館長

自然体 掌を包み母指で蓋をした手。広義の陰、狭義の陰でも陽でもない魂氣。
自然体 掌を包み母指で蓋をした手。広義の陰、狭義の陰でも陽でもない魂氣。

辻本大治 Tsujimoto Daiji

 

生年月日: 昭和22年2月27日
出身地: 和歌山県新宮市新宮

 

昭和41年神戸大学合気道部入部

在学中から昭和48年まで阿部醒石、引土道雄、小林裕和各師範よりご指導を受ける

昭和56年田中万川師範傘下道場にて本澤師範のご指導のもとに稽古を再開

この頃より神戸大学合気道部OB会・養心会にて小林裕和師範のご指導を受ける

平成8年ごろからはほぼ毎年(財)合気会本部道場の越年稽古に参加している

また、東京における二度の国際合氣道大会を経て藤田昌武師範にご指導を受け、この間、平成9年に大阪府豊中市で(財)合気会登録道場として神氣館 Shinkikanを創設し、茨木・高槻市在住の養心会員を募り一般会員を交えて高槻市に天神町道場を開設した

平成19年合気会本部道場鏡開き式にて植芝守央道主より合氣道六段位に列せられる

平成21年より高槻市に幸町道場を開設

平成23年大阪府合気道連盟理事

平成27年同監事

 

 

好きな言葉:
老驥は廐に伏すも志は千里に在り 烈士は暮年になるも壮心已まず ー  曹操

敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山ざくら花 ー  本居宣長

自然体から剣線を左に外して呼吸法降氣の形
自然体から剣線を左に外して呼吸法降氣の形
回外して陰の陰で半歩踏み込んで陽の魄氣
回外して陰の陰で半歩踏み込んで陽の魄氣
送り足で入り身運動残心へ 魂氣は降りて陰の陰で体側に結ぶ
送り足で入り身運動残心へ 魂氣は降りて陰の陰で体側に結ぶ
舟漕ぎ運動 左半身陰の陽で差し出し・魄氣の陽
舟漕ぎ運動 左半身陰の陽で差し出し・魄氣の陽
魄氣の陰・魂氣は陰の陰で丹田に結ぶ
魄氣の陰・魂氣は陰の陰で丹田に結ぶ
左半身魄氣の陽で魂氣は陽の陰
左半身魄氣の陽で魂氣は陽の陰
魄氣は陰・魂氣は陰の陰で丹田に結ぶ
魄氣は陰・魂氣は陰の陰で丹田に結ぶ

正立

 先日、ある高名な自然科学者の講演会に出席する機会を得た。

長い間住まわれた海外での専門的な研究成果を中心に提示され、スリルに満ちた科学の世界となおも果てしない謎である自然界の一面について、わかりやすい図説や解説に飽きることが無かった。

 しかも、その締めくくりとして、研究を目指そうとする若い人材に向けて送られたメッセージが秀逸であった。必ずしも科学研究だけに限られるものでなく、例えば合氣道の中に在る我々にも響く言葉として心に留め置きたい。

 

“一つの世界に留まらない     

変わって行くことを恐れない   

何かを始めるのに遅すぎることは無い  

素朴な疑問を大切に そして追い続ける

ロジックだけではなくセンスを養うことも極めて大切

そして 自由な心”

 

 科学研究も合氣道の修練も、どこか世間の常識からかけ離れたもののようでいて、実は生死を究める厳しい思索と行動という点がそれぞれに通底するものであって、いずれも現代人にとっては文化的インフラと言ってもいいのではないか。果敢な上にも冷静な研究者の業績と、開祖の合氣道を学び伝えてくださった恩師の指導は両方とも、我々に出来ないことをやり遂げてしかも与えてくださったものであり、しみじみと感謝の念を新たにするのである。

 “自由な心”とはどのような思いなのであろうか? それは一瞬のことなのであろうか?迷い、苦しみ、焦り、不安、期待、喜び、疲れなど心の器の中は様々に変化するものの、自己を取り戻す覚醒にあっては一時も空になる訳ではない。

 せめて稽古の中では、取りであれ受けであれ活の満ちた時に、互いの存在を感謝し先達に思いをいたす心が一瞬でも感じとれれば、ホッとする、それでいい。すぐ心は雑多に撹拌されるけど。またホッとする瞬間を求めている。それでいいような気がする。合氣道は格闘しながら技を身につけるものではないから、負けて体を痛め、独り勝って満足するというようなものではない。

 自らに束縛されない自己を誠実に見つけようとするひと時がそこにはあるはずだ。

   自らに束縛された自己を捨てきろうとすることこそ禊ぎと天地の結びである。

2013/1/23

 

心の梗塞

 ある番組にたびたび出ている人物から学ぶこと。

現実を見ない、見ようとしない、人の心を見ようとしない、己の存立に思いを巡らすばかりで、絆を強めるべき人々の存立に無関心でいることは我欲に他ならない。そこに自覚が及ばなければ何を語っても偽善である。変わることは既に崩壊でしかないことを深層から突きつけられている。それゆえ成長が無い。その人格は皮膚の衰えにならい、見る間に皺の如く乾き、さらにその萎縮したこころは表情をいっそう醜くし、化粧の及ぶところ無く、言語は自ずと野卑になる。

 

  一葉 目を蔽えば泰山を見ず

  両豆 耳を塞げば雷霆を聞かず           「不詳」

 

  流水の腐らず、戸枢の螻せざるは、動けば也     「呂氏春秋」尽数篇

 

  動中の工夫 静中に勝ること百千億倍        「白隠禅師」

 

  大を以て小に事うる者は天を楽しむ者也

  小を以て大に事うる者は天を畏るる者也       「孟子」

 

  蜀犬日に吠ゆ                   「柳宗元」

 

 紀元前数百年の昔から今に至るまで人は共通の悩みや自覚を持ち続けてきたことがわかる。

 常にみずからを活性化し、変わることを躊躇せず、老いるとも心の柔軟な躍動性は失わずにいたいものだ(故事成句は井波律子「中国名言集」より)。

2013/1/29

若きリーダーのもとに

十歩の間 必ず茂草あり

十室の邑 必ず俊士あり                潜夫論

 

常安の国なく 恒治の民なし

賢を得れば 則ち昌え

賢を失えば 則ち亡ぶ                 韓詩外伝

 

小謹のものは成すなし                 淮南子

 

才と徳とは異なり

世俗之を能く辨ずるなし

通じて之を賢と謂う

此れ、其の人を失する所以なり             資治通鑑

 

乱世には、惟だ其の才を求めるのみにして

其の行いを願わず

太平の時は、必ず才・行倶に兼ねるを須めて、

初めて任用すべし                   貞観政要

 

                      (産經新聞コラム 加地伸行) 

 

 

後世 畏る可し 

いずくんぞ来者の今に如かざるを知らんや   「論語」

 

後輩こそ畏敬すべきだ 未来の人間がどうして現在の人間より劣るとわかるのか(井波律子「中国名言集」)

 

頑張ってください。心から応援するしか出来ません。

2013/2/6

 

政治・外交に限って踏み込んだ意見を一旦は掲載しましたが、現時点で神氣館の合気道稽古を共有する会員の皆様の目に触れることはこのHPの意義と少しずれるところがあると思いますので、削除いたしました。一人一人の存在と無関係ではありませんが、今は合気道に直結する話題・明日の稽古に直接繋がる内容に厳選いたします。

2013/2/6

 

『合氣神髄』より開祖の根本義について

 P109 前略  

 「一体人間の根本義というものは何か。それは志操、篤実、品行方正にして、慈善心、至誠心あることを必要とし、真善美を基に、これを保つことである。」 中略

「至誠心の養成はまず自己に勝つことから精進しなければならない。」

 

* 人の行うべきすじみちの根本は何か。心にめざすことを固く守り、良い行いのもとに、まじめで思いやりを持つことが必要であり、常に真理をもとめることである。まず、自己の欲望や感情などを意志の力でこらえることからしっかりと努力しなければならない。

 魂氣と魄氣を自身の中心に結び正しく天地の間に在り、過去と未来を結ぶこの時に感謝と志を持って誠実に生きることであろう。

2013/4/17

『養心 第41号』 神戸大学体育会合気道部創部50周年記念号

 創部50周年に合氣道を考える

 

                  第4代 辻本大治

初代部長百々先生

 神戸大学体育会合気道部の初代部長であられる故百々和先生(神戸大学名誉教授)から生前に、11代の中村守氏らを通して数冊の合氣道関連書を頂いた。それらは、先生が満州建国大学生のとき合氣道の師匠であった柔道家で競技合気道の祖、富木謙治先生の古い著書と、他にはそのお弟子さんによる富木合氣道について特集された比較的新しい雑誌である。特に『武道論』(富木謙治著)には柔道の論文と合氣道に関する新しい(当時としては)武道教育、つまり競技制合氣道についての考察が整然と記されており、私にとって、日を経るごとに正に手の届くところになければ不便な書物の一つとなっている。

 

『武道論』と『合氣神髄』

 その『武道論』には、柔道のわざの成り立ちについて「崩し」「作り」「掛け」「投げ」と説明されており、また、柔道原理の一つである「柔の理」を嘉納治五郎師範の言葉として次のように引用されている。「始めに譲って、終局において勝つみちである」と。

 以前より、私は解剖学的な手法にならい身体各部のあらゆる姿勢や動作の種類をもれなく表現することで、動作を指導・伝達する際に正確を期することと、指導を受ける際の理解においても曖昧にならないことを目指してきた。そして『合氣神髄』(植芝吉祥丸監修)にある開祖のお言葉を学び、禊において天から上肢に受ける氣を魂氣、地から足腰に受ける氣を魄氣と呼ぶことにした。また、脇から指先までの動作を魂氣による三要素で表わし、「陰陽」の広義を弛緩屈曲・伸展緊張、狭義を手掌の天地に対する向きで表現した。小林裕和師範(以下小林師範と略す)が示された「巡り」は魂氣が陽から陰(陰から陽)へと還ってくる(いく)ことと理解した。そして魂氣の「結び」とは受けとの接点から拳一つ分以上中に入ることと定義し、今日に至っている。それは手首より遠位の手であったり、手首より近位の上肢や上体や足腰の場合もある。これらのことは、はるか昔私が40歳代のとき、『養心』(第17,1990、第18,1991)に寄稿した。そうすると、魂氣三要素の陰陽、巡り、結びが前出の「柔の理」に当てはめて何ら矛盾がないのである。

 また、体軸が後足と前足の間で移動する動作を魄氣の「陰陽」とし、受けとの間合いを詰めて剣線を外す「入り身」と、陰の魄氣で90度から180度向きを替える「転換」、そして軸足の反復交代で受けの軸との間で結びを解かず体軸を中心に一回転する「回転」。これらを魄氣の三要素とした。すなわち、足腰の動きを表わす魄氣の三要素、陰陽、入り身、転換・回転は体軸についての「柔の理」に他ならない。

 

合氣道の技

 前述したように、開祖のお言葉から、宇宙(古今天地)は魂、氣、魄から成り、生を産むものは臍下丹田における魂氣と魄氣の結びである。それこそが合氣そのものということになる。そこで、合氣道の動きの、たとえば正面打ち入り身投げ表を言葉で表すと概ね次のようになるであろう。

 初動によって互いの魂氣と魄氣の結びが解かれ、取りの魂氣は巡って受けの魂氣に結び、魄氣は入り身と転換で受けに結べば、受けは正立がかなわず体軸が揺れる。魂氣は更に受けの側頸から体軸に響き、受けの魄氣に結び貫き、取りの丹田に結び残心で正立(左/右自然体)に至ると受けは取りの後ろに落ちる。

 

柔道との比較

 次に、これを少々詳しく眺め、前述した柔道の技の成り立ちと比較してみよう。

 まず、取りが魂氣を与えて、受けが守りの中で手刀や手首取りでそれに応じるときや、逆に受けの攻めに対して取りが同時か後手で魂氣の陰陽と入り身・転換によって剣線を外したとき、すなわち合氣道でのいわゆる第一動作について考える。互いに自身の結びが解けた瞬間であり、柔道で言う所の「崩し」に相当するであろう。柔道では既に襟と袖を取り合っているので、そこから腕の押し引きや足の移動に伴う軸足への攻めによって「崩し」が成されるのである。

 次に、取りの魂氣が受けの手首に接点を作り、両手で氣の巡りを行うなかで内に入るという思いと動作がある。すなわち相対動作の氣結びである。一般に坐技呼吸法で様々な形が修練される。そして、入り身転換・回転による魄氣の結びが加わり間合いが詰まると、それは「作り」に相当する動作となる。既に受けと密着し魂氣と魄氣はそれぞれで結んでいる。取りの魂氣が受けの魄氣に結ぶと受けの体軸に沿って底に響き「掛け」の段階となり、さらに魂氣が取り自身の丹田に巡って魄氣と結び、残心を為せば取りは正立し受けの体軸は浮動して倒れる。このとき「投げ・技」が生まれる。

 

残心

 残心とは、心の持ち様だけでなく、姿勢に現れなくてはならない。以下に、残心の形へと連なる動作について詳述する。

 魄氣の三要素である入り身は、魄氣の陰から陽で軸足を前に置き換えて、対側の足を後ろから送って前の踵に接する(継ぎ足と呼ぶ場合がある)動作である。その瞬間、揃った両足が一つになって軸足となる。これが残心である。すぐさま軸を後ろの足に移せばその場で陰の魄氣となり、前に移せば後ろの足を戻して陰の姿勢を取ることができ、後ろの足を一歩踏み込んで入り身を連続することもできる。これらは、剣・杖を取って自然に足を運んでいる動きに他ならない。

 残心は剣を打ち込んだときであり、杖で突いた瞬間である。間合いを詰めて振りかぶった瞬間や杖を扱いた状態は魄氣の陽であり、入り身はまだ終わっていない。『五輪書』水の巻では、足の使い方を、「片足だけを動かすのではなく、切るときも、退くときも、受けるときも、右・左、右・左、と足を踏むことである。くれぐれも、片足だけを動かしてはいけない。」と記している。つまり、陽の魄氣による重心の移動と送り足による残心が無ければ入り身は完遂せず、打、突、「投げ」は成り立たない。

 

魂氣と魄氣の三要素と柔道

 以上掲げた魂氣と魄氣のそれぞれ三要素を改めて記すと、前者は陰陽・巡り・結び、後者は陰陽・入り身・転換回転である。これらは、小林師範が示された合氣道の動作の特徴(袴を着けずに指導され、足先、軸足、膝、腰の動作をさり気なく示されるときもあった)と、開祖が述べておられる数々のお言葉(『合氣神髄』植芝吉祥丸監修)を繋いで整理したものである。そのなかからは「崩し」という用語を見つけ出すことができなかった。もっとも、前述したように「柔の理」が魂氣と魄氣それぞれの三要素によって満たされ、残心によって技が成立する限りは、「崩し」「作り」「掛け」「投げ」の用語を合氣道の核心として用いる必要はなかったわけである。

 開祖は「崩す」という語を用いずに指導された、という記述を度々目にするところである。ただし、小林師範が「崩し」という用語をよく使っておられたと回想されるOBもおられるし、同時代の他の師範が指導する際に「崩し」を強調しておられたと、そのお弟子さんが記されている文章を目にすることもある。そこで、以下のエピソードを紹介した後、私の結論としたい。

 

「氣の武道」

 小林師範は柔道と空手を修練し、その後開祖を紹介されて入門に至ったと語っている(『小林裕和師範を偲ぶ会』平成16年、主催:合氣道大阪武育会)。言わば欧州を合氣道で切り開いた小林師範は、その指導演武では、サーッと腰が近づいて腕が触れた瞬間に受けが落ちて小林師範の足先が置きかわっている。静かで、速く、緻密な腰の向き直りが圧倒的な技を生む。目付の下がることはなく、常に天地の間を見据えて自然体で立っている。

 当時学生・OB達は、武術性において氣を念じることの偏りや、それ故に陥る力技での結末、反対に武術性を削いで互いに脱力に終始することなどへの戒めを体得し始めていたと私は推察する。

 ところが、小林師範は創部25周年式典(1989)の説明演武のなかで奇しくもこう言い切った。「合氣道とは?……氣の武道である。」と。壇上の師範を見上げるそれまでの皆の笑顔は一瞬にして消え、怪訝しないものはなかった。その直後に「開祖の技は尋常ではなかった。凄かった!」とあきれ顔で静かに伝える師範の姿から、合氣道の凄みを感じ取って正気付かない者は一人としていなかったであろう。合氣道が剣や徒手の並の工夫ではなく、言葉と思いと動作を徹底して極め、純一に昇華した別物であると思わざるを得なかった。これについてはすでに過去の『養心』誌に寄稿したが、創部50周年においてぜひとも記しておきたい気持ちで再掲した。

 合氣道は魂氣と魄氣のそれぞれ三要素で成り立つことを『合氣神髄』による一応の解釈としていた私は、小林師範のただ一言を聞いたそのとき、新たな課題に出会ったようで、それでいて不思議な希望を感じたことを記憶している。

 

呼吸法 

 呼吸と共に氣の思いを動作に表わして氣結びを為す呼吸法(『小林裕和師範を偲ぶ会』平成16年)は、われわれの稽古のはじめにも欠かすことのない伝統的な禊の動作である。開祖は「合氣道は禊である」と解き明かしておられる。これが、言葉だけ、思いだけ、あるいは形だけのものとなれば、合氣の核心は欠落する。これらの三位一体こそが求めるものであるからだ。

 縁あって我々の合氣道にめぐり会うこととなった後生におかれては、すべからく真摯に「氣の武道」へと邁進していただきたい。それは、稽古こそが互いに心を一新し精気に触れるときであるからだ。

                                       2014年

 *2015/4/10一部訂正して引用

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