『日本語誕生論』大津栄一郎 きんのくわがた社 2000/5/5) より

 

P28 中略 日本語は、どこに特徴があるのだろうか。

 それは、第一に、日本語は単音節の音として始まったということである。次には、手ぶり、身ぶりを必須の補助手段とする言葉であったということであろう。この補助手段なしでは、単音節の音で意志を表示するのはまず無理なことだからである。

 われわれの先祖はものを指して単音節の音を出して、意思を伝え、手ぶり、身ぶりを加えて、自分の行動や意思を伝えただろう。

P29 中略  水や木や石を見て一音で表現していたとすると、それらがどこにあっても、またどんなに大量、あるいは小量であっても、同一の水や木や石であるということを認識することが、つまり、水、木、石という概念をもつことができるようになっていたことを意味している。同一、同種のものであるという認識がなければ、言いかえれば、「これはなんであるか」の概念がなければ、言葉は生まれないからである。この時点で、われわれの先祖は概念を持つことができたのである。

2013/12/27

P30 中略 それでは、原初日本語はどういう音を持ち、それがどういう意味で用いられていたのだろうか。

 大野晋は『日本語の起源』のなかで、「奈良時代をさかのぼると、母音は四個であったと推定される。それは a(ア)、i(イ)、u(ウ)、o(オ)の四つである」と述べている。e(エ)の母音が日本語に加わるのはかなり後になってからであるらしい。そこで、単音節の時代には、エ、ケ、セ、テ、ネ、ヘ、メ、エ、レ、エの音はなかったと思われる。それに賀茂真淵が教えていることだが、古くは濁音で言葉が始まることはなかったという。そこでそれらの濁音も除いて、ア、イ、ウ、オ四段の各音から単音節時代の日本語を空想してみると、こんなことになるような気がする。こんな音があり、それぞれこんな意味で使われていただろう。

P31 [ア] 「あれ」「あの」「あそこ」などを派生させた語幹として、「あ」は「遠いところにある人や物や場所」。

[イ] 「石」「岩」「巌」「池(石がまわりにあるので)」などを派生したと思われるので、「い」は「石」。

2013/12/29

[ウ] 「ウオ」「ウミ(魚水)」「ウラ(浦)」の語幹として、「う」は「魚」。

[オ] 「雄」「男」などの語幹として、「お」は「雄」。

[カ] 「川」「河川」「大河」などの語幹として、「か」は「川」か。あるいは、古代人にとってもっとも貴重な食物だったと思われるので、「貝」も考えられるかもしれない。その場合は、「牡蠣」「殻」「蟹」「樫」などの語幹として「固いもの」。中略 

P32 それに「かれ」「かの」の語幹でもあるのもたしかである。だがこれは「あ」の混用か、あるいはその逆かもしれない。「あれ」と「かれ」の区別はよく分からぬからである。あるいは、「あれ」と「かれ」の二つは別地方で生まれて、共存して残ったとも考えられる。

[キ] 人類がもっとも早く認識したもののひとつで、ほかに同類語を派生させないで、単音として現存するものとして、「木」。

[ク] 「暗い」「くらがり」「暮れ」「黒」の語幹として、「黒い、あるいは暗いもの、あるいはその状態」。

[コ] 「こ」も「き」と同じように日本語が発生して以来原音のままつづいている語として「子」。

2013/12/30

[サ] 「先」「崎」「岬」「坂」などの語幹として、「物や場所の先端」。

[シ] 「しも」「した」の語幹として「なにかのしたの場所や物」。

人類が直面するもっとも厳粛な事実を伝えるものであるから、発生当時の原音を残しているとして、「死」「屍」をさすとも考えられるが、

P33 死はかなり概念化した語であるから、言語発生のときから誕生したとは考えにくい気がする。文化がもう少し進んでから生まれた語ではなかろうか。ただし、「した」が「死」の語源になった可能性はあろう。

[ス] 「巣」「住む」「住まう」「洲(水の上に土の集まったところ)」「すずめ」などから、「集まるところや集まったもの」

[ソ] 「それ」「その」「そこ」のように「『あ』より近いところにあるもの、あるいはその場所」。

2013/12/31

P33 中略 [タ] 古事記の手力男神(たぢからおのかみ)に見るように、「手」。これから「手折る」「たわむ」「たがね(手金)」などが生まれたのだろう。また稲作が始まると「手」がいちばん必要な場所として、「田」になり、そこで働く「田の身」として「民」が生まれたのだろう。また「手」を高くさしあげて、「高い」などが生まれたかもしれない。なお、後にe母音が始まってから「手(た)」が「手(て)」に転音したと思われる。

2013/12/28

P34 [チ] 「地」「土」の語幹として「地」。

[ツ] 人類がまずまっさきに存在を意識したもののひとつであるから、「月」。

[ト] 「戸」「山門」「瀬戸」の語幹として「戸口、出入りするところ」「所(ところ)」もこの派生語か。

[ナ] 「なれ」「なんじ」の語幹として、「目の前の物をさす語」。「名」「名前」もこの語からの派生だろう。

[ニ] 目に見えるものの共通の語幹としての「に」はなかなか見えてこない。あえて言えば、「荷」か。その場合、「荷なう」、「煮る」などの同類語とすると、「荷」は「持って運んでいるもの。とくに食べものや獲物などのような大事なもの」ではなかろうか。 中略 

「ヌ」 「寝」。古語辞典等は名詞として「ぬ(寝)」をあげるが、後で触れるように、

P35 「ぬ」の単音で動詞にもなっている。eの母音を発音できるようになってから、「ぬ」が「ね」と変化したことを暗示している。

[ノ] 「の」は当然「野」だろう。中略  「草の生い茂ったところ」ぐらいの意味だったろう。だがしだいに、小高い、広々とした、視界の広い、心地よい野原をさすことになったのだろう。

[ハ] 「は」は「葉」「花」「林」などの語幹としての「葉」か。われわれがもっとも早く認識したものにちがいないし、食料にもしただろうから、もっとも早く名をもらったもののひとつであるにちがいない。「歯」も同じ語源か。

[ヒ] 「ひ」は「日」か「火」であるが、火は日より後のものであるのはたしかだから、当然「日」「太陽」。

[フ] これは苦労の末の推測だが、「ふ」は「父」「夫」「婦」の字が当てられるので、「ふ」は「身近な人間」のことか。

[ホ] 「洞」「掘」「掘る」などの語幹として、「穴や土のなかの空間」とも考えられるが 中略  火明命(ほあかりのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)というように古く火は「ほ」であった。「火」。

[マ] 「ま」は「目」。これが後に「め」に転音する。

[ミ] 「水」「海」「満つ」などの語幹として「水」。

[ム] 古事記などの産霊神から考えて、「む」は「産」。「うむ」「むすこ」「むすめ」などは派生語であろう。

[モ] 「も」は「物」「者」の語幹として、「形を持って、存在しているもの」。

[ヤ] 「や」は「家」「屋」。「いつもいるところ」。e 音が始まって「え」となる。

P37 中略 [ユ] 「湯」「弓」「夢」などは文化がある程度進んでからのものであるから、名詞の語幹としては、「ヨ」の項で述べるように、「夜」か。それとも「夕」か。

[ヨ] 「よ」は「夜」。 中略

2014/1/1

P38 [ワ] 「われ」「わたし」の語幹で、「自分」のこと。

中略  原初の日本語はおおよそこのくらいの音で出発して、それをいま見たような意味で使って、始まったのではなかろうか。そしてそのくらいのところが、初めて声を発することを学んだ動物としては自然なことのような氣がする。

 それに一度に急にこれだけの音(声)を出せるようになったわけではないだろう。彼らは舌の動かしかた、唇の形のさまざまな変えかた、息の出しかたなどを少しずつ学んで、一定の、だれにでも聞きとれる音を発する術を学んでいったのである。これだけの音が出せるようになるには長い時代が必要であったろう。そしてその音がいま見たような意味に定着するのにも時代が必要であったろう。それはまた、もっとも有力な部族のなかでまず意味が定着して、それが周囲に伝播するというかたちを取ったものであろう。

 いま見たことをもう一度漢字で表にしておこう。

P39  あ(彼) い(石) う(魚) お(雄)

    か(川) き(木) く(暗) こ(子)

    さ(先) し(下) す(巣) そ(其)

    た(手) ち(地) つ(月) と(戸)

    な(汝) に(荷) ぬ(寝) の(野)

    は(葉) ひ(日) ふ(夫) ほ(火)

    ま(目) み(水) む(産) も(物)

    や(家)         ゆ(夜か夕)よ(夜)

    わ(我)

わずかにこれだけの音と音意でどれほどの意思の疎通が可能だろう、と思う人もおられるだろうが、疎通が覚束ないながらも可能になったということは彼らには大きな喜びだったにちがいない。 中略

2014/1/2

P40 ここにあげたのは名詞と代名詞だけである。中略 もちろん、古代人に品詞の意識があったはずはない。だがわれわれの存在の場を表現する手段として言語が生まれたとすれば、動詞と形容詞が同じように生まれていたことは疑いようがない。古代人にとっては、名詞も動詞も形容詞も同じものだったのである。 中略  

P43 ではどのようにして動詞や形容詞がうまれたのだろうか。

 その過程は、同音異義語が加わることによってであったろう。 中略

たとえば、遠い所をさす「あ」は、やがて、天(あま)、天(あめ)の意の「あ」になり、雨を表す「あ」にもなったであろう。また、石をさした「い」は、やがて、石のように動かずにいるというわけで、「居る」の「い」になっただろう。

P44 また、手を高く挙げて示すことで、「手(た)」が「高」「高い」を表す「た」になり、両手を合わせて丸く結ぶことで、「足る」「十分である」「多い」の意味の「た」になり、さらに、手をだらりと垂らすしぐさを見せて、「垂る」「垂れる」の意味の「た」にもなっていったであろう。

 また、「と」は「戸」「門」と前に推測したが、「と」は同時に、あるいは遅れて、あるいはそれより早く、鳥を表す「と」であったかも知れない。日本全国でにわとりを呼んだり、追ったりするときに、「とー、と、と、と」と呼ぶのを考えると、「と」の音が非常に古いことは十分に予想される。その鳥を表わす「と」は、同時に、飛ぶの「と」になり、疾(と)しの「と」になったと思われる。

2014/1/3

P45 中略 だが単音節の原初日本語の時代に助詞も生まれていたとまでは断定することはできない。しかし、「の」や「は」が生まれていれば、表現が飛躍的に自由になり、単音節でも長い時代さほど不自由ではなかったと思われるから、助詞も生まれていたと考えたい気がする。

 「なのやは と?」(なれの家はどこ?)

 「わのやは あのやのさ」(われの家はあの山の先)

 

 「なは な と?」(なれは なにを とった?)

 「わは か と」(われは 貝を とった)

 

こういう表現が生まれていれば、つまり、助詞が生まれていれば、単音節でもかなり表現が自由になったと思われる。 中略

P46 しかし、助詞の完成が遅れたのは事実らしい。中略 そして現代の国語でも助詞はかならずしも必要ではない。

 「これ あげる」

 「きみ、明日、学校行く?」

 「どうも、食欲、ない」

 「あいつ、犬、きらいだ」

中略  これは助詞がかならずしも必要でないということを示していると同時に、助詞が古くは存在しなかったことを暗示しているように思われる。

 だが、「の」や「は」などは合理的な説明を受け付けないような複雑な用いられ方をしていること、

P47 また助詞は初めはおそらく意味をもった音と音の合間に軽く置く、低い音として始まったと考えられるので、音そのものよりも何かの音が入ることが大事で、その結果がおそらく各地の方言のきわめて多様な助詞になっていると考えられる。原初日本語の頃から、助詞的な弱い音(おん)の音を主要な音と音の間に軽く置く習慣が生まれていたと考えてよいのではなかろうか。

 実は、助詞としてなにかの「音」をおくということが大事なので「どの音」が「どういう意味の用法」と定まってくるのは、はるか後代になってであろう。とにかく、語と語の間になにか弱い音をおきさえすれば、よかったのだろう。

 こういう憶測をすると、原初日本語は単音節の名詞、代名詞、動詞、形容詞、ごく少数の助詞でもって始まったということになろう。中略

2014/1/4

P51 この単音節の原初日本語がやがて多様に変化して、われわれが大和言葉と呼ぶものに成長していったと私は思うのだが、それはどういう推移、変化を辿ったと考えられるだろうか。

 同音異義の語が増えたであろうと前章で推測したが、どんなに増えたとしても、単音で表現できるものの数は限られてくる。それに反して、歴史を経るに連れて、人間の知識は増え、命名すべきもの、表現すべきものの数は増えてくる。その数に対応するには、言葉を複音節化する以外に方法はなかっただろう。そして複音節化が進むとともに、さまざまな推移、変化を経て、大和言葉が生まれたのだろうと推測される。中略

P52 大和言葉とは、漢字、漢文が入ってきて、その影響を受ける前の日本語のことである。「のどかな」「なつかしい」「ゆかしい」などが代表的な言葉で、中略 『古事記』、『万葉集』、『古今和歌集』、『源氏物語』、『土佐日記』などの言葉が、大和言葉である。

 わが国では紀元前一万年頃石器時代が終わり、縄文時代が始まり、それが紀元前三百年頃までつづいたとされている。

 ではわれわれの祖先はいつ頃から声を発することを覚え、明瞭に聞きとれるいろいろな声を出せるようになったのだろう。ただの憶測にすぎないが、縄文時代に入ると、土器が作られて調理法が変わり、狩猟法も槍が弓矢に変わり、漁労も共同で行われるようになり、石器時代より多数の人間がいっしょに暮らせるようになったのだから、当然意思の疎通が必要になり、声を発する機会も増え、その結果、動物段階を脱した発声法を身につけるようになったのではなかろうか。そして竪穴住居が普及し、規模の大きいムラが生まれた頃には、明瞭に聞き取れる単音節の音を多数発声できるようになっていたにちがいない。

P53 だが縄文時代は一万年つづく。共同生活する人数は少しずつ増え、そういう集団の数も増え、生活も少しずつ楽になっていっただろうが、大局的には同じ生活が一万年つづいたと思われる。

 単音節の音で意志を伝えあって、不便さを一応感じなければ、よほどの変化や刺激が身近に起きなければ、単音節の言葉で人々は十分満足したままだったろう。

 こういう風に憶測すると、原初日本語は縄文時代に生まれ、縄文時代を通じて原初日本語の時代ではなかったろうかと考えられる。     

2014/1/5

 ではどういう経緯を経て原初日本語の複音節化が始まったと推測されるだろうか。中略  よほど大きな刺激がなけば、複音節化は始まらなかっただろう。その刺激になったのは、まえに引いたように、日本語にe母音が新しく加わったことだろう。では、どうして従来の母音に新しく母音が加わることになったのだろう。

 それはおそらくわが国が弥生時代に入ったためだろうと推測される。

2014/1/7

 わが国には紀元前三世紀に入る頃から、稲作の技術を持ち、青銅器、鉄器を持ち、その製作技術を持った集団が、主として北九州に渡来し始めたらしい。

P54 いわゆる弥生時代の始まりである。中略  土着の日本人たちは渡来人の生活、風俗に驚き、その技術にあこがれたにちがいない。中略  単音節の音を長く伸ばしてゆっくりと話していた先住民には、渡来人は北方系の民族だから、彼らが口を細めて、音節を連ねて、早口で話すのを聞いたときの驚きは大きかったにちがいない。彼らの流暢な話しかたは先住日本人には大きなあこがれであったろう。そして彼らの口を細めての発音には当然 e(エ)母音がふくまれていただろう。中略

 これで a(ア)・i(イ)・u(ウ)・e(エ)・o(オ)の五つの母音が揃ったわけであるが、だいたい同じ頃、濁音の子音も揃ったにちがいない。

2014/1/8

P55 北方系の言葉では濁音の子音は当然使われるであろうからである。中略  渡来人の新しい言語との接触が契機となって、原初日本語の複音節化が始まり、やがて大和言葉となって一応の完成を見るに至るのだろう。 中略

 遠いものをさす語だった「あ」が、複音節化して、やがて遠い「天(あま)」や「天(あめ)」になり、

P56 さらに天から降ってくるので、「雨(あめ)」にもなっただろう。遠くから近づいてくるものとして、もしかすると、「朝」も同根の言葉かもしれない。そう考えると、「明日(あす)」も同根かもしれない。 中略

 石をさしていた「い」は、やがて、「石」「岩」「巌」「池」「泉(石の水)」などに複音節化して、意味を明瞭化していっただろう。中略

 また魚をさしていた「う」は、「魚(うお)」「生み」「浦」などに複音節化したのであろう。もしかすると、「浮く」「上(うえ)」なども同根の言葉かもしれない。

  中略

 例を多くあげればいいというわけではないが、「陽(ひ)」を表わす「ひ」は、そのまま残って、「昼」や「ひなた」に複音節化し、

P57 さらに「日」を表わす「ひ」となり、「ひにち」「ひび」へと進展していったのだろう。また「夜(よ)」はそのまま残りながら、「夜(よる)」や「宵」を生み、「夜見(よみ)の国」「黄泉(よみ)の国」も生んだのだろう。夜見の国とは夜月影を通して見える国ということではなかろうか。それがやがて死者の国となったのであろう。

2014/1/9

 このようにして原初日本語の単音節の語を基幹にして、次々に言葉が作られていったと思われる。作られ始めれば、三歳の童児が驚くべき速さで言葉を覚えるように、驚くべき速さで言葉が次々に作られていったにちがいない。中略

P58 原初日本語では、なにかものをさして、音を発するというのが言語の原型であるから、地域、部族によって同じものをちがった音で表わしていたということは十分に考えられるし、それが時代の経過のなかで次第に有力地域、有力部族の音に吸収されていったものと思われる。

              中略

P59 自称の表現として、「われ」のほかに、「わし」「わる」「わい」「わえ」「わひ」「わら」「わり」「わん」などの方言があるとされている。方言と言うと、標準的表現があって、それが地方によって訛ったものという印象があるが、実情は逆で、複音節化の風潮が生まれたとき、それぞれの地域、部族でいろいろな表現が生まれ、それが残ったということではなかろうか。そのなかでもっとも有力な集団の表現が「われ」であったわけである。

 なおまたそれだけ多数の自称の表現が方言として各地に残っているということは、「わ」という単音節の時代が非常に長かった証であるようにも思われる。

2014/1/15

P141 中略  長い時代つづいた単音節の原初日本語が、渡来人の言語に接したことによって、その刺激で複音節化が始まると、急速に、今日でも日本語の根幹になっている、まことに精妙、部妙な大和言葉を作りあげていったのである。文字を持たずに、外国語とまったく違う状況認識と分類による表現方法を生み出し、豊かな情意、詠嘆の表現を可能にする言語を生んだわけである。大和言葉がいつ頃完成の域に近づいたかは分からない。中略  紀元元年頃には一応の体をなしていたであろう。そして、飛鳥、奈良の時代に入ってなお生成、発展をつづけていったものと思われる。

P145 中略  大和言葉の延長が日本語であり、中略  だが大和言葉と日本語とは異なる。前に大和言葉は文字を持たぬ、漢字、漢文の影響を受ける前の言葉であると述べた。中略  それにしたがえば、日本語は文字を持ち、漢字、漢文だけでなく、そのほかの国語の影響も受け、それを吸収してできた言葉である。

P146 そこで、大和言葉の日本語化への変化の過程のまず第一歩は文字の知識とその活用である。

2014/1/17

大和言葉の代表は『万葉集』や『古事記』であると前に述べたが、文字を持たない大和言葉の代表的表現が今日のわれわれに残っているのは文字のためである。それは人間の声を形にして表わしたものが文字であることを知ったことと、漢字によって大和言葉の音を表現しようとしたことのおかげである。中略

その頃書物があるわけではないから、それは渡来人の識字階級からの習得であったろう。それには数世紀の努力が必要であったろう。

P147 中略  やがて、大和言葉を漢字で文字化しようという動きが始まったものと思われる。

 その一番古い証拠は、埼玉県の稲荷山古墳から出た鉄剣の銘文である。中略

すべて漢字であるが、わが国で発見された最古の文章である。中略 ここでは大野晋の解読例を紹介する。 中略

P149 中略 「辛亥の年、七月中に」という表現で、中国の歳月の表現が日本語化するとともに、その漢字がすでに日本語化していることが推測できる。それに次の「記す(しるす)」は原文は「記」一字であるが、「キ」と読まれたはずはないので、「記」の漢字の意味を知って「しるす」としたわけで、「しるす」という大和言葉に意味を勘案して「記」の字を当てたと考えられる。「記」には漢字の日本語化の兆候が感じられるように思う。

 同じように、「おみ」という大和言葉に「臣」という漢字を当てるのが定着しているのも感じられる。

それに「其児名テヨカリワケ」とあると、どうしても「其の児の名は」と助詞が生まれていたのも明らかなような気がする。 中略

P150 中略 片仮名で表記した人名は、一音がすべて漢字一字で表わされている。漢字の音を借りてきて、人名を表わしたわけである。ということは万葉仮名がすでにこの時期に始まっていたことを意味する。万葉仮名とは、漢字の音を借りて大和言葉を文字化する、音借の方法と、漢字の訓、つまり、意味を借りて大和言葉の表現に漢字を利用する、訓借の方法で、大和言葉を文字に写す試みだった。この刻文の人名表現は音借によっての文字化の例であり、 中略この鉄剣の文は万葉仮名の先駆である。

2014/1/21

 だが私がもっと興味を持つのは、刻文のなかの「百錬の利刀」という表現である。「百錬」も「利刀」も、明らかに漢字であって、大和言葉ではない。ということは、

P151  この時期には漢字の使用が始まっていて、大和言葉に異質なものが加わって変質し始めているということである。それは、また、この時期より前にすでに大和言葉は十分に成熟していたということも意味するわけである。

 そしてこの鉄剣が作られた時期は明瞭である。ワカタケル大王は雄略天皇のことで、その辛亥の年とは471年であるというのが学会の定説である。これは、『宋書・倭国伝』にでている、雄略天皇に比定されている倭国王武が宋の順帝に使者を送って上表した478年の7年前のことである。そうすると、五世紀後半には大和言葉は完全に成熟の域に達していたことになる。中略

P154  では、大和言葉はいつ頃一応完成していたのだろうか。中略  その参考になるのは、服部四郎が言語年代学的調査の結果として、中略  およそ1450年前であると1956年の論文で発表していることである。

 それによるとおよそ西暦500年頃となり、この雄略天皇の時代ということになる。中略  服部自身の個人的憶説として、日本祖語は西暦紀元前後に北九州で栄えた弥生式文化の言語ではないかと考えていると述べている。服部の日本祖語は私の言う大和言葉ではなかろうかと、私は思うわけである。

2014/1/25

 それを参考にすると、大和言葉の成熟は   中略  

P155 弥生式文化が始まって300年あまり経った紀元元年頃には、一応の段階に達していたと考えて差し支えないように思う。私がそう憶測するのは、中略  倭の奴国が後漢の光武帝に朝貢して『漢委奴国王』の金印を得たのは西暦57年であり、さらに倭国王師升等(すそと)が安帝に朝貢したのが107年だからである。    中略

 相当に広い領域を支配していた者が、当時の世界の中心、中国の首都に外交使節を送るとなると、自国にすでにかなりのことに耐えうる言葉があったと考えて間違いなかろうと思うからである。

 それから大和言葉を漢字で表現する過程が始まり、万葉仮名では同じ音が多くの異字で表現されているのが、中略  やがてそれぞれの表現にもっとも適する漢字に統一されていったのだろうと思われる。

P156 それには長い時間と努力が必要であったろう。だがその結果、大和言葉は日本語に、つまり、文字を持った言語になったのである。

2014/2/4

やがて民族として本当に誇り得る発明が生まれた、仮名の発明である。中略  われわれの先祖が意味を理解できる限り漢語をそのまま、つまり、漢字音のまま取り入れて、日本語化しようとした 中略   だが 中略  

P157 漢字の「音」だけを、「意味」抜きで、借りようとする動きも生まれていた。助詞、あるいは動詞、形容詞などの活用語尾、つまり、明確な意味を持たない語を同じ、あるいは似た音の漢字で表現しようとする動きが始まった。意味抜きで、一音を、一語、一字で表わそうとする動きである。

「かな」というのは「かりのな」ということで、漢字の真名(まな)にたいして、「借りた名」ということである。そしてこれは表音文字である。われわれの先祖は、仮名を発明することで、表意文字と表音文字の両方を持つことができるようになったのである。

仮名には、周知のとおり、平仮名と片仮名がある。中略 平仮名が早く成立したようである。初めは、ある音に相当する漢字の選択から始まり、やがてその漢字の草書体をさらに崩して、簡明化することから始まった。それがしだいに普及して、やがて、漢文を学ばない女性の、いわゆる、「女手」の文字として広がった。

2014/2/24

P158 だが紀貫之が『土佐日記』を平仮名で書き、勅撰の『古今和歌集』を平仮名で編集して、公認の文字となった。

P160  中略  片仮名は奈良京都の学僧たちが経典を読む便宜としての訓点に万葉仮名の一部だけを書いて、利用したのが初めとされている。

中略 P161  片仮名が一応成立したのは、片仮名交じり文の『今昔物語』が成立する12世紀前半頃と見られている。中略  片仮名はだいたい男手の漢文調の文に用いられた。今日では、片仮名は外来語の表記語になっていて、平仮名と片仮名が住み分けている形になっている。中略

そしてこれで日本語は、音、ないし、声を、完全に表現できるようになったのである。中略

P208 たとえば、「た(手)」を考えてみる。手というものの性質上、「た」で始まる言葉には動詞が多い。「たすく」「たおす」「たたく」「たどる」「ためる」「たぎる」「たばかる」

P209 「たすく」は「た(手)です(助)く」で「助く」で、「たおす」は歴史的仮名遣いでは「たふす」であるから、「手で伏させる」で、「倒す」というわけである。「たたく」はいかにも手でなんどもたたいている感じの言葉であるし、「たどる」は元来、よく分からない状況のなかで、手がかりを探しながら行くという意味であるから、「た(手)」から生まれた語である。「ためる」は、両手で凹みを作って水を溜める動作を表わした言葉だろうと思われる。また手で無理に曲げるで「矯める(ためる)」にもなったであろう。「たぎる」は手が切れるほど煮え立つ状態を表す言葉として生まれたのだろう。「たばかる」は手で計るが原義で、手玉にとるというような意味を付与されたのだろうか。

 だがこれらは三音節の動詞であって、二音節の動詞には次のようなものがある。

「たく」「たつ」

「たく」は、おそらく「た」から生まれたいちばん古い動詞と思われるが、

P210 手で髪をかきあげる、あるいは手で舟をこぐ表現に用いられた。「たくしあげる」という表現は残っているが、「たく」は今日では死後になっている。「たつ」は手でひきちぎるか、切るかする動作を表わす言葉として生まれて、「絶つ」となったのだろう。ほかにもこんな語がある。「たつ」(立つ) 「たる」(足る) 「たる」(垂る)

これらは「た(手)」とは別系統のおうに見えるが、「立つ」は、前に「高い」を「手(た)」から生まれたとしたが、恐らく「高くなる」という意味で生まれた語であろう。「足る」は、いくつか語源説があるようだ。しかし、どれもあまり納得のいかないもので、今日では「足」の字が当てられているけれども、両手で掬うように作った凹みいっぱいになる表現であろう。「垂る」はその両手の凹みからしたたり落ちる表現であろう。

2014/3/1

P211 中略  名詞に移ると、「た」が生んだのはまず「田」だろう。田は手で働くところぐらいの意味でまず、「た(手)」と呼ばれていて、やがて漢字が入ってきて、その形からしても、「田」の字が当てられるようになったのではなかろうか。「民」は、「田を作る身」であるというのが有力な語源説であるが、さらに古くに遡って、「手で仕える身」のことではなかろうか。

P212 英語でも、手仕事で主人に仕える人間たちはHands(手)と呼ばれるが、それと同じ発想の言葉であろう。それにたいして、「臣」は、「大いなる身」で、いわゆる「ご大身」のことである。また鉄剣、鉄器のせ蔵のときから使われたからだろうか、「たがね(鏨)」は古い言葉で、『万葉集』にも出てくるが、これは元来は「手金(たがね)」であろう。また手で稲などをひとくくりにしたものが「手葉(たば)」、「束」で、手でふり回すから「手(た)ち」、「太刀」で、「立つ」から「立てる」が生まれ、そこから「立て」、「楯」が生まれ、そこからまた、立てられたものとして、「館」がうまれたのだろう。

 それに、水を掬うように両手をそろえて丸めたものが、「手間(たま)」、「手の間(たのま)」で、その形から「玉」が生まれ、玉が貴重なだけでなく、それを手を丸めて大事に持つ姿、形からも、「玉」はやがて貴重なもの、肝心なものをさすようになり、「霊(たま)」ともなったのであろう。「玉」と「霊」が同根の語であることはだいたい学界で認められていうようであるが、私はその頃には「霊」には霊力のようなものは認められていなかったと考えたい。時代が下って、「たましひ」四音節の語になって、「霊」や「魂」の字が当てられるようになってから、今日われわれが想定しているような「たましい」が誕生したのだろうと思っている。中略

2014/3/12

P218 わが国には言霊信仰があるとされている。言葉には霊力があるので、言葉を唱えればその霊力で幸せにあずかれたり、逆にむやみに言葉を発すれば、その言葉に仇をされるという信仰である。たとえば、「雨」と言えば、現実に雨が降り始めるという信仰である。そのため、日本人は言葉を恐れ、寡黙になり、自己主張をしない国民になったという説も行われているようである。

 それはたしかにわれわれの国民性を突いてはいる。江戸時代の武士は家ではどうやらほとんど口をきかなかったらしいし、職人もほとんど口をきかなかったらしい。むしろ口のきき方を知らなかったようである。昔は食事の席でなにかしゃべると叱られたりした。最近では「言挙げする」人間がやたらに増えたが。元来わが国では「言挙げする」人間が忌避されたのは事実である。

 だがそれが言霊信仰の結果であるとするのは、私にはどうも間違っているように思われる。

P219 われわれはたしかに忌言葉(いみことば)というものを持っている。特定のときや場所では口にしてはならない言葉やその代わりに用いねばならない言葉のことである。 中略  不浄なものや縁起の悪い言葉を避けるわけだが、神聖なものを口にするのを避ける場合もある。 中略  この忌言葉は言霊信仰のせいであるという人もある。だがこれはわれわれが縁起をかつぐのが好きな国民だからではなかろうかと思う。狸は「他を抜くから」、蛙は「お金が返る」から、招き猫は「福を招く」からという縁起で、それらの置物を珍重するのと同じたぐいのことであろう。神聖なものを直接口にするのを憚るのは、いわゆる「名指しする」のを避けるわけで、 

P220 儀礼心の表われのように私には思われる。

2014/3/31

 また神に捧げる祝詞(のりと)も言霊信仰の表われのひとつであるとする説もある。祝詞には神が人々に告げる場合と、人々が神に祈る場合のふたつがあるらしい。前者の場合は、神が神社の縁起や来歴を教えるもので、後者の場合は、祭主が神をことほぎ、起請した上で神の恵みを願うのが普通である。このどちらの場合も、言葉の霊力を信じるからというより、神の霊力を信じての行為のように思われる。言霊の信仰から生まれたとするには、どこか理屈に合わないところがあるように思われる。

 それに、まずなにより、「言霊を恐れ謹みて」というような用例はないのである。言霊という言葉は、『万葉集』に三例があり、『続日本後記』の嘉祥二年の条に一例があるが、どの場合も、「言霊の幸(さき)わう国」という表現で現れている。中略

P221 「幸わう」を 中略  『日本国語大辞典』も『時代別国語大辞典・上代篇』も 中略  「豊かに栄える」と自動詞の意味にとっている。 

 ふたつ目の例は、『万葉集』三二五四の柿本人麻呂の反歌にある。長歌は、葦原の瑞穂の国(わが国)は、神世の昔から、言挙げせぬ国(言葉に出して言い立てるようなことはしない国)であるが、私はいま、お幸せに、ご無事でいらっしゃるようにと、あえて言挙げして申しますという意味で、それを受けた反歌である。

 磯城島(しきしま)の日本(やまと)の国は言霊の

 幸はう国ぞま幸(さき)くありこそ

(敷島の大和の国は、言霊の豊かに栄える国です。どうかお幸せにすごされるように)

P222 中略  「昔の人は言葉が少なく、むやみに言葉を発するのは憚られることとした。しかし、わが国は『言霊の幸わう国』、『言葉のどんどん豊かになって行く国』です。ですから私は言葉にします。どうかお幸せにと」。こう訳して意味が通じるように思われる。

 それに濁音は遅れて生まれたことを考えると、「ことだま」は以前には「ことたま」であったかもしれない。そうすると、中略  「霊」は「玉」であったかもしれない。

2014/4/14

P223 すると、はたして、『続日本後紀』嘉祥二年の条(くだり)に、その言葉が現れるのである。中略

 (この国の 言い伝ふらく。日の本の 大和の国は 言玉の 幸わう国とぞ。)

この「言玉」は「言霊」と同じものであろうという想像はつく。では「玉」を「霊(れい)」のつもりで使ったのだろうか、という疑問が湧く。だが、「玉」が「霊」の当て字であったとは思われない。どちらも漢字の当て字であるからである。

 すると少し示唆を与えそうなのが、もうひとつの『万葉集』二五〇六の歌である。

 言霊の八十のちまたに夕占(ゆふけ)問う

 占(うら)正に告(の)る 妹はあひ寄らむ

P224 中略  この夕占(ゆうけ)というのは、わが国に古くからある辻占いのことである。百科事典等を見ると、 中略  通る人がだれか分からないうちに辻に立って、通りかかる人が無意識に発する言葉を聞いて、占ったとある。その次の歌、『万葉集』二五〇七はこうである。

 玉桙(たまほこ)の 路行占に うらなへば

 妹は逢はむと われに告(の)りつる

「玉桙の」は路にかかる枕詞。この路行占いが、つまり、辻占いである。大意は、辻占いで占ったら、恋人は逢いますと、私に告げた、ということである。

 ではこの辻占いはどんな風に行われたのだろうか。暗い辻で、だれかが「会います」と言ったから、恋人が会いますという卦が出たということだろうか。それなら、正にずばりの占いとなるが、そういう確率はおよそ低いであろうし、それに占いの神秘性も失われてしまう。

P225 占いの占いたるところは、出た卦をどう読むかというところにある。では辻占いとはどういうものだったのだろうか。

2014/5/12

 中略  私はこんな風に想像したい。暗い辻に立って耳を澄ましていて、最初に聞いた文章でではなく、最初に聞いた音によって、吉凶を占ったのではなかろうかと。たとえば、だれかが最初に「あ」という言葉を発したら、つまり、「あ」で始まるなにかの言葉を口にしたら、それは「会う」という占いが出たということであり、最初に「よ」という音を聞いたら、「良いことがある」とか「寄ってくる」ことだ、というような占いである。それなら、その音から意味を汲みとる面白さもあるし、占いの占いたる神秘さも残るわけである。中略  次に男に会うか、女に会うかで、あるいは犬に会うか猫に会うかで、一団の小学生が順ぐりに全員のカバンをかついで帰らねばならぬような遊びもこの間まであった。そういう遊びは辻占いの名残であろう。そう思うと、私の想像は当たっているような気がするのだが……。

 そうであるとすれば、「言霊の八十のちまた」は、日本古典文学大系の注のように「言霊のはたらくちまたで」ではなくて、

P226 「言霊の多いちまた」で、あるいは、もう一歩踏み込んで、「人の声の多く聞かれる辻」で、ではなかろうか。そういう辻に夕方暗くなってから立って、占いをしてみたら、正しく占いは当たった。恋人は逢い寄ってくるだろう。そういう大意であろう。

 そうであるとすると、「言霊」の方はむしろ「言玉」である。つまり言葉のひとつひとつの玉である。音節の音である。

 「言霊の幸わう国」とは「言霊の豊かに栄える国」ということ。つまり、前章で見た「の」、「た」、「も」のような語幹の音に、いろいろな音がひとつ、あるいはふたつとつづいて、次々に新しい言葉が生まれてくる国ということではなかろうか。「言霊の幸わう国」という表現には、日本語が急速に発達し始めて、心の疎通も容易になり、典雅な表現も可能になって心に雅やかさを感じられるようになったわれわれの先祖の喜びが感じられないだろうか。私には少なくとも「言霊の幸わう国」という表現に言葉を恐れたたり、はばかったりする心情が発露されているとは感じられない。珍説の様にひびくが、「言霊の幸わう国」は、単音節で言葉が始まり、複音節化して、急速に語彙が増えていった喜びを表した表現なのである。  中略

2014/6/13

P228 中略  

最近では言霊信仰と呪詞・呪文信仰とが少し混同されているように思われる。

P229 『魏志・倭人伝』に、「名づけて卑弥呼と言う。鬼道を事い、能く衆を惑わす」とあり、民俗学の方面でツングース族のシャーマニズムが有名になったため、卑弥呼は心霊や死霊と直接交流して、預言、卜占、治療などを行う呪術師シャーマンと見なされることが多い。しかし、記紀の記述などから判断し、また『魏志・倭人伝』に「王となりてより以来、見る者少なく」とあるのを考えると、卑弥呼は、人の近づけない、神聖な祭儀の主宰者だったと思われる。言霊信仰は一般には、物に字を書くと、物が書かれた字そのものになる、あるいはその字の魂になるという信仰で、位牌は戒名を書かれて、経をあげられると、故人そのものになるとか、塔の形に板を切って、梵字を書いてもらうと、故人を慰める仏舎利の塔、つまり「そとば」になるというようなたぐいの信仰である。

 だが記紀の神代の巻の記述を見ると、現世界と死世界との区別はあまり大きくはない。神々も素朴に人間的で、伊邪那岐命の糞、尿からも神々が生まれている。物忌みの風習があった気配は感じられない。歴史時代に入ってからの記述でも、死は淡泊に書かれている。死んでしまえば、人間はそれで終わるのである。古代史には、皇位継承のためや、政権維持や政権奪取のため、無実の謀反の罪を着せられて、政敵の一族

P230 が抹殺されてしまう例がいくらでもある。勝利者が自らの暴逆を恥じている気配もないし、政敵の怨みを気にしている風もない。怨霊のたたりを恐れたり、天災、旱魃(かんばつ)、疫病などをなにかのせいにしたりするのは、仏教や儒教の教えがようやく広まり、知識も増え、ものの道理や理非を考えるようになってからと思われる。

2014/7/16

 具体的には、桓武天皇が自分の嫡子を次の天皇につけるため実弟の皇太子・早良(さわら)親王を死に追いやって(七八五年)、良心の呵責に苦しむことになった頃ぐらいからではなかろうか。天皇の夫人藤原旅子、母高野新笠(たかののにいがさ)、皇后藤原乙牟濾(おとむろ)が相次いで亡くなり、皇太子も病についたりして、陰陽師に占わせると、早良親王の怨霊のせいであるとのことであった。天皇は親王の霊を慰めるため崇道(すどう)天皇の尊号を送るが、それでも恐怖は去らず、造営中の長岡京を捨てて、平安京に遷ることになったという。

 それに、藤原時平の讒言(ざんげん)に遭って太宰権帥(ごんのそち)に左遷された菅原道真が二年を経ずして太宰府で亡くなった(九〇三年)とき、道真の怨霊が都をめざして飛び去ったという噂が広がったらしい。その六年後時平が三十九歳で若死にした。

 そして三十年近くたった九三〇年京に落雷が烈しく、清涼殿にも雷が落ちて、公卿二人が死ぬ事件があり、それが道真の怨霊のせいにされた。道真が無実だったことを

P231 知って後悔していた醍醐天皇はこれがもとで崩御し、時平はすでに早く(九〇九年)世を去っていたが、その子孫がつぎつぎに若死にし、それを道真の怨霊のせいにして、道真の霊を慰めるため、彼を祭神(さいじん)として北野の地に神社が立てられた。怨霊が恐れられ、加持祈祷が盛んになるのは、この頃からだったのである。平安京の庶民は陰陽道に全く支配され、朝起きると、暦を見て、その日の、また方角の吉凶を占って、すべてそれに従って生活していたと言われている。言霊信仰とは別箇のものである。

 なお、藤原時平は人形浄瑠璃と歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』で時平公として悪公卿の代表となり、江戸の庶民が鬱憤を晴らす敵役となった。鬱屈した下級武士たちは理知の鋭峰の切れ味を川柳で大いに楽しんだが、川柳詠者たちにには時平は怨霊の雷に当たって死んでもらわねばならなかった。 中略      

P233 中略 雷を道真の怨霊としておそれおののいた平安京の庶民をおのずから揶揄する理知が感じ取られる。江戸の川柳詠者たちの理知は平成の世のわれわれに勝るものがあるようにさえ思われる。平成の世のテレビや雑誌は、庶民受けを狙って、怨霊や、たたりや、霊界やらについてまことしやかに語って、平安京時代程度にまで迷信を広めようと努めているかのようである。 

 言霊信仰と祝詞信仰や怨霊信仰とは別個のものである。

2014/8/20

 中略

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