平成の後半10年余りに亘って行ってきた単独基本動作回転、特に前方回転と称したものは後方回転に比べて不自然に違いが見られることを承知で、その難しさを克服すべく修錬し続けた。
その特徴とは、⑴ 軸足先は外股で直角に踏み換える、⑵ 非軸足の一回転に伴う軸足の捻り角の過大(摩擦に抗して45度以上)、⑶ ⑵による体軸の捻れ、上体の歪み(非軸足の置き換えの不調を来たしやすく、軸足交代が確立しない場合は体軸の大きく傾斜した両足立ちとなって、静止することがやっと)、⑷ ⑶を軽減するため必然的に腰を著しく落とし、軸足の膝を過剰に屈曲することで腰の前傾を招く、⑸ 上体を直立させ目付けを水平に維持するため、腰に対して体軸を相対的に後ろへ反らせる必要が生じる。
⑴から⑸を一連の基本動作として完遂するには非軸足を軸足の膝上で回転することが、より安定的であることを知ったのは大きな収穫ではあった。非軸足の踵が軸足の膝直上を通るように後ろへほぼ一回転させて置き換えるのである。
それにしても、軸足が畳よりも大きな摩擦を受けると、非軸足は半回転あまりが精一杯である。しかも相対動作では、受けに連なる取りの手が取りの上丹田に結ぶことで体軸の確立したときでも、軸足の後ろから足先を経て非軸足を一回転させるには不安定を完全に払拭し得るものではなかった。
端的な例が、二人諸手取りで一人を片手、他方を交差取りとして四方投げに導く場合である。
まず受けの両手、諸手は縦に並べる原則が先である。それによって受けの体軸に歪みが生じ、取りの入り身が魄氣の密着へと進み、魂氣が受けの魄氣に結ぶ動作までが可能となる。
それに加えて、四方投げの持ち方で振りかぶる交差取りの手(同名側)と柄頭に添える手としての片手取りの手(異名側)が魂氣の働きによって取りの上丹田に結ぶ過程が必須である。
そこに合わせる足腰の相対基本動作では、表裏の必要性が先手・後手の違いのみならず、二人取りでも再認識されるわけである。回転とは軸足先の前を非軸足が置き換わる表と、軸足の踵を回って後ろに退く裏の動作にわけられるが、二人取りでは一方に裏を、他方に表を、つまり一方に後方回転を他方に前方回転を動作するべきである。
すなわち、一方に四方投げの表を動作するとそれが他方にも同時に前方回転となることはない。また、一方に裏を動作してそれが同時に他方にも後方回転とはならない。何故なら二人の受けは互いに側胸部から片側の背と腹が密接し、一人に表なら他方には裏でなければ足腰を相対的に動作しきれないからである
そこで、前方回転は一回転でなく、半回転を二回繰り返してその都度軸足を踏み換えることとすれば、そのはじめの半回転は他者に対する後ろ回転の軸足確立、はじめの軸足の踏み換えを他者への後ろ回転の置き換えとして、次の半回転は後ろ回転の軸足の踏み換えに相当させることとなる。最後に非軸足をその場で内股から外股へと踏み換えて、そのまま共通の足先の動作として、これで一人には後ろ回転で裏、他方には前回転で表の四方投げの魄氣の動作が完遂する。
非軸足をはじめに半回転とすることで他者の後ろ回転の軸足とし、はじめの軸足の踏み換えに置き換えを加味して動けば、後ろ回転の後方への置き換えとなる。残りの非軸足の半回転が他者の後方回転の軸足踏み替えに相当する。前方回転が後方回転と共存出来るわけである。それは前方回転の基本動作で非軸足を一気に一回転させることから、半回転の繰り返しに分けることで可能となるのである。
前方回転の軸足の踏み替えを二回に分けることで、安定性は高まり、後ろ回転の要素を含むことになる。
2019/2/15
相対動作で右逆半身片手取り:外転換ではじめ、左相半身・陰の魄氣で前の左足を外股で踏み換え軸として、後ろの右足を前に半回転で置き換え軸足交代とし、左足を後ろへ置き換えて、右足をその場で内股に踏み換え軸として左足先をその場で外向きに踏み換えると一回転。後方回転、即ち四方投げ裏の基本動作。
相対動作で左相半身交差取り:相半身のまま内転換・陰の魄氣からはじめ、軸足交代として前の左足を外股で踏み換え、後ろ右足を半回転前に置き換えて軸とし、左足への軸足交代をその場で外股に踏み換えて再度後ろとなった右足を半回転前方へ置き換え軸として左足先を外向きに踏み換えると一回転して陰の魄氣。前方回転、即ち四方投げ表の基本動作。
2019/1/6
念い、深く思う心の働き、想い、たましい、魂。
気とは物ではなく心の作用である。それが活気となって身体に漲ると、全身の緻密な動作の源となる。魂氣が発せられ、円を描いて丹田に巡る間、両手がそれぞれに様々な働きを生み出すのである。
志は気の帥なり(孟子)
と言われるように、心が指し示す方向、つまり志があって初めて気は発せられるのであるが、われわれは吸気の相において母指先から大気に向けて魂氣を発し、呼気によって各丹田へと巡らせるのである。あるいは天に発し、地に巡らすこともあり、さらには地を掃いて再び吸気によって天空に掬い上げては呼気で丹田に巡る。
言葉と念いには動作が伴い、あらゆる動作には合氣の言葉と念いの裏打ちがなければ合気道ではない。合気道という気の武道は、言葉と念いと動作の三位一体であるということだ。
以下『合気神髄』から引用。
「念で技が無限に発兆するのである。」P174
「それには正しい念がなければならない。この念で正しい稽古を積まなくてはいけない。稽古は自己の念を我欲に結んだら向上はあり得ない。 中略 念は目前の形にとらわれることなく、宇宙の法則に正しく氣結びしていなくてはならない。そして五体に止まってはいけない。 中略 五体は宇宙の創造した凝体身魂であるから、宇宙の妙精を吸収し、宇宙と同化しているわけである。武道の奥義は、念を五体から宇宙と氣結びし、同化して生死を超越し、宇宙の中心に立つことである。」p175
「技は五体のひびきと宇宙のひびきと氣結び、緒結びし、千変万化するのであるけれど、我々は五体のひびきから光と熱と力を生じさせるような稽古をし、宇宙のひびきの中の空に技を生み出していかなくてはいけない。」p176
左に軸足・体軸を確立するなら、右の非軸足と同側の手が不思議な「身の軽さを得る」p105。
はじめ念は右足を軸とし、右手を陰の魂氣で体軸に与ると、次に呼気の終末で軸足を左に交代して体軸を確立すると(「念を五体から宇宙に氣結びすれば」)つまり右の非軸足と同側の手が不思議な「身の軽さを得る」ことから、吸気で陽の魂氣を発して受けに響かせることができる。
「この左、右の氣結びがはじめ成就すれば、後は自由自在に出来るようになる。」p105
「これは自然の法則である。この原則を腹において、臨機応変、自在に動くことが必要である。」p105
陰の魂氣のまま手を虚空に翳しても、手を働かせることはできない。そのとき体軸は依然として魄氣と魂氣の結びによって正立・正座にあるわけで、その手から魂氣が自在に発することはない。つまり陽の魂氣として空間へ、更には他者の身心へと手を働かせるには、体軸から解かれた方の足腰の置き換え、踏み換えと同期する場合に限られるのである。
そこで軸足の交代によって新たに確立した体軸では、魂氣が巡り魄氣と結ぶから、それこそが合氣である。掌中に珠を包み下丹田に魄氣と結ぶ禊こそ、命をあらわす合気そのものであるわけだ。
五体のひびきとは魄氣、宇宙のひびきとは魂氣であることは明らか。ひびくとは氣結びすること。
2019/3/4
難場歩きの途中で両足に偏りがなければ、どちらからも直結されない体軸は宙に浮いて動きが止まる。魂氣は体軸に与ることも真空の氣に結ぶこともない。つまり、手の動きは体軸に結ぶことも、非軸足と協働することもできない。
それでも、動きの中で一瞬軸足を失っていると感じたとき、それを動画で確認できたなら、自身の一部を体感しており、尚且つ軸足の確立(軸足交代)が体得されていることを示している。
禊と相対基本動作から技が生まれることと、技を掛けようとして形を繋いで行くことの違いをよく知ることが肝要だ。基本動作には、合氣という言葉と思いが伴っており、形を成す動作には技の心象が覆っているだけである。
2019/2/2
体軸移動での良い姿勢とは、踵から頭頂まで直立し、前方を見て視野は最大に保ち、後ろの軸足は伸展しつつ非軸足先を前に滑らせて足底全体が地に着き、軸足へと移行する寸前に、後ろの軸足は伸展が極限となって爪先で地を離れると、交代した軸足の踵に接するまで前に送る。
前の踵と後ろの足の土踏まず側を密着させた二本の足が一本の軸足となり、直立を維持するときを残心と呼ぶ。
一方、半身で立つ三位の体とは、軸足を作って体軸が直立し、対側の非軸足を軽く半歩出して爪先を地に置く姿勢である。開祖が教えるところの、静止ではあるがあらゆる動きに対応できる姿勢である。鳥船で、呼気と共に両手を下丹田に引き寄せて、屈曲した軸足に腰と体軸が直立したときは魂氣と魄氣が結んで合氣と呼ぶのである。
ところで、合気道の稽古においては良い姿勢を常に維持しようとする態度が至極当然のように思われている。しかし、動作の中で合気道の姿を形作り、静止に至る過程においても姿勢を保持することが同時に意識されなければならないということは、その動作に姿勢の要素がそもそも含まれていないことを示しているのではなかろうか。
つまり、合気道の根本といわれる禊・鳥船、呼吸法や入り身、転換、回転、体の変更、残心という動きは、すでに姿勢においても正しさを伴っているのであって、これら基本動作を連ねて合氣の技が生まれるのであるから、常時姿勢の正すことを思いやって本来の基本動作抜きで形を連ねるようでは技の成立は覚束無いと言わざるを得ない。
2019/2/13
軸足が体軸に連なり魄氣が身体を直立させることは、対側の手の動きによる魂氣の最大活用を可能とする。
坐技の入り身/振り子運動の如く、立ち技で取りの体軸が捻れるか、傾く場合としては腰投げの運動や、後ろ両手/両肩取りでの入り身転換、昇氣呼吸法表での外転換に伴う上体の入り身運動等がある。それらはことごとく軸足が体軸を支える極期であり魄氣の陰と呼んでいる。
体軸の傾きや捻れが正立に復元すると同時に、それまでの陰の魂氣は体軸から解脱し、吸気とともに陽の魂氣を発して上肢は伸展する。同側の自由になった非軸足の入り身と同期して虚空へ円を描く。相対動作ではこのとき受けの体軸に魂氣がひびいている。
呼気に移って魂氣が陰に巡ると再び下丹田に結ぶ。受けとの間に合氣が為されるのである。このとき二本の足が一本の軸足となって残心を現す。
半歩入り身して送り足によって体軸の完全移動する残心までを入身一足とは当を得た呼び方である。但しこれは瞬間の姿であり、軸足は常に一本で体軸を直立に支え、非軸足を軽く半歩出して三位の体と呼ぶ陰の魄氣が単独動作の静止の姿である。
2019/2/17
逆半身で片手をとらせると同時に受けの背側(取りの外)に非軸足を剣線から直角に半歩置き換えて軸とし(軸足交代)、同時に与えた手は下丹田に小手返しの手(陰の陽)で結ぶ。腋は閉じ上肢全体が体側から下丹田に掛けて密着し、対側の手を振込突きで受けの真中に伸ばし、同側の非軸足を半歩進めて剣線に直角で置き換える(外転換)。
振込突きの魂氣は振り降りて上体の入り身に合わせて腰仙部に巡り再度軸足交代で体軸に与る。即ち下丹田の魂氣は昇氣で側頸に結ぶと上体は入り身転換の姿勢となり、魂氣は体軸から解脱して同側の足は非軸足となり(身の軽さを得る)、受けの背側へ半歩置き換えて再々度軸足交代すると入り身の動作となり、同側の魂氣は陽の陽で受けの同名側の頸部へ発すると、虚空に円を描いて母指先の反りに合わせて体側に巡って来ると腋が締まり、上肢は伸展したまま体側に密着する。
入り身によって軸足交代が成されると魄氣は陽から継ぎ足で二足が一本の軸足となり残心の一瞬が形作られる。直ぐさま一足を軸とし、他側を軽く半歩出して陰の魄氣(半身)、いわゆる三位の体として盤石の静止に至る。
2019/2/23
前半右/左半身が表。 後半右/左半身が裏、右半身は体の変更から入り身、左半身は入り身転換から入り身
参考までに、裏の右半身は体の変更を行ってから右半身の入り身に伴い右手を陽の陽へと発している。左足に体軸変更すると受けの間に魄氣の結びが解かれる。このとき体軸が離れてしまうと、直後右半身で入り身のため右足に体軸を移してから体軸を接しても、右手の魂氣を発することはかなわない。右手は体軸に与る陰の魂氣を下丹田に置いたままであるから、魄力を伝えていることになる。ここでは離れすぎず、以下の左半身同様見事に右手で魂氣を陽の陽で発している。
左半身は入り身転換のまま左背部と受けの右胸が接して互いの体軸が結んでいる(魄氣の結び)。軸足交代して右足に互いの結びが移り、左の手足腰は〝身の軽さを得る〟〝空の気を解脱して〟入り身する非軸足と共に円を描く左手足となる。〝真空の氣に結ぶ〟左手は受けの左側頸を経て体軸にひびき、底を抜いて取りの左体側へ巡って魄氣に結ぶ、つまり合氣。難場歩きである。
受けは螺旋で落ちて技が生まれる。〝武産合氣〟
2019/2/25
受けに与えた手で受けの手を取り返す動作について考察する。さしたる方法もなく自在に取り返すことができる、というわけではないからだ。つまり、さまざまな状況に応じて、術と呼ぶ特定の方法によらなければ、持たせた手を取りかえすことはできないのである。
⑴はじめに
与えるという動作は、掌に包んだ魂氣と呼ぶ心のたましいを受けの力の及ぶところの真中に差し出すことで、受けが同名側か異名側の手を用いて払うか、もしくは掴み取る動作を余儀なくさせることだ。
そこで、受けがその手首を異名側の手で取るときを片手取り、同名側の場合を交差取りと言うことにする。
取りと受けは同時に互いの対側の素手や武器や足を用いて何らかの攻勢を掛けることが前提である。したがって、取りの与える動作によって、受けは同名側の手足を取りの連続する攻撃から離して剣線上に置いたまま、後手から先手を取って攻撃し得る半身の体勢をとる。この瞬間を互いに逆半身と称する。
次回は⑵片手取り逆半身における、母指先から発する内外天地方向の魂氣について順次詳説する。
2019/2/24
魂氣を包んで与えて片手取りの場合
母指先が内に向く、内巡り、小手返しの手。
外に向く、外巡り、二教の手。
前方に起こし天を指して掌を開き、陽の陰で内巡り、入り身投げの手。
母指先は地を指したまま、掌を開いて陽の陰 、前受け身の手。
2019/3/2
陰の魄氣(鳥船のイェイの足腰、開祖のいわゆる三位の体)で魂氣を掌に包む思い(広義の陰、狭義の陽)で差し出し(動画①)、片手取りの瞬間に呼気で母指先を地から内へ向けると手首は直角に屈曲したまま腋が軽く閉じ、繋がった受けの手を含めて上肢は内方にわずかに偏り、剣線との間に隙間ができる。
差し出して片手取りがなければ吸気は極限で掌は開ききって陽の陽となる。魂氣は空間へすべて放たれると思うことにする。手は限界まで緊張伸展する。そこに同側の非軸足先を半歩進めると腰が半身を呈し、魂氣は小手返しの手で下丹田に結ぶ。広義の陰、狭義の陽である。つまり、弛緩屈曲した上肢は受けに連なっていながら自身の体軸に与り、身の軽さを得ているわけで、力の入りようがない状態だ。
対側の足が伸展して魄氣の陽となる瞬間に地を蹴って継ぎ足で外入り身・残心となる。
片手取りに半歩進めた非軸足先を内側へ直角に向けて軸足交代し、目付けを反転すると対側の足先は非軸足となり、外に135度向けて目付けに合わせて膝が伸展する。つまり入り身から半身を転換し、陰の魄氣となって逆半身入り身転換と呼ぶ(動画②③)。
参考に、入り身転換に比べて体の変更の魄氣は陽である(動画④)。
2019/3/9
①地を指す母指先は外に向けられ腋が軽く閉じると同時に外転換で軸足交代と共に肘を落として上腕全体が側胸に着いて腋は完全に閉じる。このとき母指先は一気に天を指す。つまり肘から手首、母指先を垂直に一直線として魂氣は体軸に与り、掌は包まれたままで陰の陰である。母指球外側端を受けの手首屈側に着けて他の指を全て開くと陰の陽で掌が受けの手首屈側を下から掬うように包み、同時に側頸に陰の陽で結ぶ。軸足交代で外入り身と共にすぐ側頸から魂氣を陽の陰にて発する思いで母指球を突き出し、次に示指球を突き出すと腋は完全に開き、上肢は肩から示指球の先まで一直線となる。四教で取り返した。
②地を指す母指先は外に向けられ腋が軽く閉じると同時に外転換で軸足交代と共に肘を落として上腕全体が側胸に着いて腋は完全に閉じる。このとき母指先は一気に天を指す。つまり肘から手首、母指先を垂直に一直線として魂氣は体軸に与り、掌は開いて陰の陰から陽の陽へ受けの前腕屈側へ氣結びして横面打ち近似で入り身運動、陰の陽で下丹田へ降氣、さらに転換して軸足側の膝と共に魂氣を陰の陽(小手返しの手)で地に楠部。呼吸投げが生まれなければ、魂氣は地を滑って対側の膝内側に着けながら正座に移り二教固め表。
③地を指す母指先は外に向けられ腋が軽く閉じると同時に外転換で軸足交代と共に対側の手で振込突きを払わせ、非軸足と同期して腰仙部に回して与えた手は陰の陰で下丹田(または側頸・中丹田)に結んで後ろ回転で軸足から膝を地に着け、魂氣はさらに地と結ぶ(または側頸と前胸部に結ぶ)。二教固め裏。
①②は母指先が外から天、そのとき①は掌を包んだまま、②は掌を開き全ての指は伸展して天を指す。
③は母指先が外を向いて転換後ろ回転に連れて陰の陰(二教の手)で下丹田(または側頸)に結び地を指す。
次12.は⑷④……上から被せるように包み、四教で取り返す、①に対比される方法
2019/3/12
①に対比される方法
地を指す母指先は外に向けられ腋が軽く閉じると同時に外転換で軸足交代と共に肘を落として上腕全体が側胸に着いて腋は完全に閉じる。このとき母指先は一気に天を指す。つまり肘から手首、母指先を垂直に一直線として魂氣は体軸に与り、掌は包まれたままで陰の陰である。
母指球外側端を受けの手首屈側に着けて、軸足交代して入り身とともに母指先の反りに合わせて受けの尺側に沿って手首伸側へと進め、掌を開いて陽の陰で入り身転換から体の変更で陽の陰のまま下丹田に巡り、結ぶと同時に掌を被せて上から掌に包むと四教で取り返した。
①は下から④は上から四教に取る
2019/3/16
天地人和合の理(p181)
(合気神髄 柏樹社1990年1月20日初版発行)
天地の間に生を受けて人が地に立つ姿に象徴される。
天には心のたましい魂が昇り、地には体のたましい魄が下りている。
天地の間は気で充たされている。
P67に〝空の気と真空の氣の置きどころを知ることが第一であります〟〝真空の氣は宇宙に充満しています。これは宇宙の万物を生み出す根元であります。空の気は物であります。それがあるから五体は崩れず保っております〟
P69に〝物と心は一切万物が持つものであります〟
天から受ける魂氣と地からわき上がる魄氣が丹田で一つになって生まれるという思いが愛であり、創られるものが人の生命である、と言える。
吸気とともに氣を受けては呼気で拍手から丹田にて氣結びが成される。
次に吸気で母指先から魂氣を天に発すると同時に、拡げた掌と上肢の屈側には天から魂氣が降りて、片寄りの無い左右の足腰は地を踏むと同時に魄氣を足底から丹田へと受けている。これは生ある物の静止であり、開祖は天の浮橋に立って天地の和合を素直に受けることと表現されている。
動きについては、先ず右足を踏み直して軸とし、左足を軽く半歩出して非軸足とする。右の膝が軽く曲がり、左は伸展してその足先が地に触れるのみである。開祖はこれを〝三位の体〟と呼んでいる(p69〜70)。これにより様々な動きが始まる。静中に動あり、の姿であって、軸足の交代が体軸のあらゆる動作を可能とし、魂氣は空の気を解脱して同側の非軸足とともに虚空に発せられ、円を描いて真空の氣に結び、受けの底を抜いて取りの丹田へと巡るうちに、合氣が武技を生み出しているわけだ。
2019/4/13
呼吸力とは、氣結びを為して魂氣の巡りのままに受けを導くこと。氣結びとは、呼吸と共に接点より拳一つ分中に入ること。魂氣、つまり手は陰陽・巡り・結びの魂氣三要素を動作することが出来る。また、手は足腰の魄氣三要素と恊働するものである。
例えば魄氣の陰は軸足と非軸足を区別してすぐに動作へと移ることのできる姿勢であり、三位の体と呼ばれている。魄氣の陽は軸足交代のために基本となる動作であり、これら魄氣の陰陽は鳥船の動作そのものである。
陽の魄氣の終いには継ぎ足によって入身一足が成され、体軸の移動を伴い二足で一本の軸足へと落ち着く。一瞬の残心の姿である。すぐさま一方の足を踏み直して軸とすれば、三位の体へと移行できる。
そこで、受けに結んだ手は陰の魂氣に巡り、入り身/転換と同時に軸足側として体軸に与り、いったん静止するが、軸足交代によって体軸から解脱した魂氣はそのままで非軸足側となるから、身の軽さを得て自由な非軸足と共に自在に陽で発することができる。すなわち受けを容易に導くことができる。
これは、開祖の言われる、空の気を解脱して真空の氣に結ぶ、という理法であり、身の軽さを得た陰の魂氣は、比礼振りにたとえられて受けに結んだまま自在に陽で発しては巡り、揺れ動かすことができる。
ところで、軸足側にあって体重と受けの重さのすべてを手に受けて、更にそれを振り上げようとする動作は、体軸を自ら壊そうとする一方で魄氣と結んだままの手の力を受けに及ぼそうとする矛盾をあらわすものである。それはまさに難場歩きの対極にある動作であって、開祖の言われる〝心で身を結ぶ〟、さらには〝左、右の氣結び〟を忘れてはならない。
2019/4/2
…… 空の気を解脱して真空の氣に結ぶ
掌に魂氣の珠を包んで母指先が地を指す形から内に巡って(画像)上段に与えたなら、受けは手刀で正面を守ろうとする。互いに接する瞬間、母指先を外へ向けて魂氣を陽の陽へと発し、受けの手首との接点が尺側から橈側へと回り込むことこそ氣結びの本体であろう。
魄氣は相半身内入り身から井桁に進み、逆半身で真中を撃って一教表(動画①)。魄氣の逆半身外入り身では、井桁に進んで相半身外入り身から側頸に魂氣をひびかせて入り身投げ表。または対側の手で持ち替えて返し突きを払わせると、受けの腋の下を相半身外入り身転換で三教。
ちなみに正面打ち一教裏とは、後手を引いて魂氣を与えきれず陰の陽で上丹田に結んで鎬を作り、これを接触面として同側の足は軸足となり、体軸の確立で対側の非軸足と魂氣が逆半身外入り身で返し突き、つまり陽の陰で発する。受けの上腕が高いか間合いの詰まった場合は魂氣が陽から陰へと円を描いて巡ることはできず、受けの手刀に連なる上腕と体側に接して軸足交代で体軸を密着する。すなわち半身を転じた魄氣の結びである。取りの上丹田には異名側の受けの半身と取りの魂氣が結んだまま動かさず、交代した非軸足側の魂氣は入り身転換と同時に陽の陽で開くから大仏の両手を示すこととなる。両手で天地の氣の巡りによって後回転と共に地の手で受けの手首を包んで一教裏が成立する。
次に、掌に魂氣の珠を包んで母指先が地を指す形で下段に与え、受けが手首を上から取ろうとする場合である。基本としては片手取り入り身転換・体の変更と昇氣呼吸法、そして交差取り氣結びからの一教裏を挙げることとする。
ここでは、交差取り氣結びについて詳述する。相半身で取りの手首伸側に互いの接点が生じる。同側の足に軸を移して接点に重心を置けば魄氣に結ぶこととなり、その手は体軸を作るわけだから、腋を開いて腕を伸ばそうとする動作はまさに魄力であって身の軽さを得られない。
しかし剣線を外すために外転換として反対側の手足に軸を移せば、与えた手は受けの重さと自身の体軸から魂氣の結びが解かれる。その瞬間に母指先を基軸にして順次魂氣を発しながら掌を開いて円を描くとき、接点は固定するのではなく、受けの手首を尺側から橈側へと喰い入ることとなる。結びの本体である(動画②)。
結んだ受けの手の上方で空間に円を描き、取りの体側に巡って来るから受けを導ける。
固定した接点で、軸足に結んだ体軸と共に受けを移動させる試みこそ魄氣に頼る力であって、体勢を自ら崩すか、釣り合いを保って居着くか、何れかに終止するであろう。
2019/4/13
地から足底を伝って魄氣が足腰を支え、頂丹田にまで至る体軸を作っていると思うことにする。各々の丹田はその体軸上に在って魂氣の出入りする場所である。
また、天から受けた魂氣の珠を掌に包んだ気持ち(画像①)で下丹田に置くと広義の陰(画像②)、そこで手首を屈曲すると掌が天を向き狭義の陽と呼ぶ。そのとき母指先は内を指していることになる。この状態を魂氣が陰の陽であると表現している(画像②)。
手首から近位の上肢は胸と肚に密着するから、そのままでは母指先は内を指すのみであるが、三位の体で同側の足を非軸足としたなら魂氣が体軸を解脱して、母指先は地を指しながら掌を下段に差し出すことが出来る。腋は開き、肘は伸展し手首は屈曲したまま掌は下丹田から前方へと離れて行く。吸気の始めである(画像③)。非軸足は外に置き換えて軸足に交代し、対側の足先は直角に転換して非軸足とする(外転換:15.相対動作における合氣の本体の動画②)。ここで呼気に転じて腋を閉じ、肘を畳みつつ母指先を内方から天に向くよう回して行くと、上肢は畳まれて側胸部に密着し、手首も弛緩屈曲すると母指先は側頸、つまり後頸三角を指すことになる。畳まれて体幹に密着した手は今や体軸に与っているわけである。
そこは呼気相にあって、ことごとく弛緩屈曲の動作である。今、腋を直角に開いたなら母指先は正に後頸三角に接して地を指して胸部を中丹田に向けて降り、呼気の続く中でなおも下丹田へと肚の表面を降りて行くが、このとき母指先から発せられる魂氣は体幹の中軸を通って行くものと考えることにする。これが、〝心のもちよう〟である。〝気の置きどころ〟の本義であろう(動画①)。
2019/5/2
魂氣すなわち手〟p181 であろう。
空の気はこの場合魄氣つまり軸足・体軸であろう。
〝真空の氣は宇宙に充満している〟p67のであるから
〝真空の氣に結ぶ〟p67とは虚空に魂氣を発し、円を描いて丹田に巡り魄氣と結ぶこと。つまり合気。
P121に〝合気をもって物と心を合わせ、生き栄えていく仕組みを持つのが魂の円であります〟
〝合氣の魂の円〟これを私は魂氣三要素としている。すなわち「陰陽」「巡り」「結び」である。〝己に魂があれば、人にも魂があり、これを氣結び、生結びして円の本義の合気を生み出させれば、円はすべてを統合します〟
p154〝中心は虚空にあるのであり、自分で書いていき、丸を描く。丸はすべてのものを生み出す力をもっています。〟
p120〝魂は一切を生み出すものであり、不滅の生み親であります〟
2019/5/5
手を差し出す際は、何処からどの方向に氣を発する思いとするのか、何時巡ってどの丹田に結ぶのか。同側の足腰は魄氣の働きとしてどう動くのか。対側の手足腰は軸としてどのような姿勢とするか。軸足交代に際しては左右の魂氣の陰陽はどのように動作するか。
禊のままでは体軸移動が不可能であり、転換、入り身、体の変更や回転が必須となる。また天地に結ぶ静止においても正立・正座を行き来する動きは必要とされよう。
基本動作や技の形を目で見て自己の体感に移して、記憶させて行く過程に合氣の動作はない。
2019/5/11
掌に包んだ魂氣の外巡りで母指先を取りの背側へと向ける際、二教の手にするわけであるが、母指と手首だけでなく肘頭を外に向けるつもりで動作することが肝心である。
ただし、上丹田に結んで鎬を作る際は、まず腋を閉めて上肢を畳んで側胸部(体側ではない)に置き、母指先を前方に回外(前腕については回内に相当)したまま上丹田へと差し上げるので、前腕から肘頭は頭部外側に接してそれを被うように位置する。
つまり二教の手とは異なり、上腕が外側に開かず前方へと突き出されて腋がほぼ直角に開いている。
2019/5/15
鳥船は魄氣の陰陽を足腰の動作で現すものである。
魄氣の陽では両足が地を踏むから軸足を失い、体軸が後方の足から前方に離れて両足間に位置する(画像①)のではあるが、魄氣の陰で軸足に結んでいた下丹田(画像②)が体軸下端にあって、まったく浮動しているのではない。つまり下丹田が軸足に代わる地を求めて、魄氣と結ぶために内側前下方に向いているのである。
見えざる第三の足が下丹田から地に向いて伸びており、田中万川師範曰く三脚の如しである。つまり、腰を切る、腰を入れるという動作・姿勢がこれである。同時に後ろの足は弛緩屈曲していたのがぴんと張って、膝窩が伸展する(動画①)。
腰が入って下丹田が前下方に向かうと、直立する体軸とその目付けは左右の腸腰筋に著しい伸展と屈曲を強いることから、軸足交代と体軸移動の発条となるのである(動画②③)。
2019/5/21
言葉と念いと動作の三位一体で魂氣三要素(陰陽・巡り・結び)を呼吸とともに動作すれば、開祖の表現では体に熱のようなひびきを感得するようになる。それらを母指先から吸気と共に虚空へ発する思いで円を描くと、この〝微妙な変化は真空の氣に波動を生じさせる〟それが受けに伝わり、さらには取りの丹田に巡ってくることで魂氣と魄氣は再度結び、自己確立が為される。これを合氣と称するのである。
実際は、合氣の間に取りの上肢や上体、腰などが受けの身体に接することで互いの魄氣が結び、受けの体軸と軸足のつながりが解かれて体軸が浮動する。つまり、底が抜けて技が生まれる。 2019/5/30
片手取りに外巡りで対側の手の振込突きを払わせて相半身外入り身転換は、外に巡った手を陰の陰で上丹田に結び、鎬を作ってそれが相半身外入り身のための軸足側となる。一方、対側の振込突きは掌を包んで蓋をした母指先から陽で差し出して異名側の手で払わせ、なおも陽で同側の非軸足と共に相半身で外へ入り身して魄氣の陽から転換へと内股で着地する。払われた手は腰仙部に陰で結び、交代した軸足側の手となる。
ここで両手がそれぞれ上丹田と腰仙部(下丹田の背部)に結び、共に陰の魂氣で体軸に結ぶ瞬間となる。天地に結ぶと称するのであるが、他には後ろ両手取りの入り身転換に際する魂氣の置きどころが典型である。
実はこれぞ『合気神髄』にて示される合氣の特徴の一つであり、軸足側の手は体軸の一部であるから動くことは無い。そして対側の非軸足側の手は上丹田にあり、陰でもすでに陽で発する兆しにあって、非軸足の一歩後ろに置き換える動作とともに同じ方向へ振り降りるとか、体軸上を移動することとなる。
上丹田から降氣で地に結ぶ呼吸投げ(動画①)や、後ろ両手取り呼吸法の後ろ回転や前方回転で魂氣が上丹田から側頸に降りる場合である。
いずれにしても、開祖のいわゆる〝空の気を解脱して真空の氣に結ぶ〟を動作すると、はじめ軸足側の魂氣は上丹田に陰で結び体軸の一部となり、非軸足へと交代すれば魂氣は陽に発する兆しを得る。非軸足を後方へ一歩退くと同時に手を陰の魂氣のまま狭義の陽で側頸に降りる。軸足となってから対側の非軸足の踏み換えで入り身転換反復とともに魄氣が陽となって魂氣は側頸から空間に発せられ、魄氣の陽・継ぎ足で残心の過程では魂氣が陰に巡って母指先から取りの体側に結ぶ。
その途中受けの同名側の頸部に前腕橈側が密着して魂氣は受けの体軸の底にひびく。つまり、陽の魄氣に合わせて魂氣を陽で発するのではなく、すでに陰へと巡り始めるのである。以上が片手取り外巡り・相半身外入り身転換による呼吸法である。魂氣と魄氣はただ同期するものではない。
『合気神髄』より、〝三位の体にて〟非軸足を〝軽く半歩出す〟〝千変万化、これによって体の変化を生じます〟。
〝右手をば陽にあらわし 左手は陰に返して相手導け〟。
〝空の気を解脱して〟〝魂の比礼振りが起これば〟〝身の軽さを得る〟。〝真空の氣に結ぶ〟。
〝魂の比礼振りは、あらゆる技を生みだす中心である〟
〝円の動きのめぐりあわせが合氣の技であります〟、と(動画②)。
2019/5/31
交差取りのはじめに矢筈で受けの前腕屈側を包んでしまうと、その場で受けの手首を下から掬い取るしかない。したがって取りが与えた魂氣(手)は受けの四教によって受けの下丹田から解かれることはない。
交差取りを取り返して四方投げや呼吸法、天秤投げなどに導くには、先ず母指先を剣線上受けの方に向けた後、天を指して母指球を受けの手首橈側に接したまま陽の陰に手を開き、受けの手首の上を越えて外方空間に母指先を進め、魄氣(足腰)の陽で軸足を交代する。母指先の反りに合わせて取りの下丹田に巡る動作(回内)とともに後方の非軸足を受けに対して内側に置き換え、再度軸足交代して同じ半身で陰の魄氣(三位の体)とする。即ち内転換である。
体軸から解かれた下丹田上の(非軸足側の)魂氣(手)は改めて腋を閉じて前腕の回内を戻せば、矢筈に開いている第一指間(母指と示指の間)が下丹田で受けの手首に上から嵌まる角度を為す。ここにおいて受けの手首を上から容易に取り返すことができる。
交差取りに外転換で剣線を外して陽の陰で受けに結び、内転換することで母指先の反りに合わせて受けを下丹田に導き、陰の魄氣(三位の体)に至って矢筈が下丹田で受けの前腕長軸に嵌まる角度を為すことが可能となるわけである。
示指球を地に向けて受けの手首とともに包まれた掌に母指が受けの橈側から蓋をすることが即ち取り返すことである。その際下丹田にて留まらず、たとえば陰の陰で上丹田に振りかぶれば四方投げの持ち方となる。
2019/6/15
生命の二元である心の働きと体の働きはそれぞれのたましいに包まれた気を天地から受けて禊の動作で感じ取り生命を再確認する。
生きていることを心と体で再度確立するという思い。目にみえる形ばかりにとらわれず心のたましいで手を、足先を、目付けを、体のたましいで足、腰、体軸を自由自在に使わなければならない。
心のたましいと体のたましいで手足腰が活かされ、体の芯でそれらが一つになって体軸が直立すると六根の確立となる、即ち生きていることの再確認である。
2019/6/30
本文中の「技を生む」と「技をかける」の頻度
「技(業)(術)を生む(生み出す)(創造する)」「技(業)が生まれる」
「技が出る」「業が発兆する」「技(業)が成り立つ」など。
(武が生まれる、宇宙の結びの生み出し、は除く)
p12
1、技を生みだす
p38
2、合気の原理を通して創造することが可能である
p45
3、ひびきのなかに技は生まれてくる。
4、つまりいうと、空に生み出してゆくところの考えをもって稽古に精進してもらいたい。
5、技が生み出てくる
p62
6、声と肉体と心の統一が出来てはじめて技が成り立つ
p67
7、これ(空の気)を解脱して真空の気に結べば技が出ます。
p68
8、技と力を生み、
9、技の生み出し,(宇宙の結びの生み出し)、
10、無限に技が出る
p73
11、業を生む
p79
12、業が生まれる、
13、業を生む、
p86
14、業が自由自在に出る。
15、業が生ずる。
p104
16、技の発兆、
17、念いで業が無限に発兆する。
p108
18、魂の比礼振りは、あらゆる技を生み出す中心である。
p120
19、技を生みだす
p121
20、技も無限に包蔵され、生み出すこともできます。
21、円の極意は皆空の中心をつき、技を生みだすことにあります。
p163
22、一つの技術が生まれて来た
p168
23、24、業の発兆 業の発兆
p172
25、声と肉体と心の統一が出来てはじめて技が成り立つのである。
p174
26、念いで技が無限に発兆する
p175
27、このようにして出た技、
28、技の発兆
p176
29、宇宙のひびきの中の空に技を生み出していかなくてはいけない。
30、技の発兆、
31、千変万化の技を生みなす、
p178
32、神業(かむわざ)を生ずる、
以上32件。
「技(術)をかける」
p63
1、相手と相対した時にいまだ手をださぬうちに、すでに相手の倒れた姿が見える。そこでその方向に技をかけると、面白く投げられる。
p98
2、こちらから相手の不満の場所を見い出して、術をかける。
p162
3、急に背負い投げをかけて来た。
以上3件。
合気道では自身の禊の動作が呼吸と共に難場歩きで連なるうちに、相手にとっては技となり、そのことを〝生まれる〟と表現されているのであろう。
〝かける〟には、技を相手に向けて及ぼし、倒れる位置や姿勢を含んだ意味合いがあるようだ。それと、合気道以外の技については〝かける〟(仕掛ける)ものとして違いを明確なものとしている。
合気道の禊、単独呼吸法、単独動作がすでに〝技〟そのものであり、相対のなかにこれらが内在しなければ〝技〟の成立は覚束ないわけである。
P120 円の動きのめぐり合わせが、合気の技であります。
P121宇宙の気はすべて魂の円におさまります。おさまるがゆえに技も無限に包蔵され、生み出すこともできます。これが合気の魂の円であります。
吸気で天から両手に受けた魂氣を呼気で五体に巡らせて丹田に結んだ後、吸気で再び虚空に円を描いて発することを魂氣三要素と呼んでいる。吸気で発する手を陽の魂氣、呼気で弛緩して巡る手を陰の魂氣、魂氣の包まれた掌が丹田に着いたら魄氣との結びである。
つまり、魂氣三要素とは呼吸と共にある陰陽、巡り、結びであり、それらの動作は坐技単独呼吸法(動画)に集約される。 2019/7/3
降氣、回外、昇氣、一気、入り身運動、振り子運動、両手で氣の巡り