2025年
5月
18日
日
*つまり、正面打ちに対して、振りかぶりの逆半身一教運動に後手は無し。後手ではすべて外転換で受け流して逆半身入り身。限りなく同時に振り込み突きで逆半身外入り身なら裏、逆半身から相半身入り身一足なら表。
*取りの上丹田に陰で巡れば裏であり、対側の手は陽の陰で逆半身返し突き近似で掌を受けの手刀上腕近位に当て、受けの側頸にまで響かせて魄気に結ぶと外入り身・転換で体軸を交代して受けの魄気と一体となる。
*天を指す手刀が生まれる。受けとの接点は中段に上がる。手刀を振りかぶって接点を上げるのではない。
2025年
5月
16日
金
正面打ち一教裏の起り
相手が手刀を振りかぶる動作に術者の魂気・手を合わせることができるかどうか、すなわち接点で母指先から順に掌を開いて魂気を受けの真中に与えることができるかどうかである。相手の迫力を接点に受けた後、そこに止まって魂気を発するなら、母指先は受けの迫力の向かう取りの後方を指して掌はほぼ地に向いて開くわけで、魂気が受けの手刀の内側に入る余地は生まれない。正面打ち一教裏の起りはまさしくこの瞬間である。
植芝盛平監修植芝吉祥丸著『合氣道』(光和堂)『合気道』復刻版(出版芸術社)に「無我の境地に入れば、相手の動きを正しく察知することができるようになる」「自然に無意識に出る」「勝敗を超越した絶対不動の心から発する」「直覚力」(筆者註:考えずに瞬間的に物事の本質をさとること)によるものである、と。また「気の流れに従って体を捌いていく動作」であり、「相手が出てこなくてはならぬ気持ちにまで追い込み、これを捌いていく極処」とし、「言うは易しいが、真の会得は勿論一通りや二通りの修業で得られるものでなく、まず姿勢、間合い等形を正しくすることから始めて、不断の鍛錬により遂にはあらゆる面が渾然一体となる境地に達するのである」(p94〜95)
単独動作の鳥船では、はじめの左半身と右半身がいずれも魂氣の珠は掌に留まり、空間に発しているわけではない。呼気で丹田に巡って体軸が復活する。体軸に与る手は陰の魂氣である。つまり、すでに魂氣の珠を発した手刀では軸足の魄気と結んで体軸、すなわち開祖が喩える吾勝となり得ないのである。
正面打ち一教裏の動作
受けの手刀に接する取りの手首が互いの中間点を確保できなければ掌を開いて受けの側に魂氣を発することができない。ここで非軸足は進めずにその場で体軸を作って剣線を外す動作に転じる。つまり接点を自身の上丹田に巡って陰の陽の魂氣を包んだまま体幹の中心に結び、非軸足は踵を軸足の母趾先方向へ移して踏み詰めると剣線から外れた体軸の交代が適う。
対側の手足は元の体軸から解脱して正勝となり、逆半身で一歩進めて返し突きを放つつもりで第一指間を開いた陽の陰の掌を受けの上腕近位とそれに重なる側頸に突き当て、逆半身外入り身転換の体軸へと交代する。
上丹田の陰の魂気は相手の魄力を受け流して正勝となるから、自ずと陽の陽で掌が開いて受けの手刀の尺側手首を同名側の尺側手根部で接点を作る体勢が成り立つ。
今や軸足側の手は体軸に与る吾勝であり、それを動かして陽で緊張伸展し、相手の上腕を抑えにかかるのは合気道のいわゆる正勝吾勝勝速日・武産合気に添わない。一教裏の動作を合気道で行うには入り身転換によって非軸足側になった手、すなわち正勝で受けの手刀の屈側手首を取って体の変更による非軸足の置き換えに同期し、後方へ回して軸足交代とする。それに伴い受けの上腕に結んだ手は体軸を解脱し、自ずと伸展して体軸内を下りて下丹田に結ぶことで受けの手刀上腕は取りの懐に導かれる。受けの手首を取る手は鳥船の巡り、イェイ、近似で魂氣を軸足に落として取りの下丹田から後ろの空間に抜けると対側の下丹田に結んだ手の方の非軸足が膝を着いて軸となり、正座に進めると受けは地に俯せる。一教裏の固めが生まれる。
2025年
5月
14日
水
*掌に魂の玉を包む思いで橈骨手根関節の掌屈により母指先が地を指し、遠位橈尺関節の回外で内を指し、吸気にて橈骨手根関節の伸展で母指先の反りに合わせて天を指し、掌は開きはじめて母指の橈側外転により上肢全体の伸展と掌の開放が呼気の移行と重なり、母指先は円を描き腋が閉じると掌は体側に巡る。振り込み突きで気の巡り。
*正面打ち一教運動は一教、二教、三教、四教に共通する動作を言う。言い換えると、一教から四教は一教運動から連なるべきである。それぞれの技の起こりは一教運動でなければ意味がない。
2025年
5月
11日
日
2025年
5月
04日
日
*ナンバ歩きの90度のねじれ戻しが基本となり、内側の足先の外転、外側の足先の内転の繰り返しで体幹の中心線と目付は回転していく。開祖のいわゆる〝公転〟である。体軸が回転するわけではない。吾勝は不動。正勝は千変万化、その手は魂の比礼振り。