で面を打ちかかる。技の完成形は、取りが受けの手刀前腕の掌側を上にして同名側の掌でそれを把持し、対側の手で受けの上腕の遠位側を掴み取って、受けをうつ伏せにして伸展させた上肢全体を地に密着して固める。その過程に術理と術技が形を現しているわけであるが、合気道生には今でも基本中の基本の技と教えられており、一方で最も難しいとされているのではないかと思う。
特定の状況での形はなんとか理解できるものの、裏付けとなる普遍的な術理を教わる機会は長らく訪れることがなかった。そのうちに初めての体験者に指導する立場となり、術技の名称と動作の形を伝えていくだけでは済まなくなっていく。
徒手技の習熟に応じて組み太刀や太刀取りへと展開していく稽古法の場合、手刀が短刀や太刀に代わってそのまま術技が成り立つ訳でもない。技の発展経過から見れば相互に連関しあうものであったと見るべきであろう。つまり、武器技から徒手技への工夫こそ、一教の術理の発見なのである。
多くの先達によって直接教示されたことや、一方でどうしても見とることのできない迅速な捌きへの自分なりの解釈などを積み重ね、直感力や体力の衰えに抗いながら、長い間それこそ試行錯誤を続けている。いわゆる「守破離」の「守」を追求することで精一杯の合気道人生であったと言えよう。
開祖の合気道とは
合気道開祖・植芝盛平語録『合気神髄』より、〝合気は禊である〟〝合気は禊から始める〟と。〝天地の気〟魂気と魄気を丹田に結んで地に直立する体軸を作り、対側の手・魂氣に同期して非軸足・魄気を自在に動作しては体軸交代を連ねる。合気道の単独・相対動作における気結びと体捌きである。前者は「呼吸法」(『合氣道』植芝吉祥丸著)、後者は〝入り身転換法〟と呼ばれている。
相手と気結びを成し、その迫力を相手に戻して互いが釣り合う一瞬から相手をその場で、または再び手、足、体の捌きとともに導きながら、技を生み出していくところが合気道の奥義であろう。すなわち、相手の迫力を相対的に無とする動作が気結びと呼ばれ、合気道の様々な動きや技の原点となるのである。相手と一体となる、と表現されることも多い。
気結びの前に力の衝突や拮抗が起こり、それによる互いの停止が一瞬たりとも生じることは、一体となることの対極にあるのだ。開祖の言葉からは「脱力」や「力を抜く」という語句は見出せない。植芝守央道主著『合気道 稽古とこころ』においては「力の抜けた」状態と教示されている。
少し長くなるが以下に開祖の言葉を引用する。〝「気の妙用」に結ぶと、五体の左は武の基礎となり、右は宇宙の受ける気結びの現れる土台となる。この左、右の気結びがはじめ成就すれば、後は自由自在に出来るようになる〟〝すべて左を武の土台根底とし、自在の境地に入れば、神変なる身の軽さを得る。右は左によって主力を生みだされる。また左が盾となって、右の技のなす土台となる。これは自然の法則である〟〝左はすべて、無量無限の気を生みだすことができる。右は受ける気結びの作用であるからすべて気を握ることができる。すなわち、魂の比礼振りが起これば、左手ですべての活殺を握り、右手で止めをさすことができるのである〟(p105〜106)
〝土台〟とは軸足・魄気と同側の手・魂気が結んで生まれる体軸を意味して〝吾勝〟と呼び、対側は魄気から〝解脱〟した非軸足と同側の〝手・魂気〟であり、〝神変なる身の軽さを得る〟と同時に〝無量無限の気を生みだすことができる〟。それは〝魂の比礼振り〟に喩えられ、〝正勝〟と呼ばれる。左右を交代させる手足の捌きが〝心の持ちよう〟で自由自在に連続して体捌きが成される。継ぎ足と魂気の巡りによって五体が一本の御柱になるとき、まさに合気の技が生まれる。これを〝勝速日〟という。正勝吾勝勝速日という古事記による神名に喩えられたこの術理こそは禊と合気道の術技を繋ぐものであろう。それは次のように明言しているからだ。〝正勝、吾勝、勝速日とは武産合気ということであります〟(p65)。
合気道の正面打ちについて
正面打ちに対する技の起こりは受けが手刀を振りかぶる動作を目視する瞬間である。半身の場合は正勝吾勝で静止しているのが合気道の体勢であって、受けが振りかぶる瞬間、取りが同名側の足を踏み詰めると同側の手は魂氣を発することができない。その場で体軸とならざるを得ないからだ。それでも受けの手刀に合わせて互いの中間点で対称的に手首が競り合ったとき、対側の後方にある軸足はすでに緊張伸展して体幹軸との体軸形成を失っている。また、前方の手足は体軸になりきれず、地から足、腰、体幹を通して手に魄気の働きを及ぼし、接点で受けに拮抗して静止するか抑え勝つしか方法はない。この体勢は鳥船の陽の魄気であり、静止すべき形ではない。
合気道では〝どんな機会をこしらえても、自己の気の動きでこしらえることが大切である〟(p18)。〝気が巡るのです〟〝魂の気で結ぶのです〟(p29)。〝魂の気で、自己の体を自在に使わなければならない〟(p18)。〝魄の世界を魂の比礼振りに直すことである〟(p149)。〝自己の肉体は、物だから魄である。それはだめだ。魄力はいきづまるからである〟(p18)。
正面打ち一教の術理
相半身で受けの振りかぶりの瞬間に正勝で非軸足を進めて同時に魂氣を同側の掌に包んだまま母指先から陰の陽(掌屈)で発し、受けの手刀には尺側ではなく橈側で接する。小林裕和師範の教えである。その瞬間手根を伸展・背屈して母指以下緊張伸展で掌を開くと、接点は取りの手首伸側によって線を描いて受けの橈側に向かい、接触面ができて受けの手刀の峰を超え、取りの手掌は天に開いて受けの手刀と体幹との間にある空間へと入る。つまり、取りの母指先から気の流れを思い、緊張伸展した取りの手掌は指先が揃って受けの眼裂を横切りにする動作へと進む。引土道雄師範の教えである。これを気結びと呼ぶことにする。小林裕和師範は「真中を撃て」と。
そこでは受けの体幹軸に取りの魂気と同側の非軸足が接近し、元の軸足は伸展して体軸を失い、いわゆる陽の魄気が生まれる瞬間であるが、その後方の足を同側の手と共に引き寄せると五体が一本の軸・〝御柱〟となる。前述した〝勝速日〟である。受けの体幹軸には取りの体軸が接して一体となり、互いの魄気が気結びしていると思うことにする。ここに互いの競り合いは消えて取りの体捌きが自在に行われる。
後方の手の引き寄せは魂気を包んだまま母指先を振り込み、受けの手刀側の側胸から腋を突く。このとき受けの体幹に接する寸前に掌を開き、矢筈に開いた第一指間を受けの上腕近位伸側に嵌めて陽の陰で包みこむと同時に同側の足は非軸足に交代してそのまま前方に進め、足先は受けの体幹軸に向かって踏み詰める。同時に同側の手は陰の陽に巡って腋が閉じると上肢全体が自身の体幹に巡り、対側の手は掌を返して受けの手刀の手首屈側を取り返し、後方に流して同側の足は吾勝で軸足とする。対側の足は受けの前三角に進んでいるが魄気の陽から即陰として鳥船近似の体捌きとするから同側の手と共に受けの上腕は下丹田に巡る。一教表が成立する。
そこで正勝の非軸足はすぐに膝を着いて下丹田の手は魄気に結んで体軸を成し、受けの上腕に連なるその体幹は地に結ぶこととなる。対側も膝を着いて正座すると受けは上腕屈側と前腕伸側を地に着けてうつ伏せとなり、それぞれが取りの両手から体重を受けて一教表の固めが成り立つ。
おわりに
尺骨より橈骨が太い。手根と尺骨には関節がない。橈骨は手根と母指に関節で繋がる。
掌を天に向けて開けば母指先は橈側に反る。真中を撃って魂気の珠を真空の気に戻せば母指先に導かれて魂気すなわち手は円を描いて体側に巡り、丹田に結ぶ。
道歌〝右手をば陽にあらわし左手は隂にかえして相手導け〟
「魄阿吽の理念力」のタイトル(2025/4/25)より再掲