開祖の言葉から、合氣は天地に氣結びする。すなわち天の魂氣と地の魄氣を丹田に結んで命が確立することを心に思う動作である。つまり禊に他ならない。
今、魂氣を掌に包んで与えると受けが取ろうとする。与えた手は受けのものであるが、魂氣と、それを包んで蓋をした母指先は未だ取りのものである。
そこで、呼気に合わせて手首を弛緩屈曲し、魂氣を母指先から下丹田に巡り、体幹が腋を閉じて下丹田は魂氣を迎えにいく。すると腕は取りの体軸に与って体の一部となる。これは禊を繰り返す動作に相当する。
ところで、体幹が腋を閉じるためには与えた手の同側の足が非軸足のまま、受けに対して逆半身でさらに半歩入り身することが必要である。ということは、軸足を作って対側の非軸足を軽く半歩出し(三位の体)同側の掌に魂氣を包む。与えて下丹田に巡らすと同時に入り身した足先を内股で着地すると、その瞬間は陽の魄氣となっているが鳥船とは逆で、魂氣は広義の陰で腕が全体に体幹へ密着して、小手返しの手(狭義の陽)である。
軸足交代して足底をさらに45度内に捻じると、陰の魄氣となって目付けと下丹田は180度転換する。非軸足となった対側の足先は135度外に回りつつ軸足側に引きよせられて半身が左右転換する。
今や魂氣を包んだ手は受けに連なったまま下丹田に密着し、体幹の一部となって、すなわち取りの魄氣は魂氣と氣結びしながら受けの魂氣と魄氣にも結び、受けは自身の氣結びを解いたまま取りの体軸に膠着せざるを得ない。一方、取りの対側の手足先は体軸から解かれて前方を指し、自在に動作することのできる状態にある。これを片手取り入り身転換と呼ぶ。
受けに与えず腰仙部に置いていた方の陰の魂氣は今や空間に円を描き陽の魂氣として発することが出来る。非軸足は千変万化で、例えば後に置き換えると再び軸足へと交代し、同側の魂氣は腰仙部に巡って軸足とともに体軸に与る。そうなると下丹田の魂氣は体軸から解脱し軽さを得て、いつでも魂氣を発する兆しができる。つまり〝魂の比礼振りが起こる〟ことに相当するのであろう。体軸は受けと同じ方向に転じたまま、はじめの半身に戻る。これが体の変更であり、魄氣は陰であることに着目すべきである。
体の変更は入り身転換とともに、相対基本動作としてここから様々な技が生まれる。千変万化と表現されている。しかし、受けに与えて下丹田にて魂の比礼振りを起した手の同側の非軸足をさらに半歩前方へ進めると同時に吸気で魂氣を陽の陽に発するなら、受けは取りの体軸から放たれて前方へ一歩進んで向き直ろうとせざるを得ない。片手取り入り身転換から体の変更の後、陽の魄氣で受けを前方に放ち、左右を入れ替えて片手取りの連続動作が可能となる。
2020/3/23
天地の間にあって生きることを動きではっきり自覚できる。
つまり天の浮橋に立つ禊である。
加えて人と関わる時には技が生まれて互いの命を感じる。
何れも合気である。
殺気の皺ではなく、生気の緩みが現われる。
2020/3/6
魄氣の陰陽
魂氣の包まれた手を与えて片手取りに導いたところで同側の足先を軸にした途端、受けにとっては固定した対象となるから、技以前のこととなる。つまり鳥船のホーで与えては合気の技における基本動作となり得ないわけだ。
一方、イェイで魂気を下丹田の両側に結んだ姿勢は、胸郭を一杯に開いたうえで腹式呼気により下丹田を引き締めて全体重を後ろの足に置き、その軸足を地から魄気が昇って体軸の確立する思いを持つ。従って対側の足は伸展して足先がかろうじて地に触れているだけで、軸の位置から〝軽く半歩出した〟状態である。開祖の言葉からはこの姿勢が千変万化の体捌きを生む。わたしは鳥船の足腰の姿勢について、前者を魄気の陽、後者を陰と呼んでいるが、合氣道では魂氣を与える場合、陰の魄氣に限ると開祖は教えていることになる。
片手取り
稽古の心得によると、単独動作を終えて相対動作に入れば片手取りで〝体の変更より始める〟のであるから、右足を踏み直して軸とし、陰の魄氣で左半身から魂氣を与える。つまり、左の掌に魂氣の珠を包んでいることを思い、左足先を軽く進めると共に母指先を地に向けてその手を下段に差し出す。これが片手取りという用語とその思いと具体的動作の三位一体である。
魂氣三要素
受けが右手を伸ばす瞬間、取りは母指先を腹側に向ける。これを内巡りと呼ぶことにする。下丹田側に向けることで魂氣と魄氣の結びによる自己確立へとつねに戻るべく動作していることになる。これは円運動の始まりであり、魂氣が陽で発せられて陰に巡り、丹田へ結んで安定するまでの手の動きを魂氣の働きによるものと思うことにして、これを魂氣の三要素と呼んでいる。陽で発して陰に巡って下丹田に結ぶ、陰陽・巡り・結びである。
体捌きとしての体の変更
なお、魄氣の三要素は、はじめに述べた陰陽と、次に詳述する入り身と転換である。魂氣と魄氣のそれぞれ三要素を同時に動作する中にあって、手足腰目付けの同期する最も基本的な動きとして、しかも互いに左右の半身で連続して鍛錬することのできる相対基本動作として、体の変更を先ず一番に上げたのが開祖である。
基本動作から様々な技が生まれるにあたって、いわばその分岐点として一瞬の静止が体の変更の動作の中に切り取られることはあっていいだろう。しかし、合氣を動作することの基本であるからには、受けに結んだ取りが受けの動作を封じながら静止を保つ状態を良しとするのは体の変更にはそぐわないのではないか。
片手取り外入り身転換
ここで、左半身の片手取りに体の変更を魂氣と魄氣の働きとして、即ち気結びの動作に伴う体軸の自由な移動として定義していく。左半身片手取りに内巡りで剣線から内方に僅かな隙間が作られるから、そこへ同側の非軸足をさらに半歩前に進めて受けの外に逆半身で入り身を行ない、足先を内股にして着地する瞬間、魄氣の陽となる。差し出した腕は腋が完全に閉じて、掌は狭義の陽(小手返しの手)で下丹田に密着している。ここに左足を軸としてさらに内方向へ45度足底で地を捻り、体軸の完全移動、つまり軸足の交代を成し遂げ、左手は体軸に与って左半身(はんしん)全体が体軸となって、しかも下丹田は体軸上で180度転換して右半身となっている。右足は伸展しながら非軸足となって足先が地に触れるのみで、左の軸足側に引き戻される。魄氣の陰に戻ったわけだ。受けに与えた左手は下丹田に結び、受けの手と受けの体軸は自ずから気結びが解けて、それぞれ取りの体軸、左半身(はんしん)に膠着している。ここまでの動作は左半身片手取りから外入り身転換と呼べる。
片手取り外入り身転換から体の変更
次に体の変更へと進む。右半身で右手は陽の陽で差し出し、右足が非軸足となっているからそれぞれを後に置き換えて、手は腰仙部に結び、右足は軸足へ交代して体軸側となる。再び左半身の陰の魄氣で下丹田にはそのまま受けの手に連なる左手が密着したままだが、最早体軸から解脱しており、左足とともに自在に動かすことが出来る。このとき左手は〝身の軽さを得て〟〝魂の比礼振りが起こって〟いると表現して良いだろう。
体の変更は元の半身で陰の魄氣となりながら、取らせた受けの手を下丹田に結び、その体軸を側湾させて取りの直立した体幹に密着させる。つまり受けは魄氣の働きである軸足と体軸の確立が失われている。しかも、下丹田の取りの手は受けと取りそれぞれの体重から解かれており、陽の魂氣を発して受けを自由に導くことが可能となっている。これを体の変更とする。
体の変更を通る捌き
それで、左半身の陽の魄氣で左足先を更に半歩出して、左手を陽の陽で前方空間へ吸気いっぱいで差し出す、〝空の気を解脱して真空の気に結ぶ〟。受けは取りの下丹田から取りの陽で伸展した上肢を伝って前方へ滑るように放たれるであろう。すぐさま取りの方向に向き直って左半身となった所へ、取りは右半身で右手を下段に与える。体の変更から陽の魄気で入り身転換の連続動作である。
体の変更からその場で入り身転換すると後方回転が完成する。外転換して非軸足先を受けの後ろ三角に置き、下丹田には陰の陰、腰仙部に陰の陽で魂氣を結ぶ入り身運動の残心では隅落とし裏が生まれる。
2020/2/23
『合気神髄』より
太字は氣、魂氣三要素:陰陽・巡り・結び、合氣、魄、魄気三要素:陰陽・転換・入り身に置き換えられる。
P124
合氣は和合の道、全人類、全宇宙が大きく和して一体をなすべき万物本来の姿の現われである。すなわち宇宙の中心は一つであり、その動きが宇宙建国の営みとなってこの世に経綸を行なう。
P162
真の武道は大きく和するの道であり、身心の禊である。
P125
愛がなければ国が、世界が、宇宙が滅びる。愛より熱も出れば光も生じ、それを実在の精神において行なうのが合気道であります。それを人が行なう。人は最後に創られたものだからして、生命と祈りとで造られている。いいかえれば宇宙の要請によって造られた。すなわち引力の固まりである。ゆえに人々はすべてのものの主体となって宇宙の経綸を行い、造り主の御心を表に出すよう努めなければならないのであります。 中略
P126
それは同時に自己の完成であり、それぞれの分野で立派な花を開き、実を結ぶことです。
P128
すべて心が定まってくると姿に変わって来る。深呼吸のつもりで魂で宇宙の妙精を集め、それを吸収する。 中略 宇宙の造り主に同化するようずーと頭に集め、造り主に聞く。すると気が昇って身中に火が燃え、霊気が満ちて来る。
P129
天の気は陰陽にして万物を生み出す。 中略 その浮橋にたたなして合気を産み出す。これを武産合気といいます。
今までは形と形の物のすれ合いが武道でありましたが、それを土台としてすべてを忘れ、その上に自分の魂をのせる。自分に愛の心が無かったら万有愛護の大業は成りがたく、愛のかまえこそ正眼の構えであります。 中略 武の極意は形はない。心自在に生ず。気は一切を支配する源・本であります。
P130〜131
形より離れたる自在の氣なる魂、魂によって魄を動かす。この学びなれば形を抜きにして精進せよ。すべて形にとらわれては電光石火の動きはつかめないのです。
一切の力は気より、気は空に結んでありのままに見よ。箱の中に入れるな。 中略 気の自由を第一に悟れ。気の流れを知りつくせ。
2020/3/12
〝形より離れたる自在の気なる魂、魂によって魄を動かす。
一切の力は気より、気は空に結んでありのままに見よ。箱の中に入れるな。
気の自由を第一に悟れ
心自在に生ず〟
形とは箱、器のことであろう。器の形やその変化や堅さ、それを動かすことに心を使って苦労するのが合気の修練ではない。
形を作る魄の気は目に見えるわけではない。地から足に受けて丹田に結ぶから、軸足を通して体軸が確立するという心の持ちようで確信するだけだ。その意味で魄気は空に結んでいるのであるが体軸は地に根を張っており、まさに固定しているのであって相対動作では魂気を通して受けに連なっている。
ところで、体軸に与る側の魂気は魄気に結んで器を成してはいるが、軸足の交代で魄気から解かれたとき、形から離れた心のたましい、つまり魂気は自由であり、虚空に発する事ができる。開祖はこれを特に、真空の気に結ぶ、と言い表している。
箱の中に入れっぱなしではなく、形から離れて新たな体軸へと移動して再び魄気と結ぶなら、軸足交代によって魂気が形を、魄を動かしたわけである。だから合気は禊であるということになる。
形より離れたる自在の気なる魂、これを魂の比礼振りが起こること、と開祖は表現されたのであろう。
2020/3/13
心のたましいは天に昇って魂となり、体のたましいは地に下りて魄となる。天と地の間にある物はことごとく気によって成り立っているとする。したがって人も気によって創られているのであるが、その命は天から手に受ける魂気と地から足腰に受ける魄気が丹田において結ぶことで活性化される。この動作を広く合気と呼ぶ。
特定の合気の動作は禊として知られるところであるが、その一つである鳥船の呼気相では魂気と魄気が下丹田において気結びし、同時に魄気は片側の軸足を作って体軸が確立しており、これが合気の動作における究極の静止である。このとき対側が完全に非軸足となり、魂気は丹田にありながら魄気との結びは解けて、自在に虚空へ発する兆しを有することになる。これを開祖は、魂の比礼振りが起こる、と表現されたのであろう。身の軽さを得る、とも述べられている。
非軸足先を自在に置き換えるとき、同側の魂気は母指先から発せられ、円を描いて魄気に合わせて置き換わる。例えば、非軸足を後ろに回して軸足交代するなら、同時に魂気は陰のまま腰を半周巡って腰仙部に結び、対側の魂気(手)と交代して体軸に与る。この動作が合気であり、魂気と魄気の働きで対側の手・足・腰に気結びが行なわれたのである。
これは片手取り入り身転換から体の変更への動作と静止である。下丹田も腰仙部も体軸上にあって、そこでの魂気と魄気の気結びは、移動した場所に体軸を確立することとなる。したがって鳥船の呼気相での姿勢に一致する。これは体を三面に開くこととされ、吸気相のように軸足を失った体軸が両脚の間で地から離れた姿勢とは異なることに留意すべきである。
開祖が『合気神髄』のなかで教えているように、合気とは確たる軸足の固定によって非軸足を生み出し、自在に移動することで所謂千変万化の体捌きを可能とするものである。体軸に与っていた魂気が軸足交代に伴って魄気(開祖は空の気と呼んでいる)を解脱し、すなわち魂の比礼振りが起こって陽で虚空に発せられ(真空の気に結び)、円を描いて体側に巡る。つまり、腋が閉じて魂気は陰となって再び自らの体軸に結ぶ。
相対動作においては魂気が陰陽・巡り・結びの間に受けの体軸にひびき、受けの魂気と魄気の結びを解いてその底を抜き、取りに還って来ることとなる。受けは螺旋に落ちて合気の技が生まれるわけだ。以上は片手取り外(入り身)転換・昇気呼吸法表(裏)の術理でもある。
呼吸法とは呼吸と共に気結びをなすこと、すなわち合気そのものであり、しかも武技を生み(産み)出すのである。武産合気と呼ばれる所以である。
2020/3/19
理業一致(千葉周作)
私見:術理無き動きは術技に非ず、陰陽の巡り無きに術理在らず。
真中を外して、真中を撃て(小林裕和)
私見:まず転換で剣線を外して入り身。または入り身で外す、こちらが速い。軸足を確立して体軸が直立しなければ、二寸の開きを動作しきれない。
横面打ちに逆半身異名側の手で合わせて外転換へ・同名側の手は自身の顔を拭うように受けの手刀を払って陽の陽で気結び、異名側の手は、外転換で置き換える非軸足に合わせて下丹田に巡って、再度軸足交代で逆半身外入り身にて返し突きを受けの真中へ。
正面打ちに相半身同名側の手で合わせて内転換へ・異名側の手は自身の顔を拭うように受けの手刀を払って陽の陽で気結び、同名側の手は、内転換で置き換える非軸足に合わせて下丹田に巡って、再度軸足交代で相半身内入り身にて振り込み突きを受けの真中へ(動画)。
2020/4/1
受けが取りの五体という箱に圧縮されたまま地に激突することを避け、空間に身を泳がせてから体表の筋肉で丸く受け止め、着地する。主導的に稽古を導く高段者は互に接触するときに概ねこの様な術技を指導演武として示すものである。
受けの理合に加えて受け身の熟達が妙技を生むことにつながっている。その様な受け身の修練が未だなされていない所謂初心者と、一方すでに修練するも筋肉・骨格の老化した高齢者が、その名人芸を学ぶことはいずれにしても困難であろう。
合気の動作によって技が生まれることを体得するのが普段の稽古であり、そのことから合気が心身を活性化し健全な心と体躯を育むことは、開祖の教えの核心であるはずだ。したがって、受けは取りの体軸を直に地へ落ちることの無い受け身ができれば良く、取りの生み出す合気の技こそそれを可能とする術理に裏付けられていて然る可きなのだ。つまり取りの体表面を螺旋で滑り落ちる術技である(動画①、②)。
入り身一足で体軸が直立し、受けを通り抜けた魂氣(両手)が陰で巡って体側に密着して下丹田と腰仙部に結ぶ、残心の瞬間に生まれる技こそ合気であり、言葉と思いと動作の三位一体であり得る。
人の患いは 好んで人の師と為るに在り 孟子
人たる者の困った点は他人の先生になりたがることである。
慢心は向上を妨げ、人を遠ざけ、学びの機会を失う原因になる。
2020/4/4
合氣道の稽古中、どう見ても呼吸時:呼気相と吸気相、の動作が判然とせず、それぞれに同期した手足腰の動きが見て取れない場合がある。
取りにおいては、休ませる手は終始弛緩して減り張り無く脱力しっぱなしに見え、受けはフラフラと取りに従っているように見えるのである。一方、手刀を作る腕全体がのべつ曲がらないことに意識を集中させ、掌の向きは天地から逸れて真横に固定され、魂氣が狭義の陽でも陰でもない状態で腕全体を終始木刀のように、つまり広義の陽で働かせる。
体捌きでは体軸を常時両脚の間に置いたまま静止に移行するから、手が魂氣の陽を発しても巡りきれないで、受けの真中にひびくことがなく、取りの丹田(魄気)にも結ばないため合氣の完結をみないこととなる。
開祖の教えによれば、合気道は禊である、と。
ところで、呼吸法は呼吸とともに魂氣を陰陽で動作し、巡って丹田に結ぶ禊そのものであるはずだ。魂氣が巡るとは円運動であり、相対動作ではその間に受けのつぼを経て受けの体軸にひびき、陽の魂氣は陰で取りに巡って合気の動作が終わる。残心である。そこに技が生まれている。
受けは取りの手を取ることによって自身の魂氣と魄気の結びを解く。取りは手を取らせると同時に転換・入り身・回転で受けの魄氣に結んで体軸の安定を奪う。また、受けの上段に魂氣を与えるときは受けが手刀で正面を守る。受けは魂氣と魄気の結びを解いて動作を始める。そこに取りの魂氣と魄氣が働き、前者は手の陰陽/巡り/結びで円運動、後者は陰陽/転換・回転/入り身の体捌き、言い換えると軸足の確立と軸足交代である。
魂氣は受けの側頸や腋窩を通して真中の体軸に響くわけである。受けの体軸を経て腰仙部や底丹田から抜けた魂氣は取りの体軸で氣結びが行なわれ、つまり合気がなされて受けが螺旋で取りの後方に落ち、技が生まれる。
気結びとは、受けとの接点から魂氣が拳一つ分以上中に入ることであり、魂氣(手)は受けの上肢や前胸部を伝って側頸や腋窩や受けの真中に及ぶ。漆膠の身と言われるように、魄氣が互いに結んで、密着した状態から魂氣が働くのである。しかし、接点より内側に入れず、互いに体軸の離れた状態では魂氣をひびかせることができない。接点で互が止まって、掌は虚しく開くのみで同側の足底を踏ん張って足腰からの力で接点の均衡を保つのに精一杯である。
結びの無いところでは受けの真中に魂氣がひびかないわけだ。反対に、結んでいれば受けの真中に向けて魂氣を発し、それは受けの底を抜き、取りが上体を直立させて迎えに行くから自身の丹田に巡ることが出来る。合氣の完結である。
上体の直立、軸足から頂丹田までの体軸確立は魂氣と魄気が結ぶことと同義である。つまり、合気には二足歩行で自然に現れる姿勢が必須なのだ。従って、動きは軸足の確立した陰の魄氣からはじまり、軸足交代、すなわち転換・入り身・回転で陽の魄氣を経て体捌きが続き、静止の瞬間は二足が一本の軸足となるとき、つまり残心である。
この直後に小さく息を吸って半歩軽く足を出し、他方を動かさずに軸足とすれば、陰の魄氣であり静止でありながらつねに動作の準備が済んでいる姿勢である。『合気神髄』では〝三位の体〟、口伝では非軸足先が三方に進み得る〝三面に開く〟。無論この際も上体は直立、目付けは自ずと水平で最大限の視覚を保持し得る。
2020/4/14
開祖は魂氣と魄氣の働きが千変万化の動きをもたらす、と教えておられる。
所謂体捌きと手の活用が武技を生み出すことについて、合氣の剣の音無の剣を例にして考えを述べるが、その前に、
軸足の確立に続く非軸足の置き換え無くして、転換、入り身、回転は生まれないし、このような体捌き無くして受けの真中を優位に撃つことはできない。
さらに、軸足交代無くして体軸の移動はできない。
つまり、両脚が地を踏ん張って(魄気の陽)上体だけで体軸を捻っても、魂氣(手)の働きは広義の陽となり得ない。軸足と非軸足の裏付けに続く入り身一足(両足が一本の軸足)が得られて初めて魂氣は発せられる。
突きに対する音無の剣:
① 自然本体(天の浮橋に立たされて)から左足を後ろに開いて右半身陰の魄氣で受けの真中へ突きの構え。受けは剣先で内に払うから
② 右非軸足を剣線の左に置き換えながら剣先を右非軸足先に合わせ、右足を軸とする
③ 左足を前方に一歩踏み出して左逆半身陽の魄氣から外入り身で受けの真中へ剣先を突き出すと入り身一足で左脇が閉じてしまう。突いた形にも魂氣は陽で放たれない。
以上の動作を、以下のごとく正しく合氣することで、突きの確実性と速さが増すことになる。
① 自然本体から左足を後ろに開いて右半身陰の魄氣で受けの真中へ突きの構え。受けは剣先で内に払うから、取りは右非軸足を伸展して剣線の左に置き換えながら左軸足の膝頭に右膝窩を被せて剣先を右非軸足先に合わせ、
② 右足を地につけて軸を作り、左足先を一歩前に置き換えて踵を軸足先に接して、同時に右足底を45度外に捻って陽の魄氣から左半身外入り身一足で受けの真中に剣先を突き出す。左半身陰の魄氣で残心のとき左脇は閉じる。
突きを逸ると、腰が過剰に開いて上体が捻れるばかりで、むしろ腋が閉じて
陰の魂氣に止まる。
軸足無き体捌きは取りの真中を外すことができない、
打突を逸ると受けの真中を魂氣で撃つことができない。
魂氣と魄氣それぞれの働きを知って動作することが合氣である。
2020/4/23
合気とは禊からはじまる、禊は合気である。禊の動作は開祖の言葉とその思いとの三位一体である。
つまり『合気神髄』において繰り返し語られる開祖の言葉には、心の持ちようとそれぞれの動作が伴うのである。あらゆる言葉が開祖の様々な表現によって生まれ、ことごとく合気と体捌きに集約される。例えば、合気とは真空の氣と空の氣の結びである、という言葉に着目してみよう。それは、天の魂氣と地の魄氣が結ぶこと、とも表現される。その動作には、魂氣の働きと魄気の働きが明確に表されることが必然である。
それでは魂氣と魄気の働きとは何か。まず魂氣とは、吸気で広げた両手に天から受ける心のたましいであって、その思いによって呼吸と共に誰もが陰陽・巡り・結びという手の動作を生み出すことができる。つまり禊の思いであり動作である。また、単独動作の坐技呼吸法がこれに相当する。呼吸にともなって魂氣は動きを手に与え、同時に丹田を通して体の中心に活力をもたらすのである。
次に魄氣とは、地から足腰に伝わって体軸を真っ直ぐに支える体のたましいである。鳥船の呼気相で魂氣を下丹田に結ぶときの直立する体軸こそは魄気の働きによるものである。さらに吸気相では軸足が進展して体軸を前方に移し、非軸足が魄氣を受けて地を踏めば体軸は両脚の間で浮遊する。鳥船のホーの姿勢であり、これを魄気の陽とし、軸足を作って魂氣を下丹田に結んだイェイの姿勢は魄気の陰と呼ぶことにしている。
そこで、進展した後の足が地を離れると軸足の交代が瞬時になされ、継ぎ足によって二足が一本の軸足となる。入り身・残心の動作だ。このように軸足の交代が連なることでさまざまな体軸移動が可能となり、同時に五感と手のはたらきが最大限で発揮されるに違いない。魄気の働きは陰陽・入り身・転換と回転の三要素から成り、足腰の動作を可能とする。
ちなみに、片手取り入り身転換の陰の魄気から非軸足を一歩後ろに置き換えて、元の半身で陰の魄気になれば体の変更である。そこで、陽の魄気とともに魂氣を陽で発すると受けは前方に放たれるわけであって、下丹田への結びを解いておきながら、しかも陽の魄氣とともに受けを取りの体軸に留め置こうとするのは三位一体を忘れた動作であることを知るべきだ。
魂氣と魄気が体軸上の丹田に結ぶ合氣は、直立する体軸上で手・足・腰・目付の変化が統一性を持って完結する。このときが残心の姿勢である。合氣の武技が生まれる瞬間だ。武産合氣の思いと動作をここに万人が共有するだろう。
合気道に特有の語句が基本動作や術技と具体的に結びつかず、文章表現の上でもそこを曖昧にしたままでは概念を共有することが不可能である。また、合氣の言葉と思いが動作を置き去りにすることは観念の空転に過ぎない。合氣の理業一致で生まれる特有の動作が、今後も共有されることのないものであれば、『合気神髄』の文章は虚しさの蓄積に他ならない。
2020/5/6
片手を鳥船のホーで与えた瞬間に母指先を内に巡って同側の非軸足で入り身すると、与えた手(魂氣)は同時に広義の陰へと巡って腋が閉じ、小手返しの手(狭義の陽)で下丹田にて陰の魄氣と結ぶ。
進めた足先は軸足交代によって半身の転換を行なうと、鳥船でイェイと軸足を作った体軸の直立状態となり、目付けと腰は半回転する。
そこから体の変更である。非軸足を一歩後に置き換えて軸足交代すると、半身は元に戻ってなおも陰の魄氣である。下丹田の魂氣は広義の陰であり、上肢は体幹に密着したままで、手首は小手返しの手であって、これを陰の陽の魂氣と表現している。
しかしながら、手は下丹田に着いたまま魄氣との結びが解けて体軸から解脱しており、このことを開祖は〝魂の比礼振りが起こった〟と表現され、〝身の軽さを得る〟とも言われる。であるからこそ、初めて広義の陽の魂氣で手を差し出すことができる、つまり陰の陽で密着していても魂氣を発する兆しが現われているのだ。
受けの重さと取りの体軸は対側の足に移り、与えた手の対側の手は陽仙部に回すから魂氣とその同側の軸足(魄気)が結んで、陰の魄氣を現している(動画:体の変更から基本技へ)。
そこで、後方の軸足を伸展して体軸が両足の間に揺れる魄氣の陽とするなら、魂氣は初めて下丹田から陽の陽で発し、取らせている受けの手をそこから放つことができる。
入り身転換のときから受けの体軸は取りの体軸に接して魄氣の結びがなされており、体の変更で軸足交代の瞬間、受けの重さ(魄氣)は取りの新たな軸足側へ移る。
つまり、この瞬間に、取らせた受けの手と同側の非軸足は受けの重さから解かれることとなる。開祖の〝空の気を解脱する〟動作であり、同時にこれを〝心のもちよう〟と表現されている。
即ち、言葉と思いと動作の三位一体である。
2020/5/14
動画;片手取り入り身転換から体の変更の陰の魄気から外転換してその場で入り身運動。二法目は体の変更の陰の魄気から外転換して体の変更の陽の魄気(後ろ半回転)。
腰が引ける
体軸が前屈する、軸足不在
魂氣が巡るべき下丹田に届かない
魂氣と魄気の結びがならない
禊がれない
合気がなされない
概して、片手が垂れて魂氣三要素を忘れ、両足が地を踏んで常時止まる
一方
軸足が腰を起こす
腰に体軸が直立する
下丹田が魂氣を迎える
魂氣が魄氣と結ぶ
禊、合気がなされる
武技が生まれる
つまり両手が魂氣三要素で働き、両足が地を踏むのは入り身一足の残心のみ
軸足が確立して同側の手が陰の魂氣で下丹田もしくは昇気で側頸に進み、魄気と結んだ後、対側に軸足交代すると非軸足が生まれて(空の気を解脱して)同側の手に魂の比礼振りが起こる。
下丹田もしくは側頸と結んだ魂氣に陽の兆しが起こり、吸気で非軸足を進めるとともに空間へと円を描けば魂氣は真空の氣に結び、入り身で軸足が再び交代して直立した体軸上で魂氣が下丹田に巡って魄氣と結べば、相対動作では残心に相当して合気の武技を生む(動画)。
2020/5/16
動画:魄気の陰は体軸の確立、陽は体軸が前後に揺れる瞬間で静止の姿ではない。
静止の姿は唯一残心の瞬間、つまり、二足が一本の軸足になる入り身の終末。
〝阿吽の呼吸の気の禊によって生じた武の兆しは、世の泥沼から蓮の浄い花咲く不思議なる巡り合わせのように、不思議なる魂の花が開き、各自の使命の実を結ばせ、心で身を自由自在に結ぶ〟(『合気神髄』p95)
2020/5/20
自然本体から右手に持った剣を上丹田に振りかぶる入り身転換は、左軸足を確立して右非軸足のほうへ直角に目付と下丹田を向ける陰の魄気とする。そこで右非軸足を半歩進めて打ち込み、陽の魄気を経て入り身一足の瞬間にその場で右半身陰の魄氣に戻り、左軸足側の手は腰仙部から廻して柄頭を取り下丹田に結び、剣先で受けの中丹田を抑える。
次に右手を陰の陽で上丹田に巡りつつ陽の魄気から右非軸足先を内股に軸足交代する入り身と同時に左半身へと目付と左足先と下丹田を後方に向ける転換、つまり、入り身転換によって左半身陰の魄氣で再び剣を振りかぶる。そこで左非軸足を半歩進めて打ち込み、陽の魄気を経て入り身一足の瞬間にその場で左半身陰の魄氣に戻り、左非軸足側の手は柄頭を取ったまま下丹田に結ぶ。
次に、柄頭を持った左手は下丹田から陰の陽で上丹田に巡りつつ左非軸足先を内股で入り身転換の軸足とし、右半身へと目付と右足先と下丹田を後方に向ける転換とともに両手で剣を持ち、右半身の陰の魄氣で振りかぶった姿勢となる。これで自然本体から右左右への正面打ちで入り身転換を反復動作できる。
ところで、軸足交代による体軸確立なしに、つまり魄気が体軸を生み出すことなく、陰陽・入り身・転換の三要素を働かせず、地に対して体軸が常時浮遊している姿勢の場合、そのような体軸に連なる両手が剣を振りかぶっては下ろし、また振り上げては下ろす動作を前後へ交互に繰り返す運動はいかなる思いのものであろうか。それは、まさに両手だけで剣の上げ下ろしを繰り返すに過ぎない。
一方軸足を作って体軸を確立し、言い換えると大地から魄氣に体軸を乗せて、対側の自由な非軸足でさまざまな変化を現せば、呼吸に合わせて天から受けた魂氣の働きによって非軸足とともに手を自在に動作することができる。右の手足の結びと左手足の体軸からの解脱がはじめにできるなら、軸足の交代によってどの様な変化も可能となる。気の置きどころを知ること、という開祖の言葉と思いがここにあるはずだ。
自然本体で天地に結んで(天の浮橋に立たされて)から鳥船に至る禊の動作こそ合氣である。合氣によって操作の叶う剣は合氣の剣と呼ばれ、魄気の陰陽・転換・入り身の働きで魂気を動作する竹の剣に典型である。
合氣の剣とは、諸々の剣術や居合いに広く形や心を求める稽古とはまた別物である。 2020/5/23
1)魄気の陰陽
魄気の陰陽(鳥船の足腰)により軸足と非軸足を確立して交代せず、つまり体軸移動を行わず、その場で剣を操作する。
魄氣を陰陽に巡らすとは、腰を前後に移動させて体軸が揺れるのではなく、いわゆる腰を切る動作である。同時に剣を用いて魂氣(両手)の陰陽・巡り・結びを動作して正面打ちを行う。
2)入り身
魄気の入り身とは、前方の非軸足先が受けの真中を指すように半歩進めて同時に後ろの屈曲した軸足を伸展する。直後に前の足を踏んで下腿を垂直に立て、後ろの伸展した足を地から離して前の踵に着けて前後の足が一本の軸となる動作である。つまり同じ半身で体軸の半歩移動を伴う。
ここで、重要な一点は、後ろの足を前の踵に着けることから継ぎ足と呼ぶようだが、その足先は剣線を外していなければ意味が無い。これを特に入り身一足と呼び、あくまで体軸移動の成った瞬間であって静止の姿ではない。徒手の場合は陽の魄氣で魂氣が陰に巡り、入身一足の一瞬には魂氣が下丹田に結び合気が成されるからこれを残心と呼ぶ。後述する剣の残心との違いに注目すべきである。
入り身の直後に後ろの足を再度軸とするなら振りかぶった姿勢と同じ半身の陰の魄氣に戻る。入り身とは魄気の思いからみて陰・陽・入身一足・陰という巡りを動作するわけだ。それに同期して魂氣は剣を持ち、陰では上段に振りかぶって魂氣を体軸に結び、非軸足の進展と共に魂氣を陽で発して上肢を母指先まで伸ばし、剣先は受けの上丹田を撃つ思いである。そのとき魄気は陽から継ぎ足で入身一足となって、体軸の移動とともに魂氣は取りの上丹田から剣先を経て受けの上丹田に当たりその体軸に響いている。すぐ魄氣を陰に戻すと剣を持つ手は下丹田に戻り、柄を持った魂氣は下丹田にて魄氣と結び、剣先は受けの中丹田を抑える。合氣が為されたわけだ。軸足を確立したこの瞬間の静止を残心とする。あらゆる動きへの対応が可能となっている。
狭義の合氣の剣はこの正面打ちであって、同時打ちでありながら相打ちにはならないということだ。
3)入り身転換
剣をとって陰の魄氣で中段の構え(残心)から、非軸足を軽く半歩進めて足先を内股で陽の魄氣として地を踏めば下丹田が内に廻り、同時に後方の伸展した軸足が地を離れて足先が外に回って軸足交代すると、はじめの姿勢から半身が変わって同じ陰の魄氣となり、目付け非軸足先、下丹田(腰)は180度転換する。これが入り身転換であり、鍔元を持つ魂氣は非軸足を内股で進める際に打つことも突くこともせず、つまり陽ではなく陰の魂氣で上丹田に狭義の陽で巡る。動作としては剣を振りかぶって母指球背側が額に触れる。
交代した非軸足を半歩進めつつ魂氣を上丹田から発して受けの上丹田に剣先を当てて、魄氣を陽から入身一足で魂氣を伝えると正面打ちである。直ぐに後の足を軸に戻して陰の魄氣で剣先が中丹田を抑えて残心。入り身転換は前後への正面打ちの反復を生み出す。
3)転換
残心の構えから非軸足を少しも進めず、その場で陰の魄氣の軸足へ交代して転換する際も入り身転換と呼んでいる。180度の転換に際してはその場でも入り身・転換に含めている。その訳は、単に転換とは非軸足が入り身を伴わず外に置き換えて内股で(足底を内に45度捻って)軸足交代を行ない、半身は左右交代するが腰は剣線に向かって90度向き直るだけなのだ。相対動作の相半身では内転換、逆半身では外転換ということになる。
また、逆半身片手取りから外巡で二教の手にして上丹田に結び、同側の非軸足を外へ外股で置き換えて踏んで軸とし、同時に後の足を伸展して非軸足に交代し、同側の魂氣を振り込み突きとしつつ一歩相半身外入り身で内股に着地して再度軸足交代すれば、入り身転換で陰の魄気となる。受けの手は取りの上丹田に結んで、受けの体軸は側弯して取りの体軸に密着する。つまり転換では非軸足を外に置き換えて軸足に交代する際、内股か外股かによって陰の魄気か、対側の一歩入り身で相半身外入り身転換かという違いが生じる。まさに開祖の指摘される〝千変万化〟である。
4)前/後方回転
外股に置いた右軸足先を非軸足先が内から外へ廻って軸足交代が前方回転、
内股に置いた左軸足先の踵側で非軸足先を後ろへ廻して軸足交代が後方回転。
いずれも抜刀して背後を横切り、一回転して前方を正面打ち。
徒手の場合は軸足の膝に同側の手を置いて魂氣と魄気の結びで体軸を確立することが肝要である。体軸の一瞬の前屈には目付が水平で軸足先を常に先導することが必須である。
2020/5/31
諸手取りとして受けに与えた手は、同側の軸足で地を踏んで体軸側にあるべき魂氣をさらに陽で虚空に発しようとしても、つまり受けの諸手を動かそうとしても合気を行なっていないから何とも成らない。理業不一致である。上肢を緊張伸展するほどに受けの力が取りの肩を通って体軸の中丹田に及ぶばかりで、立っていられなくなるだろう。
諸手取りとして与える手は掌を開き、広義の陽・狭義の陰で母指先は地を指している。魂氣の珠をはじめから受けに取らせる訳ではない。呼気で陰に巡って虚空から魂氣を掌に包む。魄氣は転換して同側の足を軸足に交代していく。だから、同時に腋は閉じて魂氣はさらに広義の陰となって前腕と手首が弛緩屈曲すると、魂氣を包んで蓋をした母指先は側頸に結び、上肢は前胸部に密着して体軸に与る。これは魂氣が中丹田で魄氣と結ぶ禊に他ならない。坐技単独呼吸法にみる「降氣へ」の形そのものである*。
そこでは受けの諸手は縦に並び、取りの魂氣は受けの両手首の内側で気結びを為し、受けの体軸は側湾して取りの魄氣に密着する。取りは自身の合気によって受けとの間に気結びを成すことで相対動作においても合気を成している。
取りの掌には魂氣の珠が包まれて中丹田で魄氣と結んでいる。ここで魂氣を閉じ込めずに、再度軸足を交代して陰の手を体軸から解脱する。身の軽さを得てその手には〝魂の比礼振りが起こる〟。今や同側の非軸足とともに、手を自在に伸展して掌から魂氣の珠を真空に氣結びし、つまり虚空に円を描くことが出来る。空の気を解脱して真空の氣に結ぶ、動作である。
最早受けはその珠を手にすることができない。しかも、魂氣は滞らずに取りの下丹田に母指先から巡って結ぶから、再び同側の足が軸に交代して腋が閉じ、魂氣は体軸に与ることで合気が繰り返される。つまり残心の姿勢をとって技が生まれる瞬間となる(動画①②)。
*片手取り呼吸法では「昇氣へ」の形で、魂氣は同じく、広義の陰・狭義の陽、つまり小手返しの手で下丹田に結ぶ。体軸上の陰の魂氣であるからこそ呼気のまま側頸まで昇ることができる。軸足側の手を陽で伸展して、しかも受けの手を載せて、結びのないまま掲げることはできない。
2020/6/10
動画①
動画②
天から受ける魂氣には陰陽・巡り・結びと言う三要素からなる働きがあるものとする。〝魂氣すなわち手〟(『合気神髄』p181)。手を動かすことは魂氣の働きによる。
一方、体幹は軸足に支えられて魄氣の働きで体軸を成し、足底から頂丹田まで垂直に立つ。したがって目付けが水平に定まり最大視野を得る。同時に非軸足が自在に置き換わり、軸足に交代すると体軸移動が安定的に可能となる。
そこで左右の手のうち、体軸に連なる軸足つまり魄氣と結ぶ魂氣が静止の働きに与り、対側の手は非軸足と共に体軸から解かれて、〝魂の比礼振りによって〟(『合気神髄』p92)自由な動きが可能となる。〝魄の世界を魂の比礼振りに直す〟(『合気神髄』p149)即ち非軸足の置き換えと同時に同側の手は陰陽・巡り・結びの動作で虚空に円を描く。一呼吸で非軸足は再び軸足に交代し、魂氣は丹田に結んで動作を終える。入り身運動の残心である。
相対動作では、互の体軸が接して魄気の結びが成り、互いの手の接点で取りの魂氣が陰から陽へと虚空に円を描くことで魂氣の結びが成り立つ。更に魂氣は受けの真中にひびき、底を抜いて取りの丹田に巡って合気が為される。
円の中心に合気の武技が生まれ、開祖はそれを〝愛〟と呼んでいる。
2020/7/7
魄気の陰、つまり軸足を作って体軸を確立すると対側の非軸足は〝軽く半歩出し〟(p70)て、足先を地に置く。同側の手は掌に魂氣の珠を包んで下丹田に在るが、体軸に与ることなく呼吸と共に自在に魂氣を虚空へと発することができる。すなわち、手を伸展すると〝真空の気に結〟(p67)び、丹田や体側に巡って魄氣に結ぶと、同側の足は軸足に交代しており体軸に与ることとなる。これを〝空の気の結び〟(p79)と表現される。
今、魄氣の陰(〝三位の体〟p70)で非軸足先を進めながら下丹田に置いた同側の手で魂氣を発しようとする。受けはいち早く逆半身で横面打ちの動作を表す。このとき、受けの手刀の振りかぶりは魂氣の働きから見れば吸気に伴う広義の陽であり、緊張伸展である。
一方、取りの手は下丹田で魄気との結びを解き、開祖の言葉では〝空の気を解脱〟(p67)して呼気で掌に氣の珠を包み、弛緩屈曲している。
禊によって魂氣の陰陽という〝気の妙用〟(p85)つまり〝呼吸の微妙な変化を感得する〟(p86)ことにより、体軸に与らない手には〝神変なる身の軽さを得る〟(p105)。〝魄の世界を魂の比礼振りに直すことである〟(p149)。
母指先が同側の頸部を経て上丹田の高さへ昇るとき、同側の非軸足先が逆半身外入り身をすれば魂氣は陽の陽で受けの手刀の接点より中に入る。先手の気結びである。
また、受けの逆半身横面打ちで間合いが詰まったとき、取りの非軸足は受けの踏み込みに合せてその場で軸足へ交代すると、魂氣は上丹田にあって広義の陰で体軸に与り、上肢全体が鎬となる。対側の手は腰仙部で魄氣との結びが解けて、同時の振り込み突きで相半身内入り身運動を動作できる。
さらに間合いを詰めて受けが陽の魄気で地を踏んだなら、取りの異名側の非軸足でそこに軸足を作っても相半身内入り身は著しく遅れる。つまり、非軸足先は逆半身外入り身で進むことも、その場で地を踏むことも出来ない。自ずと外に置き換えて軸足とせざるを得ない。外転換である。上丹田に在る陰の魂氣(鎬)は同側の非軸足を外に置き換えると同時に外巡り(二教の手)で体軸から離れ、新たな非軸足側の魂氣が陰の陽(小手返しの手)で対側の頸部から顔を横に拭うような動作で巡ると、受けの手刀に陽の陽で結ぶことができる。後手である。
後手の場合に逆半身入り身を伴って外転換を試みると、明らかに間合いが詰まって捌き切れないばかりか、鎬の手もろとも側頭に受けの打撃を受けるだろう。
横面打ちには、先手、同時、後手のそれぞれの間合いで互いの魄気の結びを確実にする足腰の基本動作が必須である。それらが、逆半身外入り身、相半身内入り身、外転換である。いずれにしても、はじめに魂氣は陰の陽で上丹田に鎬として置く。単独呼吸法坐技の呼気相で上肢を畳んで側頸に母指先を向け、そこから外に回して前方に向けつつ上丹田に掲げる動作である。
〝気がまえが自由に出来ておらぬ人には、充分な力は出せません。空の気と、真空の気の置きどころを知ることが第一であります〟(p67)と、そして開祖は魂氣と魄氣のそれぞれ三要素を姿勢と動作に現すことが、〝自然の法則である〟(p105)と明言する。しかし、〝合気道には形はありません〟(p23)。〝形を出してからではおそいのです〟(p51)、と。
我々の基本動作が示す姿勢は自然の法則により体軸から解かれた〝魂の比礼振り〟(p26)を核心とするものであって、魄気と共に体軸に与るべき魂氣(手)を虚空に発することはできない。それは自由ではなく形を引き摺った姿勢である、と理解している。
〝右手をば陽にあらはし左手は陰にかへして相手みちびけ〟
広義の陽は吸気で虚空に発して円を描き、陰は呼気で丹田や体側の魄氣に結んで体軸に与る。
〝この左、右の気結びがはじめ成就すれば、後は自由自在に出来るようになる〟(p105)。
2020/7/14
軸足の支えで体軸が直立して非軸足の〝千変万化、これによって体の変化を生じ〟(『合気神髄』p70)る。新たな軸足と体幹の連なりが常時交互に生じることから、体軸に撓みはみられない。その間、目付けが水平で一定するため最大の視野を維持できる。姿勢が良く見える正体はこれである。
その上、一方の手が弛緩屈曲で体幹に密着すると体軸に与り、他方が同側の非軸足とともに自在に伸展して虚空に円を描くと丹田に巡り、交代した軸足に結んでは移動した体軸にまた与る。このように両手を動と静に最大限働かせて役割の両極端をその都度明確にしていくことで、隙のない動きが発揮出来る。そのことは見る者にも無駄なく単純で的確な働きを印象づけ、自然の美しさを生み出すであろう。形を突き詰めて早さに誇張をもたらす過剰な美しさではない。
開祖の教える通り、軸足を作って非軸足を軽く半歩出すことが〝千変万化〟の動作を前提とする姿勢の根本である。一方、鳥船を見るとき、静止の姿として目にすることの困難な両足の踏ん張り、つまり動きの瞬間である陽の魄気では軸足によって体軸を確立する姿勢を作らない。体軸は浮動する。然るに、動作の前後でも常態として地を踏みしめる両足の存在は、開祖のいわゆる三位の体にそぐわない。動きとは無縁の姿勢である。
2020/7/16
〈接点で争わない〉とは自然の法則のもとに動作してこその教えである。
合気とは、手について言えば魂氣三要素の陰陽・巡り・結びを動作することである。
結果として接点は固定されない。
正面打ちを例にして気結びの具体的動作を詳述する。
正面打ちでは、魂氣の珠を掌に包み母指先を内に巡って受けの顔前に掲げ、吸気でその眼列に沿わせて開くつもりである。受けは手刀で正面を守ろうとする。取りの手首伸側が受けの手首尺側縁に触れた瞬間、その間に接点ができる。取りの前腕は手首と肘の間で鎬となって受けの手刀が取りの正中矢状面を外側へずれて降ろされる。そこで取りの手首、つまり魂氣の接点は受けの手刀の尺側縁から伸側面に移動して魂氣の線を生む。魂線と呼ぶことにする。このことから接点は固定しない。
取りは接触した瞬間に母指先を外に転じて一気に吸気で掌を開く。すると受けの手刀の撓側に魂線が進み、それを越えたとき取りの手首は反屈して腋が完全に開き肘は伸展する。魂氣の陽である。取りの手背は受けの手刀の屈側に着くほどとなり、接点よりも近位に入って緊張伸展し、気結びが成される。ここから陽の陰に巡って受けの顔を取りの掌が包む、当て身となる(動画①)。
魂氣が陽となる瞬間、同側の非軸足が入り身で軸足交代することで取りの魂氣は自身の上丹田に結ぶ。同時に前進している体軸に与る。すなわち魂氣は相対的に陰で弛緩屈曲の状態で自身の額に結ぶ。体軸の前進は相半身内入り身であり、互いの魄気の結びまでが成り立つ。術技の基本動作としては以下の過程が伴う。すなわち、対側の手は同期して受けの脇の間を直突きし、井桁に進む際に振込み突きで真中を撃つ(上腕を担ぐ)一教表の前段である。ただし一蓮の動作は手刀への結びと体軸の結びによって省かれ、対側の手は降氣の形で畳まれて側頸に置かれ(砲丸投げの手)井桁に進む非軸足とともに振り込み突きで陽の魂氣として発する(動画②)。
魂氣の相対は点から線、線から面、面から空間へ。魂氣の働きは広義の陰から陽、陽から陰へと巡って結ぶ。三要素の動作である。
2020/8/11
〝心の持ちようが問題〟になる〝空の気を解脱する〟動作 —— 坐技振り子運動と転換
坐技振り子運動は畳んだ膝と腰で体軸を左右に交代する連続動作であり、転換は鳥船の陰の魄気で非軸足を置き換えて軸足に交代する連続動作である。非軸足を前方に軽く進めて軸足交代すれば、入り身転換となる。
〝空の気を解脱する〟とは、軸足交代によって体軸に与る手足腰が左右で入れ替わる際、とりわけ手が陰の魂氣で丹田に置かれたまま体軸から解かれて、同側の非軸足とともに自在に動作できるようになることを言う。〝身の軽さを得る〟と開祖は表現する。それによって吸気とともに丹田から虚空に手を緊張伸展し、母指先を経て存分に魂氣を発することが可能である。開祖は〝真空の気に結ぶ〟と表現される。そして呼気に移れば陰に巡って丹田に結ぶ。
相対動作ではその間に魂氣が受けの真中にひびいて底を抜き、取りの丹田に巡るという想いを持つ。再度軸に交代した同側の足腰、つまり魄氣と結んで体軸の移動が確立する。この姿勢は残心と呼ばれる。
体軸から解かれると同時に、取りの手に結んで一体となっている受け諸共、交代した軸足に移してその手に〝身の軽さを得る〟ことを〝魂の比礼振りが起こる〟と表現するのが開祖植芝盛平の合気である考えられる。さらに、開祖はこれらを〝自然の法則〟とまで言い切っておられる。
この入り身・転換や振り子運動では軸足交代が確実に行われなければ非軸足と〝魂の比礼振り〟の手は得られない。また、軸足交代が生みだす体軸移動は、動作が大きく緩やかであるよりは瞬時の微細な動きでしかも確実であることが必要とされる。そのためには、〝空の気を解脱する〟という言葉とその思いと動作が三位一体となるべき合氣の理法から、思い、つまり〝心の持ちよう〟に大きく比重を置くことが要訣であることがわかる。
さらに言えば、背筋を伸ばし四肢を弛緩させて漠然と念じる前に、開祖の言葉とそれに相当する動作についての理解と修練が正確になされていることこそ合氣道の根幹であると言えよう。
2020/8/15
体軸に与った魂氣は陰。丹田に結んでいるため体軸上でしか手を動作することは出来ない。
軸足交代でその手が体軸から解かれると、はじめて〝身の軽さを得る〟。陰で体軸上を動作させることはもちろん、陽で非軸足とともに空間へ手を差し出すことが出来る。
体軸から解かれることを〝空の気を解脱する〟、軽さを得ることを〝魂の比礼振りが起こる〟と喩えられる。
体軸移動は軸足交代によって行なわれ、坐技呼吸法では振り子運動、立ち技では転換・入り身・入り身転換、体の変更、前/後方回転によって為される。
手を動かす必要のないときは体軸に与っておれば常態であるから落ち着く。例えば両肩を取らせた瞬間は上肢が動くから、上丹田に掌で包んだ魂氣を置いて入り身転換で体軸に与れば、取りの額から受けの真中に当てることができ、同時に対側の手を非軸足の膝に置くと両肩に偏りが出来て受けの両手は縦に並び、その体軸は大きく撓む。そこで非軸足を外股に踏んで膝に置いた手が体軸に与れば前方回転、手を膝に着けたまま非軸足を一歩後ろに置き換えてから軸足に交代すると後ろ回転が生まれる。
何れにしても回転の瞬間、非軸足側となった上丹田の魂氣は体軸から解かれて魂の比礼振りが起こるから、頬を伝って側頸に結ぶことができる。魂氣を包んで小手返しの手で、母指先がかろうじて側頸に接していることが肝要である。その直後に再度軸足側となって体軸に与るから、手首に連なった受けの手は取りの側頸に結び、取りの肘頭は受けの胸骨上窩に嵌って受けの体軸に繋がる。受け自身の魂氣と魄氣は元来結びが解けており、その上で軸足を失って体軸は撓んで受けの体幹に張り付くのみで、いわゆる取りに一体化された状態である。
続いて取りはその場で入り身転換すると側頸に畳まれた手が体軸から再び解かれ、〝魂の比礼振りが起こる〟。魂氣を陽で発する〝兆し〟が生まれることと同義であろう。同側の非軸足を半歩逆半身外入り身すると母指先から魂氣を発して肘を大きく開き、前腕撓側縁が受けの同名側の頸部に密着してから取りの体側に巡り、魄氣と結んで体軸移動が為される。残心である。
一方、受けの側頸では取りの魂氣が体軸にひびいて底丹田に抜けると考える。つまり、底が抜けて螺旋で落ちることとなる。後ろ両肩取り呼吸法という技が生まれる。
取らせた手や肩を動作して受けを導くためには、魂氣の陰陽を問わず体軸から解かれて身の軽さを得ることで手を働かせる必要がある。つまり対側の手を体軸に与らせるために、非軸足を軸足に交代させることが必須である。後ろ取りの前半の軸足交代では陰の魂氣で体軸上を巡らせ側頸に結び、後半の入り身転換による非軸足への軸足交代では側頸から上肢を伸展して陽で魂氣を発する。
魂氣を陰のまま巡らす場合も陽で発する場合も、同側の足は非軸足で回旋して置き換えるか、入り身で進めるか(開祖は千変万化と言い表す)、いずれにしても軸足から解かれていなければ手を動作することができない。〝空の気を解脱〟しなければ〝魂の比礼振り〟は起こらない。
2020/8/19
片手取り体の変更は、こうです。
‥‥‥‥‥
手足の恰好がなぜそうなるのか。
〝合気(の修得と稽古)に形はない。魂の学びである〟と。
また〝合気は禊である〟とも。
開祖の言葉とその思いと動作の三位一体が合気である。
天地から魂と魄の氣を受けて、その働きを心に持ちながら呼吸とともに動作が生まれていく。
この思いと自然の法則が形を生み出していく。
片手取り体の変更に隠れた入り身転換、
そして、入り身転換に内包された気結びと鳥船。
天地に氣結びする、の根元に帰するのみである。
内なるものの現われ。
したがって手足腰は、そのようにはならないわけだ。
2020/8/21
徒手では魂氣の珠を掌に包む思いで示指以下4本の指を弛緩屈曲する。示指の屈曲で出来る隙間に母指で蓋をすると示指の第二関節の屈曲部に母指先が嵌る。つまり母指だけが伸展して第一関節から末梢は軽く反っている(画像①)。
呼吸に伴う広義の陰陽の魂氣はこの母指先から常に発せられる。すなわち、丹田に巡る際も、虚空へ発して掌を開く場合も母指はいつも緊張伸展している。この母指こそは剣や杖に相当するのであり、手に持つ得物に比べて極端に短いことを十分にわきまえることが肝要だ。
肩から指先までの上肢全体を刀と思いながら常時働かせると、掌は常に開いた状態で魂氣の珠を包むことが出来ず、手首と肘の関節は伸展したままで用いることとなり、合氣道の想いと動きは一切叶わない。
魂氣の珠を包んだ掌を下丹田や上丹田に結ぶとき、母指先から魂氣の流出する思いで巡って初めて可能となる。これを陰の魂氣と呼び同側の足が軸足に交代して体軸に与り、上肢の各関節は一層弛緩して体幹に密着する。
そこで非軸足へと軸足交代がなされると、掌は丹田に結んだまま体軸から解かれて陽の魂氣の兆しが起こり、身の軽さを得るのである。開祖の所謂〝魂の比礼振りが起こる〟とはこのことであろう。次の吸気の極限で入り身とともに上肢は初めて全ての指の先まで緊張伸展し、陽の魂氣が一瞬上肢全体を剣に変えるのだ(画像②③)。
吸気の限界では魂氣はすでに巡りへと向かう。その先駆けは常に先端が反っている母指先からの氣流であり、上肢が円を描いて陰の魂氣として下丹田や体側に帰って行き、軸足交代した同側の魄氣と結んで再び体軸に与るのだが、後ろの継ぎ足とともに一本の軸足を作って一瞬の残心となる。そこまでは上肢が伸展しているようでも、すでに陰の魂氣であり、呼気で弛緩している。
残心から陰の魄氣に戻ったとき、丹田に接して置かれていながら同側の非軸足とともに体軸から解かれており、手には魂の比礼振りが起こっている。つまり、即座に次の動作へ移ることが出来るのだ。一方、残心から入り身転換すると体軸側となって魂氣は丹田に結んだまま弛緩屈曲して体幹の一部となり、重さを地に繋ぐから動かすことはできない。つまり、軸足側として静止しておれば重さを感じることはないわけだ。
軸足交代と魂氣の陰陽の巡りは小刻みに繰り返される場合がある。しかしいずれの場合も形として身につけるわけではなく、軸足を作っては対側の足が非軸足となって、正に歩くように、または足踏みをするように自在に体軸が移動し、その都度魂氣の珠を包む掌は一方を体軸側に結び、一方を自由な空間へと広げて伸展し、円を描いて丹田に巡ることができる。禊の動作そのものである。
天の浮橋に立って、禊が合気のはじまりであり、合氣は禊である(画像④⑤)。そして形はなくすべて魂の学びである。開祖のこのおしえを心の芯に受けて、一人一人の命にひびく稽古へと立ち返らずして開祖の恩に報いるすべはない。
2020/8/29
⒈魂氣と魄氣
人の心のたましい魂は天に昇り、体のたましい魄は地に下りる。
左右片寄りのない足で立ち吸気で両手を広げて天から魂の氣を受け、地から足腰に魄の氣を受ける。呼気では拍手とともに下丹田にて魂と魄の氣結びが為される。天地の氣に結んだわけである。振り魂では掌に包まれた魂氣の珠が生命と活動の元であることに思いを遣る。
以上は開祖による禊のうち〝天の浮橋に立って〟行なわれる動作ということになる。合氣は禊であり、禊が合氣であると喝破された開祖の原点であるはずだ。
⒉合氣と禊・鳥船
禊には前述の片寄りのない足で立つ、いわば体軸の静止した気結びに加えて、体軸が吸気とともに軸足からわずかに前方へ揺れ動いては呼気で軸足に巡る、魄氣と体軸のかすかな動作を伴うものがある。その間吸気で魂氣は下丹田から発せられては巡り、呼気で魄氣と下丹田に結ぶ。前者は魂氣の陽、後者は陰と呼ぶことにしている。
今右足を踏み直して軸とし、左足を軽く半歩出すと伸展して足先で地を触れる。下丹田は正対して体軸が右軸足に直結する。この状態を魄氣の陰とする。はじめに両手は体側にあって魂氣を包んだまま吸気で前方に振り出す。このとき肘は伸展して腋が開くものの母指先は常に地を指して、他の指は体軸に向かうままとする。
吸気の極限で呼気に移る際は左足が地を踏んで下腿は直立する。右足は伸展して尚も地を踏み続けることから、軸足を失った体軸は両足の間で地へのつながりを欠く。ただし、このとき下丹田は右前下方の地に向けて一瞬静止するから、体軸への支えが三方向から及んでいると思うことができる。俗に〝腰を切る〟と言い表す。三脚による固定に喩えられ、これを魄氣の陽と呼ぶ。手首の屈曲は最大限となり、掌に包まれた魂氣の珠は指先から発せられる魂氣によって自ずと下丹田に巡る。
呼気とともに魂氣は下丹田にて魄氣と結び右足は軸足に戻り、左足は伸展して足先が地に触れるのみとなる。腋は閉じて肘と手首は弛緩屈曲して体幹に密着し、とりわけ右手は体軸に与る。
以上は鳥船の左半身の行であり、舟漕ぎ運動とも呼ばれるが、魂氣魄の言葉と思いと動作の三位一体であるから合氣道に特有の形が生まれることとなる。
⒊入り身転換の相対作用
体軸は軸足に連なって地に直立することで安定が確立し、鳥船の陰の魄氣がこれに相当する。陽の魄氣で体軸が両足の間で軸足から解かれたとき、後ろの伸展した足が地を離れ、同時に前方の足では下腿から大腿と腰が一直線に連なっていけば体軸は前方の足に移り、後の足が前の踵に送られて一本の足となったなら、ここに軸足は交代して体軸が確実に前方の軸足へと移る。これは入身の残心である。
体軸の明らかな移動をもって魄氣の動作とし、それに両手の魂氣の働きが伴い、所謂体捌きが生まれる。
次に、入り身転換の相対動作を詳述する。片手取りに始まる魂氣の働きに限定し、入り身という体軸移動に加えて丹田と目付けの方向転換を動作する。受けの手足腰に対する取りの合気の動作が核心となる。つまり互いの魂氣の結び、取りの魄氣と受けの魂氣の結び、互いの魄氣の結び、そして取りの魂氣と受けの魄氣の結びである。
左半身の陰の魄気から左非軸足先と同期して鳥船近似で左手に魂氣の珠を包み、母指先は地を指したまま受けに与える。受けが異名側の手で取りの手首を取ろうとする。取りは母指先を内に向けて手首を取らせる。足先と腕の間に隙間が生じる。そのまま足先をさらに進めると同側の腰が入り身に至る。脇が閉じて下丹田は左手に接する。左足先は左手母指先に合わせて内股で地を踏み、右足は伸展するが左足を45度内に転じて軸としつつ、右足は地を離れて足先を135度外に転じて左軸足に引きつける。右手は体軸から解かれ、腰仙部から右足先に合わせて掌を開き天に向けると相対的に陽で差し出す形になる。
取りは右手足腰が体軸に与り、魂氣と魄氣は下丹田に結んで陰の魄氣で静止している。受けは取りの手を取る時点で魂氣と魄氣の結びが解けて魄氣は陽であり、体軸と魄氣の結びを失っている。右手は取りの手に結び、なおかつ下丹田で取りの魄氣即ち体軸に結び、受けの体軸は撓んで取りの体軸に密着している。取りは技を作ろうとしているわけでなく、軸足交代で受けの動作を抑えて自身は陰の魄氣で安定して静止いている。受けに対しては崩した状態である。
⒋体の変更の妙用
入り身転換によって右半身・陰の魄氣で静止するかに見えたとき、今や非軸足の右足を一歩後ろに置き換えて軸足に交代すると、左半身で陰の魄氣となっている。ここで重要なことは、下丹田に結んでいる左手である。入り身転換のときと見た目は変わらないが、体軸から解かれている。右手は右足の後ろへの置き換えと同時に小手返しの手で腰仙部に回して結ぶ。軸足交代によって右手が体軸側となったのだ。
左非軸足は前後左右に置き換えることが可能で、同時に体軸を解脱した陰の魂氣は足先に合わせて四方に受けの手(魂氣)とともに陽で発することができ、同時にその体軸は自在に導かれる。
開祖の言葉では、〝立ったおりに、右足を動かしてはいけない。左足だけで巡るのである。千変万化、これによって体の変化を生じます〟また、軸足交代によって丹田に結ぶ手が体軸から解かれると、〝空の氣を解脱して〟〝身の軽さを得て〟〝魂の比礼振りが起こる〟から魂氣は虚空に発せられ、〝真空の氣に結ぶ〟と表現する。〝要するに天地の氣と氣結びすることである〟。
前方へは陽の魄氣と魂氣で受けを放ち、左は外転換で井桁に進み隅落とし裏、受けが左半身に進めて相半身になれば左の外転換から右手の振り込み突きで正面当て、払わせて二教裏。入り身転換で振りかぶって前方回転なら四方投げ表、体の変更で下丹田のまま再度軸足交代すれば片手取り後ろ回転で受けを制しつつ体の変更が連続する。
はじめに上段へ与えるなら、正面打ち入り身投げ裏・八双返し打ちの後ろ回転に共通の動作である。
禊・鳥船から入り身転換・体の変更が単に形をなぞる動作に終始するのであれば、以後の稽古が合氣の技の潔しさを求めることに辿り着けるか、心もとないと言うしかない。
2020/9/7
螺旋に落としているのではない。
そもそも合氣道の動作で受けが倒れて投げが産まれるのは軸足が失われた時と、左右偏りの無い足の一方が地から解かれた時である。
前者は受けの体軸が魄気(地)から解かれて非軸足が軸足交代しきれないのである。後者は既に体軸が地から浮動して両足はいずれも軸足たり得ていないから、一方が魄氣から解かれて地を離れると、体軸は他方の足とともに即地に落ちる。
また、両足とも地から離れない場合でも、受けの体軸に取りの魂氣や魄気が響いて両脚の間で底丹田から腹側か背側の空間に抜けた時受けは倒れる。体軸には足腰を経て地に止める魄氣が届いていないのだ。いわゆる尻餅をつくか、仰向けか四つん這いで倒れる状態となる。
ところで投げが成立する時、取りは受けの体幹を身の一部として体軸に結んでいる。入り身による互いの魄気の結びである。そして魂氣が受けの底丹田を抜くと同時に取りの下丹田や体側に巡り、結んで残心となるが、脇の位置から下丹田という体軸の中心に上肢が巡ると、取りの体幹を魂氣が螺旋で降りることとなる。また、転換、回転で軸足交代をしながら非軸足と腰が内外方へ回旋するため上丹田からの腕の振り下ろしも螺旋を描くわけだ。
巡る魂氣と、体軸の移動に与る魄氣が結んで入身一足を示す残心の姿こそ螺旋の技を生みだす理法である。
魄氣が陽で静止して魂氣が虚空で陽のまま巡りが停止すれば、残心を欠くことから取りは合氣を為さず、受けが螺旋で落ちることはない。
天地の間で螺旋は受けの心にも体にも優しい。残心の取りは下肢と体幹が直立して上肢は螺旋で体軸に巡り、合気が禊であるから潔い。
2020/9/12
剣素振り正面打ち連続、単独動作を陰の魄気で繰り返す。
陰の魄気にて正面打ちが陽の魄気に至れば、その瞬間、軸足交代して後ろの足を継ぎ足で入り身一足としなければ合気の剣ではない。剣合わせでの動作。
つまり、陽の魄氣は動作の中にあるべきもので、一瞬の内に陰の魄氣に巡るか、あるいは継ぎ足で入身一足の軸足交代がなされるため、静止して目に留まる姿勢ではない。
2020/9/25
入り身転換で軸足を作ると対側の足は魄気(地)から解かれる。すなわち膝が伸展して踵が浮き上がり足先が辛うじて地に残る。そのまま置きどころを知ることが肝要である。たとえば体の変更では軸足の後ろに置き替える。そこで軸足交代を行うと再び陰の魄気(鳥船でイェイと後ろに軸足・体軸を確立した姿勢)となる。それは非軸足を一歩後ろに引くこととは異なる。引けば軸足交代が起こり難い。すなわち陽の魄気(鳥船でホーと両足を突っ張って体軸を前寄りに揺らした姿勢)で静止することになりかねないからだ。
また、片手取り入り身転換で、軸足を作ることは魄気の陰で体軸を確立して非軸足を地から解くことに止まらない。魂氣つまり手の動作とその置き所が問題である。軸足側の手は下丹田に置かれ、軸足の魄気と掌に包まれた魂氣の結びによる体軸の確立となり、それは天と地の氣結びである禊と鳥船に通底する合氣である。
体の変更では非軸足を軸足の踵の後ろに置き替え、再び軸足となって陰の魄気となり、半身はもとにもどる。非軸足は自在に動作(軸足交代)を進めて、例えば受けに対して外転換で隅落とし、あるいは後ろ回転で小手返し、あるいは魄氣が陰から陽で魂氣を前方に発して受けをその方向に放つ。
一方、片手取り体の変更を入り身転換からではなく、いきなりその場で後ろ回転の軸足を作って後ろ半回転としたとき、往々にして陽の魄氣で静止してしまう。鳥船のホーあるいはサーで魂氣を差し出した時の足腰である。
正面打ちや突きに入り身転換抜きで体の変更を行なう場合、片手取りのようにその場で軸足を作る訳にはいかない。つまり剣線を外して体の変更の軸足を作るためにはじめの非軸足を外に置き変えることが必須である。その際、後ろの元の軸足が伸びたまま地から魄氣の解けない瞬間があれば、陽の魄氣となる(鳥船のホーあるいはサーと両足で地を踏む瞬間)。そこから後ろの伸展した足を後方へ回すと体軸が前方の足に移りきらない。
言い換えると、軸足・体軸の確立を欠いたまま、すなわち体軸が剣線を確実に外すことができずに、後ろの足が非軸足に成りきれないまま地を掃くように後方へ回されていくことになる。したがって、受けの突きや正面打ちの筋を受けやすくなるのだ。しかも軸足の確立がなければ次の動作へと直ちに非軸足で連なることができない。やがて受けの連続動作で容易に真中を撃たれるであろう。
2020/10/21
『合気神髄 合気道開祖・植芝盛平語録』p69〜70 要約
右足を軸として体軸を確立するとき、右手は丹田や腰仙部に置かれて魄気に結び、体軸に与る。左足は非軸足で千変万化、左手は非軸足とともに魂氣を自在に発し、虚空に円を描いて丹田や体側に巡ると、軸足に交代した左足腰と結ぶから移動した体軸に与る。
開祖は右手足を吾勝、左手足を正勝に喩えた。そして、左手が陽から陰に巡り魂氣は丹田や体側に結び、両足は一本の軸となる。つまり残心によって生まれるのが合気の技であり、勝速日に喩えられる。
正勝は動、吾勝は静、勝速日は技ということになる。
2020/11/15