軸足と同側の魂氣、つまり手を膝や丹田に結んで体軸を安定・直立させ、対側の足を置き換えてその場で軸足に交代させる。いわゆる難場歩きである。合氣道では差し出して伸展させた手は陽の魂氣の働きであり、同側の置き換える足は非軸足である。鳥船の陽の魄氣が体軸を移動させ、軸足へと交代する兆しとなる。このとき、いよいよ軸足へと交代して体軸がそこに繋がって移動し終えたなら、同側の手は陰に巡ってその膝や丹田に置かれなければならない。入り身運動である。つまり魂氣と魄氣の結び、単独動作での合氣が為されたわけである。片方の手足腰が静止という体軸に与ることは、対側の手足腰に自由な動作を生むわけで、このことが合氣の本体と言ってよいだろう。
鳥船は正にその動作であり、開祖が合氣とは禊であるということを繰り返し述べておられる。入り身、入り身転換、体の変更、回転、いずれにも軸足交代を伴う体軸の確立が通底している。
ところで非軸足を進めるとき、魂氣が下段に差し出されると動線上に手が置かれるから、足は半歩も進まない。そこで魂氣を内に巡って下丹田へ手を還すと、腋の下が開いて足腰は容易に進められる。鳥船のホー・イェイである。
一方、上段に振りかぶる際は同時に腋の下が大きく開き、同側の非軸足は半歩進めることが容易となる。手が下丹田に巡るときは既に軸足交代が終わり継ぎ足で残心の段階となる。
このように相対動作で下段と上段に魂氣を与えたなら、それぞれで魂氣の陰陽・巡りと非軸足の入り身は微妙にずれることが解るであろう。手足腰目付けの一致とは、単に同時に動かせばよいというものではない。与えて触れた点では魂の比礼振りで結ぶが、取らせた点は陽の魂氣としては既に自身のものではない。母指先から陰に巡って、同時に入り身した魄氣に結んで自身の体軸に預かり、その体軸上を各丹田に魂氣が上り下りする間に軸足を交代して、初めて非軸足とともに陽で発することができる。
体軸に置いて手を休ませても、それは陰の働きを持つ。
したがって軸足と共に体軸を作る魂氣は同時に陽で発することが出来ない。魂氣が魄氣に結ぶことこそ合氣であるからだ。合氣が解けるとき、非軸足側の手は垂れている。陽でも陰でもなく働きのない手は、巡りのない手刀と同じだ。
2017/10/8
相手を見てはならない。というよりも、見ることの出来ない動作にならざるを得ない。これが合氣である。その理由を述べる。
まず、目付けは非軸足の先に合わせる。左右の目や耳や手が最大限に働くのは、転換や回転の結果、受けの存立を奪った取りの体軸の進む方向に、左右対称の位置を占めるときである。但しこのとき既に受けは螺旋で落ち、互いの目線は合うことがない。
入り身では受けの真中を取りの陽の魂氣とともに見るが、受けとの剣線は後ろの継ぎ足で外すことにより目線も外れる。たとえ坐技であれ、魂氣が陽で結ぶ時や陰で巡る際、あるいは上体のみを入り身・転換するときは剣線に対して直角から180度の転換を目線で行う。これが体軸の転換・移動における原則、一眼二足三胆四力である。
互いの体軸が結んでからは陽で魂氣を発し、交代した非軸足先とともに体軸の向かう先を見ることで技が生まれるのである。すなわち残心である(動画)。受けは落ちているから目線の合いようがない。固め技の際は受けが地に伏せていて取りの目付けが水平であるから、目線は受けに向くことはない。天地の間を広く見渡しているから受け以外のあらゆるものを目で捉えているわけである。
意識して目線を逸らせることは、転換や入り身転換そして上体の入り身・転換などが緻密に行われないときの対症療法のひとつであり、根本的には基本動作からの矯正が必要であることは言うまでもない。
2017/10/10
丹田における魂氣の陰陽の巡りは地から屹立する体軸上においてのみ可能である。地に繋ぐ軸足の存在は対側の非軸足を生む。その交代が緻密に行われて体軸から非軸足が解かれるとき、同側の魂氣には陰から陽への兆しが生まれる(動画①)。
つまり、一旦魄氣と結んだ魂氣は、軸足交代によって体軸の形成から自由になり、同側の非軸足の進行とともに丹田を経て母指先から陽で発する。空の氣を解脱して真空の氣に結ぶという表現に相当する動作であろう。
鳥船の陰の魄氣であれば両足が軸足と非軸足に分かれているが、陽の魄氣は両足共地に突っ張り、軸足でも非軸足でもない。体軸は地に繋がらないから両手は丹田に結ぶことなく、魂氣は中に浮いたまま両足から直に魄氣を受ける瞬間である。このまま魄氣が静止して手を働かそうとするとき、これを所謂力と呼ぶ。
また、軸足を交代して入り身転換、非軸足を後ろに置き換え半身を戻して体を変更する過程で、転換に際して体軸に結んでいる軸足側の魂氣を早々と陽で発し、取らせた受けの手を前に差し出そうとすれば、難場歩きの原理は破綻する。
合氣によって受けに結び、取りの残心で体軸が移動して丹田に巡るのが氣結びの力、つまり呼吸力であって、所謂力とは異なることを銘記すべきである(動画②)。
2017/10/14
受けが取りに正面打ちを動作する際、入り身投げの稽古においては取りの魂氣が受けの手刀への氣結びから正面当てが及ぶことは当然受けが予知している。そこで、受けは対側の手で取りの真中を打つ(突く)ことなく、取りの正面当てから頭頸部を守るために、手刀を眼前に翳す動作が受けの手順として指導されていることもあるようだ。
入り身から投げの成立には、取りの魂氣が受けの側頸から体軸にひびき、降氣で受けの仙腰部から底を抜き、取りの下丹田に巡る残心を作ろうとする。受けは魄氣で体軸を支え、自身の下丹田で取りの魂氣を受け止めようとする。受けの体軸上に生まれる取りの魂氣と受けの魄氣の摩擦が、互いの体軸の確立である魂氣と魄氣の結び、つまり合氣による命の覚醒を生むのである。
取りから発せられる魂氣を避けて自ら受け身だけを行う相対動作は、そもそも合氣の理合を解さない稽古であるが、おそらく承知したうえでの健康上の選択であろうか。
2017/11/1
陽の陰からと陰の陰からでの魂氣の陰の陽への巡りの違いに伴う魄氣の動作の違い
正面打ち一教裏は、上段受け流しで魂氣を陽の陰の返し突きとして外入り身転換を行い、その魂氣を陰の陽に巡って受けの上腕を包んで下丹田に結ぶのが基本であろう。
ところが外入り身で静止した場合は魂氣を下丹田まで巡らすことが出来ない。継ぎ足の直後、受けに密着した体軸上を魂氣は陰で中丹田(側頸)に結ばざるを得ない。なぜなら、そこで手を伸ばそうと動作すれば筋力に頼るしかなく、難場歩きの理に反する。継ぎ足に至らず体軸移動を欠く陽の魄氣のままでは尚更であるが、稽古ではよく経験することだ。
魂氣の巡りを魄氣の動作と同期して完結するまでを合氣とするなら、意図して上肢の動作のみを偏重するわけにはいかない。所謂力みのない合氣の動きとは、後手に始まる相対の結びから、緩急と、陰陽(体軸を通る最小の円運動と上肢を伸展する最大の円運動)で巡るうちに足腰が置き換えられ、軸足交代が可能となって初めて成立するのである。
そこで、入り身に続く転換の足腰が魂氣の巡りに同期する機序を考察する。まず単独基本動作の入り身転換を知ることから始めるべきであろう。すなわち、魂氣の内巡りに合わせて一歩入って軸足へと着地した足先が、剣線に直角からその場で更に45度内旋して踏みしめると入り身・転換の軸足交代が完了する。したがって着地したとき魂氣は陽の陰から狭義の陽へと返して(狭義の巡り)おかなければ、後に続く45度の踏み込みで陰の陽への降氣の動作(腋を閉める)に移れない。つまり、踏み込んで軸足となってからでは魂氣を上丹田の高さから下丹田まで巡らせる(腋を閉めて上肢を降ろす)ことができない。腕の力のみで受けの上肢を降ろさせようとする動作になってしまう。むしろ、魂氣が巡るから45度の踏み込み(陰の魄氣で軸足を確立すること)ができるわけで、片手取り入り身転換の術理に一致する。
入り身の位置で足を踏み込み軸足としてしまった場合は残心に相当し、このとき体軸は互いに密着して返し突きの手は陽の陰で受けの上腕伸側を包んだ直後に入り身とともに陰の陰で取りの側頸の高さに結んでいる。対側の手は陰の陽で受けの手首に接して下丹田の前に有り、両手は大仏の手に近似している。陰の陽から返して受けの手首の屈側を包んで下丹田に結び、同側の非軸足を後ろに置き換えて軸とし、後ろ回転に合わせて再び非軸足として踏み換えて、同時に受けの上腕を包む魂氣を取の下丹田へと巡り、受けの手首は取りが上から屈側を把持して下丹田から外へ出し、正座に合わせて地に結ぶ。
まとめ
正面打ち一教裏について、返し突きで入り身転換から後ろ回転のときと、入り身から後ろ回転のときを比較した。前者は魂氣が陽の陰から下丹田に陰の陽で巡る。
後者は、受けの上肢の遠位が取りの下丹田に結んで後ろ回転と共に螺旋で降りるにつれて、受けの上腕を包む取りの魂氣が陰の陰から陰の陽で取りの体軸を降りることによって下丹田に結ぶ。大仏の両手のうち、側頸の高さからは下丹田へ陰の陽で降り、それと交代して対側の手は杖尻を取って後ろへ手繰るように下丹田を離れる。
2017/11/5
一側の手足腰が体軸を作り魄氣の陰を表し、対側の手足腰と目付けがその回りで置き換わって軸足交代することで入り身、転換・回転の動作を生み出す。
その間に在って両足とも地を突っ張って軸足を持たず、体軸が地に立たない瞬間を魄氣の陽とする。これは軸足交代、つまり体軸の移動の後地上に確立する兆しであって、静止した姿ではない。鳥船のホー、またはサーの姿勢に相当する。体の変更から魂氣を差し出して上体まで半身tに開き受けを前方へ送る動作である。入り身・残心で投げ技に繋がる。
これに反して、魄氣の陰は体軸を地に立てた静止の瞬間であるが、常に動作への兆しを保持している。鳥船のイェイであり、入り身転換や体の変更の瞬間である。
2017/11/9
魂氣を受けの体軸上で各丹田に及ぼし、取りの丹田に巡ることでそれを浸透させ、受けの魄氣と魂氣の結びを解かせると同時に、取りの魂氣が受けの底を抜くことで技が生まれる。魂氣の動作で円を作り、その中心に取りが体軸を確立することに相当する。
あるいは魂氣が真空の氣に結ぶと共に円空の中心に入り身すると取りの体軸が受けの軸足を地から抜いて技を生む(動画)。
いずれも取りの魂氣(手)三要素:陰陽/巡り/結びと、魄氣(足腰)三要素:陰陽/入り身/転換・回転それぞれを合わせて動作すること、これが合氣である。
体軸の移動を伴わない合氣は自然本体で立つ禊の姿であり、天地に結ぶこの動作こそ天の浮橋に立つことの本体であろう。
2017/11/14
①両手取り呼吸投げと②天地投げの、天の魂氣について
地については、①では陽の陽または陰の陽で地に結ぶ。②では陰の陰で外巡りから逆半身外入り身で地に向かう。
天については、①では陰の陽で畳む手の母指先を回外して前に向け、受けの手首屈側の下に拳一つ分入ってから地の方の足が軸となり、非軸足に交代した天の足先とともに陽の陰で受けの真中に発する。
②では陰の陽で畳む手の母指先から魂氣を発し、入り身による相対的な陽の陽で受けの前胸部に密着して同側の非軸足を相半身外入り身で受けの軸足近くに差し出す。直後に継ぎ足で残心の魄氣が必須であり、魂氣は下丹田に陰の陰、体側は腰仙部に陰の陽で巡る。つまり受けは取りの後ろに螺旋で落ちる。
②では天の魂氣を受けの側頸を超えて上方に差し上げなければ天地投げにならない。中丹田かせいぜい上丹田の高さでは隅落としか呼吸投げということになる。
天に差し上げることの出来ない場合は背伸びすることなく、陰の陰から陽の陰でともかく受けの真中に魂氣を与えるべきであろう。
2017/11/26
動とは体軸の移動、静は体軸が地に立つこと
地に立つとは軸足が魄氣を受けて体軸に連なること。したがって体軸の静止した状態で対側は非軸足となって自在に置き換えることが出来る。それと同時に同側の手は同じ方向に魂氣を陽で発することが出来る。難場歩きである。
体軸が移動するとはこの軸足から離れて、交代した対側の軸足へ移ることである。つまり、移動する瞬間には魂氣は丹田に巡って結んでいる。
魂氣三要素つまり手の動きは、陽で発するときに同側の足腰は非軸足となる。体軸は非軸足の方向に移動しようとする。
手が陰の魂氣で体軸を昇降するとき、つまり体表面を上下する際は同側の足腰が体軸を確立する。したがって陰の魄氣で静止している時に限られる。
魂氣の陽は魄氣の陰に同期し、一瞬の魄氣の陽に続く入り身・残心または入り身・転換には魂氣の陰が対応する。
2017/11/27
合氣に関する言葉;右手を陽、左手を陰、氣の巡り、氣結び、魂の比礼振り、鳥船、入り身、転換、空の気を解脱する、残心など、それぞれの表す魂氣と魄氣を思い浮かべて、それぞれを動作すること、すなわち語句と思いと動作の三位一体を行えば合氣道の稽古となる。つまり技が生まれることになる。
はじめに禊があり、単独呼吸法坐技、単独基本動作、相対基本動作へと進めて行く。そして相対基本動作を連ねると、それが合氣道の技となるのである。
魂氣三要素と魄氣三要素のそれぞれの思いに相当する動作が連なっていくことで形を生み出すのであるから、基本動作を行うことによって技が出来上がるわけである。
一方、技を見ることで瞬間の形を連続して取り出し、それぞれをなぞりつつ動きを繋いで行く稽古法は合氣の技を生み出す三位一体の稽古法とは異なる。技を見ることで抽出できる形は、ある一点に限られる場合が多くなる。手であったり、足であったり、しかも片側に限られることさえある。それらを繋いで動作しても、手足腰目付けの一致を捉えることは先ず期待できないであろう。
形をなぞることで再現した技では、それら瞬間ごとに切り取った姿の中に、手足腰目付けの一致はおろか魂氣と魄氣の結ぶ形も目にすることができないかもしれない。むしろ魂氣と魄氣のそれぞれの要素が手足腰の動作に現れないことこそが際立つはずである。
2017/11/28
合氣道とは、魂氣と魄氣を思い、それぞれの動作を呼吸とともに合わせることから産まれる武道である。それ故に、稽古を始める際は禊から入るわけである。開祖は、〝はじめに天の浮橋に立たされて〟と教えておられる。まさにそのことを示唆されているのであろう(画像①)。
魂氣には、陰陽・巡り・結び、魄氣には陰陽・入り身・転換回転というそれぞれの三要素があり、それらには氣の思いとそれぞれに対応する動作がある。つまり、言葉と思いと動作の三位一体が呼吸に伴って順次連なることで技が産まれる。これが合氣道の核心であろう。
魂氣と魄氣の陰陽を合わせて呼吸とともに動作するのが鳥船であり、左半身そして右半身、さらに左半身と伝統に則って行う(動画)。禊から合氣道が産まれるというまさに三位一体の稽古である。
たとえば受けとの相対動作では、的に立たないこと、そして間合いを詰めるか空けると直に氣力を受けの真中に及ぼすことが武技において必須である。これを合氣によって動作するのが氣の武道である。単独動作の合気の基本が欠如するなら、その先は形の武技となろう。
また、接触の瞬間にはその部位で結ぶことが必須だ。つまり接点から受けの中に珠を包んだ取りの掌が入ることであり、以後受けの勢いはことごとく取りの真中を外れて上下左右に逸れるから、受けの中心軸は正立を維持することが出来ない(画像②、③)。取りの魂氣が受けの手に結ぶことで入り身が可能となるのである。
2017/12/3
両手足・腰・目付けの連動
『養心』第44号 2017神戸大学体育会合気道部 2017年11月発行 p68〜p71
『合氣神髄 植芝吉祥丸監修』柏樹社平成2年発行
P60
世の根元たる一元は精神の本と物体の本の二元を生み出し、複雑微妙なる理をつくり、全宇宙を営み、また天地万有に生命と体を与え、万有愛護達成に生成化育の大道を営み、天地万有は一家のごとく一身のごとく、 中略
P61
正しく調和した天地万有の気と、人の正しく整いし世となれば、この世に人々の争いはなくなり、平和となるべし。それには我らの合気道も天の運化に遅れず、身体の武道のみにては、これを達成するにあたわず、身体の技は力少なし。
精神の武は魄阿吽をもって明らかなる健やかなる清き力を出し、つとめて尽くすに至るべし。(魄とは身体の上に魂の花を開き結んで、人としてあらゆる条件に叶えるもの)ゆえに合気道は自己を知り、宇宙万有の妙精を自己に吸収し、大宇宙の真象に学び、理を溶解し、法を知り、光ある自己の妙技をつくる道である。
P16
真の自己を生み出す場の体を大切に扱い、魄を大事に扱うことを忘れてはならない。
いのちの成り立ち、魂・氣・魄
天地の間は氣で充たされている。そして、いのちある者の心のたましいは天に昇って魂と呼ばれる。吸気と共に天から両手に魂の氣を受けて、呼気で丹田に結んでは再び呼吸によって母指先から周りに発せられては丹田に巡る。つまり、呼吸と共に魂氣を思うとき上肢の動きは体軸の周りを巡るのであって、稽古のはじめに坐技単独呼吸法として行われる。
また、体のたましいは地に下りて魄と呼ばれる。地から足を経て腰、下丹田、体軸へと魄氣が伝わって体の芯を作る。
直立歩行という体軸移動
われら人の直立二足歩行とは、非軸足から軸足へと交代することによって移動する体軸が、その軸足を経て常時地から直立していることを特徴とする。
魂氣三要素と魄氣三要素
地から受ける魄氣によって足・腰・体軸は支えられ、その動作は三要素(陰陽、入り身、転換・回転)から成ると考えられる。
手の運動については魂氣三要素(陰陽、巡り、結び)で全てを現すことができる。母指先を中心とする指先が魂氣の発するところであり、また、伸展した上肢の屈側は吸気とともに天から魂氣を受けるところである。魂氣と魄氣が丹田に結ぶ呼吸こそは合氣であり、いのちの姿であり動きである。鳥船を中心とする禊では、まず天地に結ぶ動作を二回繰り返すのであるが、天の浮橋に立つ姿と動作はまさにこれを指しているのであろう。
残心という気構え
今、呼気から吸気・呼気の一呼吸で軸足交代を行う。そこで移動の終わった体軸上で魂氣が上体に密着して体は静止する。生命をもたらす合氣により二足は一本の軸足として体軸に直結し、左右の魂氣(手)も一体となって地に直立している。つまり、残心である。
そこには心の持ち方で即座に非軸足と軸足を作り、陰の魄氣となるべく気構えがある。
したがって、魄氣の三要素を十分に尽くした上で二足と体軸の動静が正しく行われ、はじめて両手のあらゆる動きが可能となり、呼吸と共に真の力を発揮することが出来る。開祖はそのことを「健やかなる清き力」と表現され、さらに、
「身体の技は力少なし。精神の武は魄阿吽をもって尽くすべし」
と述べておられる。
自由な手と同側の非軸足
さらに、開祖は「充分な力を出す」ために「空の気を解脱して真空の気に結べば技が出ます」「氣の置きどころを知ることが第一であります」と表現しておられる(P66〜67)。
魄氣は軸足と体軸を作るのであるが、そのときすくなくとも同側の手の魂氣は陰に巡って丹田に結ぶのであって、これを空の気に結んだ手と理解しよう。すると対側の足は非軸足であり、自在に足先を置き換えることが出来る。さらに、自由な他方の手はその他の丹田に結ぶ陰の魂氣である場合や、陽で伸展している場合もあろうが、いずれにしても次の軸足交代では新たな体軸の確立に与り、下丹田や腰仙部に巡って結ぶこととなる。
即ち、はじめ受けに与えて転換することで空の気に結んだ魂氣は、軸足交代に伴って同側の足が再び非軸足となり、手の方も体軸から解かれて空の気を解脱したと表現できる。そして、その魂氣は陽で発して手が自在に伸展し、自由な空間へと動作することが出来るわけである。片手取り入り身転換から体の変更の術理である。
呼気で交代する軸足に「心の持ち方によって」体軸を預けると、対側の非軸足は自由に進み、丹田から陰のまま側頸に昇っている同側の手から吸気によって自在に魂氣を発し(「解脱」し)、それを空間へ差し出すことが出来る(「真空の氣に結ぶ」)。片手取り外転換昇氣・呼吸法の術理である。
魄を大事に扱うということ
軸足交代による体軸移動の際、手を非軸足と同時に差し出すことが合氣道の原則であり、魄を大事に扱うこととは、軸足が体軸を作る際に魄氣を思って確実に行うべきことを示唆しているのであろう。陽の魄氣で停止したり、いきなり自然本体や四股立ちとなれば魄氣による軸足の確立が成されない。体軸が魄氣に結ばないため、地から離れて漂ったまま静止していれば、非軸足と陽の魂氣の自由な動作が始まらないのである。
まとめ
魄を大事に扱うからこそ軸足と同側の魂氣は陰で体軸を確立し、目付けは極大の視野を持つ。体軸が確立すればなおのこと、そこから陰の魂氣を引き出すことは出来ない。それは、魄と結んだ体軸の中の魂氣を陽で働かそうとすることであり、そのことを〝魄ではだめだ〟とおっしゃったのであろう。魄氣から離れた非軸足は入り身で置き換えることが出来、その同側の手こそ陽の魂氣を発することが可能となるのだ。
一部訂正して引用 2017/12/5
体軸を作る陰の魂氣が受けと結ばないまま、それを陽で発しようと動作することこそ難場歩きを放棄する暴挙である。なぜなら、それは手足腰目付けで確立した体軸を自ら壊すことに止まらず、魂氣が受けとの接点で詰まったまま自身の腕や肩を押し進めなければならないからである。脱力を唱えながら筋力に固まらざるを得ない動作が未熟性によるものと判断してしまえば、以後習熟する機会を失うことになるわけだ。
魂氣を発することなく受けに連なった自身の腕や肩を動作するということは、魄氣によって地につながったまま体軸を前傾してから軸足交代して移動するという矛盾に他ならない。つまり、はじめの魂氣と魄氣の結び(体軸)を解いてしまうだけでなく、一方の手に魂氣を天から受けて掌に包んで自身に巡っては体軸上の丹田に結ぶという、合氣の動作までが欠落することに気付かなければならない。
魄氣即ち足腰は左右を軸と非軸足で使い、魂氣、即ち手は左右を動静、つまり陽陰で使わなければ体軸の移動と自由な手の動作は産まれない。
合気の術理とは、軸足を交代させるべく非軸足を置き換えて、同時に両手で魂氣の陰陽を巡らせて同側の魂氣を発する思いで手を差し出すことである。
体軸を作るのは軸足側の手であり、丹田に結び、体軸上を昇り降りすることは出来るが、空間に差し出すことは出来ない。魂氣における広義の陰陽の理である(動画)。
難場歩きそのものである。
2017/12/9
———— 逆半身外入り身に備える相半身内転換は陰の魄氣
横面打ちで撃たせた逆半身非軸足側はその場で軸足に交代し、魂氣は軸の一部であるから陰で体軸上の、たとえば上丹田、に結んでいる。そのとき対側の非軸足と魂氣は受けの真中に進めて、手は振込突きである。
受けの横面打ちは取りの体軸側の魂氣が作る鎬によって取りの真中に響かない。取りの相半身内入り身・振込み突きに続く内転換の陰の魄氣で鎬の陰の陽の魂氣は受けの手刀に結んで上丹田から下丹田まで降りる。受けの手刀は体側表面を擦り降りて、取りの魂氣は体軸内を陰のまま降りるのが魂氣の陰の動作の理である。体軸の確立には同側の魂氣と魄氣が体軸上で結ばなければならない。難場歩きの原則である。
以上は横面打ち四方投げの基本動作である(動画)。さらに、この相半身内転換の陰の魄氣から、取りが転進で逆半身横面打ち外入り身転換により小手返しや入り身投げに進むためにも、それに先立つ相半身内転換が陰の魄氣であることは必須である。
振込突きを払わせた流れでその魂氣は外巡りで受けの同名側の手刀を取りの外に払い、軸足交代の直後、対側の鎬から陰の陽に巡っていた魂氣を下丹田から受けに逆半身横面打で発する。つまり、受けの横面打ちに異名側の手で鎬を作って内転換し、取りが転進で横面打ちへ切り返す外入り身転換によって、入り身投げや小手返しに進めることが出来る。
魂氣の外巡りで同側の非軸足を受けの外へ半歩進め、陽の魄氣から軸足交代して一歩逆半身外入り身で横面打ちに切り返すことこそ転進の本体である。それに先立つ内転換が陽の魄氣なら半歩の相半身外入り身が出来ず、その場で一歩の逆半身外入り身となり、受けの剣線を外せない。すなわち、切り返しのないまま入り身投げや小手返しには進めない。
2017/12/13
体軸を作る魄氣は地から軸足と腰に伝わり、魂氣は同側の手を経て陰で体軸上の丹田に結ぶ。つまり一側の手足腰で体軸を作る。これに対して反対側の手足腰は非軸足と自在に発する陽の魂氣を確立する(動画①)。開祖は『合気神髄』の中でそのことを具体的に二度教えてくださっている。
ところで、魄氣・軸足で体軸や体の姿勢を形作る動作については以下のような表現がある。
「自己の肉体は、物だから魄である。それはだめだ。魄力はいきづまるからである」「今までのものは魄の時代であり、土台固めであったのです。中略 今までは形と形のもののすれ合いが武道でありましたが、それを土台としまして、すべてを忘れ、そのうえに自分の魂をのせなければなりません。」
「魂の氣で、自己の身体を自在に使わなければならない」
「合気道には形はない」
「魂の比礼振りであり形ではない」
「魄の世界は有形」
「形から離れた自在の氣」(魂氣を指すと考えられる)
「充分な力を出す」ために「空の気を解脱して真空の気に結べば技が出ます」「氣の置きどころを知ることが第一であります」また、「身体の技は力少なし」と、一見魄氣を否定的に説明されているようにうかがえるが、一方で次のような記述も目立つ。
「精神の武は魄阿吽をもって尽くすべし」、「真の自己を生み出す場の体を大切に扱い、魄を大事に扱うことを忘れてはならない」などである。
両手足腰の使い方をそれぞれ一方が陽なら他方が陰ということで、土台と自由に使う氣力を左右使い分けるべきであるということであろう。そこで、体軸を作る手でやたら魂氣を陽で放とうとしてはならない。そもそも体軸を破綻させながら同側の魂氣を発することは出来ない。
宇宙の理とは、天地の氣(魂氣と魄氣)を結び巡らすなかで、左右それぞれの手足腰の一致を思い続けるところにあり、呼吸に伴う魂氣の陰陽の巡りと、軸足の交代による魄氣の陰陽、転換・入り身を指しているものと思われる(動画②)。
2017/12/16
片手取りや交差取りでは掌に包んだ氣の珠を下段に与える、正面打ちでは上段に与える。横面打ちでは上段に与えようとしたときに受けが逆半身で手刀を振りかぶってくるわけで、正面打ち後手では相半身で振りかぶってくることになる。すなわち、母指先だけは伸展し、他の指で掌を包んで手掌を上に向けた陰の陽の魂氣を差し出すのである。氣の珠を掬う姿勢で。
諸手取りではこれらとは本質的に異なる接触となる。母指先を地に向けて吸気で上肢全体を緊張伸展し、陽の陰で下段に差し出すと、受けは逆半身で手首を諸手で掴む。取りは掌に魂氣を包む思いで小指から弛緩屈曲しつつ外転換を行うと、腋が閉じて肘は屈曲し、魂氣は陰の陽に巡って母指先が次第に天を指す。手首も弛緩屈曲するから、結局母指先は同側の頸部を指す。そこで母指先を前方に向ける様手首を内から外へ回す。このとき上肢は限界まで畳まれて陰の陰で魂氣が母指先を経て前方へ発する姿勢となる。同時に同側の足腰は魄氣で地に連なり、ここに体軸が魂氣と魄氣の結びによって確立する。同時に対側の足腰は非軸足であり、その上肢は陽で差し出すことも、初動と変わらず陰で腰仙部に置いたままでも自在である。
受けは諸手が取りの手首を介してその同側の頸部の高さに二教の手で結び、体幹は取りの体軸へと傾斜して密着する。互いの魄氣の結びである。互いの魂氣の結びとともに受けの魂氣が取りの魄氣(体軸)に結べば崩しに相当する。そのうえで互いの魄氣が結び、なおかつ取りの合氣によって体軸が確立したとき、受けは軸足と体軸を失って取りのそれに取って代わられる。この瞬間、受けは自発的な動作が叶わず受け身一方となって、これは作りに相当する。間髪入れず取りが体軸に連なる軸足を対側の足に移すと、体軸は受けの魄氣と共にそれへ移動し、これまでの足腰は非軸足となり、手には魂氣を自在に陽へと発せられる兆しが生まれる。
空の氣を解脱して真空の氣に結ぶことができると、受けの側頸や地に取りの魂氣が結ぶ、つまり掛けに相当する動作がなされる(画像)。掛けのみなら魂氣は受けの体軸に響くだけで技には至らない。魂氣が受けの底を抜いて取りの丹田に巡る残心で初めて受けは地に落ちる。したがって、残心で初めて技が産まれることになる。
呼吸投げは呼吸法が投げを産む動作である。すなわち呼吸とともに諸手に氣結びを為すことが大前提であり、腕を振り出すだけでは投げに繋がらない(動画)。
2017/12/28
動画
母指先が地を指し、残指は揃えて上肢全体とともに伸展して片手を下段に差し出す。受けは諸手で前腕を握る。つまり諸手取りでは、陽の陰で上肢を下段に差し出して掌は開いて外に向けられており、取りはすでに魂氣の珠を失っている。陰の陽の魂氣、即ち掌に珠を包んだ手を受けの下段に与える片手取りの動作とは、この点で異なっていることを銘記すべきである。小林裕和師範はこのことを徹底して動作で指導された。
諸手取りの初動は、受けの両手で掴まれた手首を取りが眼前に持ち上げようとすることではない。何故なら合氣道の基本動作には魂氣三要素の動き以外に選択の余地がないからである。即ち、単独動作としては、吸気で陽の魂氣の手を取らせた後は呼気で陰に巡って自身に結ぶ動作に尽きる。あとは足腰と体軸の確立、つまり魄氣三要素の陰陽・入り身・転換である。なぜなら、手足腰の一致という魂氣と魄氣が自身の中で合わせることが合氣の本質であるからだ。
まず、陽で開かれた掌に呼気で魂氣の珠を包み込む動作から始める。広義の陰の魂氣を動作するわけである。上肢は弛緩屈曲して取りの中丹田に巡る動作である。手首は受けとの接点を固定したまま容易に屈曲することが出来るのであるが、合氣の動作では地を指す母指先からの魂氣を内側に巡る動作ということになる。言葉と思いと動作の三位一体の原則である。掌は包まれて天を向き母指先は内側を指している。狭義の陽である。
但し、このとき肘と腋は弛緩しても屈曲は殆ど始まらない。屈筋の収縮を意識して曲げようとすれば、受けの両手による強い抵抗に会うであろう。ここは弛緩したまま足腰を外転換して陰の魄氣で軸足交代する。相対的に腋が閉じて上腕は側胸部に密着して前腕が肘で屈曲し、母指先は天に巡って手首の屈曲で側頸を指すまで肘が閉じて行く。終に上肢は畳まれて上体に着き、同側の軸足とともに体軸を作る。
相対動作としては、取りの陰の魂氣は自身の体軸に与るとともに、今や縦に並んだ受けの両手のうち同名側の手首に結び、受けの体軸は取りの魄氣に寄りかかる。〝崩し〟に相当するであろう。
ここで腋を一気に開くと母指先が初めて取りの側頸に接して中丹田に結び、体軸に響いて魂氣と魄氣が結ぶことで単独動作において合氣が成り立つ。肘は受けの縦に並ぶ両腕の間で胸骨上窩に嵌まり、魂氣が受けの体軸に接触してその魄氣に結ぶ兆しが産まれる。既に互いの魄氣は受けの諸手と取りの側頸を経て接触し〝作り〟に相当するであろう。
このとき腋の開いた上肢はもはや自身の体軸に与ることができない。同側の足は前方の足に軸足を交代し、後方の足は非軸足となって半歩逆半身外入り身が可能である。同時に取りの魂氣は母指先から自由に空間へ発せられ、上肢は肘から遠位も伸展し、受けの同名側の頸部に取りの橈側前腕が密着して、その体軸へと魂氣は響く。技の〝掛け〟に相当する。〝空の氣を解脱して真空の氣に結ぶ〟である。
取りの上肢が体側まで巡って腋が閉じて両足が残心で一本の軸足となれば、受けの下丹田から腰仙部に響いた魂氣は受けの底を抜いて取りの魄氣と結ぶ合氣が成立し、技が初めて産まれる。即ち受けは取りの背部を螺旋で落ちる(動画)。
呼吸法とは呼吸とともに氣結びを成す方法であり、魂氣の結びは受けとの接点から拳一つ分以上中へ入る動作で有ると言えよう。魄氣の結びとは、互いの体軸が接して所謂漆膠の身となる相対動作である。取りの手が受けの側頸に嵌まり、そこから体軸へと受けの下丹田や腰仙部に魂氣が響くことは、取りの魂氣が受けの魄氣と結ぶことに他ならない。終には取りの魂氣が円を描いて自身の魄氣に巡って合わされる、禊の氣結びこそが合氣である。
2018/1/3
動画:諸手取り呼吸法を、16. の諸手取り呼吸投げと比較して、魂氣が陰の陽で珠を掬い上げるるのが昇氣、珠を包んだまま陰の陰で母指先から地に結ぶのが降氣。
正面打ちへの一教表と、内入り身正面当てにおける魄氣の違い
前者は力の及ぶところに固め、後者は外に倒す。共通する点は両者とも両手で氣の巡りと振込突きである。異なるところは、前者が相半身内入り身から井桁に進み、逆半身で魄氣の陰陽、後者は内転換から入り身・残心である。つまり、魄氣の陰で受けを取りの下丹田に巡らせ、軸足交代に合わせて手足腰の一致で地に結ぶのが一教(動画)。
他方、陽の魂氣を受けの頤に当て、中丹田から受けの底に抜くと、残心で体軸が受けの魄氣に置き換わるのが正面当て。魂氣が体側に巡る瞬間は両手足腰が一本の体軸となり、取りが入れ替わって正立している・
魄氣の陰陽は鳥船であるから、一教は禊の鳥船、正面当ては単独基本動作の入り身・残心に尽きる。したがって、一教の固めを入り身・残心で動作するのは、受けを懐に包み込む動作とは相容れない。まして、魄氣の陽で両手を前に伸ばして停止すれば魄氣と魂氣の三要素は動作されず、体軸は確立されない。即ち、合氣のない動きに終わる。
2018/1/4
魂氣
単独動作において自然本体や左/右自然体(陰の魄氣)で静止すると、両手は陰の魂氣で体側や丹田または腰仙部に結んでいる。左/右自然体では後方の足は軸足であり体軸に連なっている。つまり一足の手足腰は体軸を成し、対側の足は非軸足で常に置き換えることが出来る。前方に半歩進めたり後方に一歩退いたりして次の軸足へと交代する。その同側の手は同時に陰から陽へと発したり、腰仙部にまわして陰で結ぶことも出来る。
しかし、軸足と共に体軸に与る手は単独で体軸から離れて陽で発することはない。たとえば剣を振りかぶって上丹田から右半身で正面打ちの場合、柄頭を持つ左上腕は腋が開かず陽の魂氣ではない。右手は陽、左手は陰である。打ち込んで入り身して両足を一本の軸とした瞬間でも左腋は閉じ、右手は肩から示指球まで一直線であるから腋は開く。すぐに陰の魄氣で残心とするが、左腕全体が上体に密着して魂氣は下丹田に結ぶ。鍔元を取る右手は柄の長さだけ差し出され、徒手の片手取り入り身転換、陰の魄氣の姿勢に一致する。
このように、道歌にあるごとく右手が陽なら左手は陰、であり、これは広義の陰陽と狭義の陰陽の意味を含んでいる。即ち、広義では一方を丹田に結び、他方を差し出す。このとき入り身転換での狭義の魂氣は一方の掌が天に向かい、他方も掌は天を受ける。そして、陽から陰に巡って丹田や腰仙部に結び、陰から陽へと発する両手の動きが魂氣の働きであり、陰陽、巡り、結びを魂氣の三要素と考えている(動画①)。
魄氣
正立正座において地から立つ体軸が魂氣の動作を最大限に担保するものであることは言うまでもない。つまり魂氣が陰で丹田に結ぶとき、同側の足は軸足となって体軸を地から直立させ、対側の足は非軸足として体軸の移動とその方向を自在に決定することになる。それに合わせて同側の手は魂氣の三要素を存分に動作することが出来る。その軌跡こそが呼吸に伴う円運動の反復に他ならない。
軸足の働きが体軸を地に支えて静止するときこれを魄氣の陰と表現している。直立する体軸に連なっており、鳥船で呼気に伴いイェイと両手を下丹田に結んだ姿勢である。呼気に連れて軸足の膝を屈曲することで発条の機能を持つ。つまり、次の吸気相で膝は伸展し、非軸足先は足底を地に着けて直ちに体を支えるために下腿が直立していく。魂氣は手の最大限の伸展によって前方へと発せられる。ホーである。この状態を魄氣の陽と表現する。その瞬間は両足共に軸足ではなくなっており、体軸は直立したまま前方に揺らいで行くが、両足で地を踏む吸気相の終末では手の弛緩屈曲が始まり丹田に巡っていく。後方の足は軸足へと戻って呼気により魄氣は陰の姿勢をとる(動画②)。
魄氣の陰陽の過程では軸足の交代には至らない。魄氣の陽から後方の足が地を離れた瞬間、軸足は前方の足に移り体軸を瞬時に支えることとなる。軸足は上体の軸に直結し、対側の足は軸足の踵に送られ、密着して一本の体軸が確立する。この静止する瞬間を残心と呼んでいる。直後に後の足を軸足とすれば陰の魄氣であり、前を軸足とすれば後を半歩から一歩前後左右自在に置き換えることができるであろう。
陰の魄氣から非軸足先を前方に進めて置き換えることは受けとの間を詰める動作である。それにともない、軸足を交代して体軸を移動し、一本の軸足になる残心を含めてこそ入り身の完成である。
また、非軸足を側方に置き換えて軸足とする際は、交代する新たな非軸足先が剣線に90度の角をなして軸足側に落ち着く。これを転換とよび、目付けは外した剣線に直角をなして陰の魄氣である(動画③)。
魂氣と魄氣
魂氣を発して巡り、再び取りに結ぶ。合氣で手を使うには魄氣の三要素つまり、陰陽・入り身・転換という足腰の動作と同期しなければならない。即ち陽で発する場合は対側の手足腰は陰で体軸を確立し、手を伸展する側では足腰の非軸足となることが必須である。難場歩きの術理である。〝空の氣を解脱して真空の氣に結ぶ〟である。その代表的な技は諸手取り呼吸法と呼吸投げであろう(動画④)。
魂氣と魄氣が陰で結ぶと軸足・体軸の確立、陽で同期すると入り身で真空の氣に結び、巡る間に受けの体軸へと響く。
2018/1/7
武器を用い、あるいは徒手で、両手を絞って動作することの多い合氣道では胸郭を呼吸の主体とするわけにはいかない。そこで自ずと下腹の緊張弛緩で呼吸を行うことになる。つまり腹式呼吸である。横隔膜の緊張で下腹が緩んで膨らむと吸気相になり、弛緩で下腹が緊張して収縮すると呼気相になる。
魂氣、つまり手は横隔膜の緊張収縮に合わせて差し出し挙上される。なぜなら、魂氣を思って禊を行うとき、母指先から魂氣の迸るように手が緊張伸展して胸郭も横隔膜も緊張収縮して最大限に息を吸う。そして何よりも、横隔膜の緊張伸展により脊柱の直立が極限となるため、上肢の伸展が最大限に行えるのである。
一方、呼気相の横隔膜の弛緩に合わせて緊張陥凹する下腹壁には、弛緩屈曲する手が丹田に向かって一層厳密に接着することが可能となる。魂氣が陰で巡って結ぶ思いの動作である(動画)。
したがって母指先から魂氣を陽で発して上肢を伸展する際は、下腹を弛緩・膨隆させ、魂氣を丹田に巡る際、すなわち上肢の弛緩屈曲には下腹が緊張・収縮する。更に言えば、下腹の弛緩・膨隆に合わせて同側の非軸足先は自由に置き換えることができる。そして下腹の緊張・収縮に合わせて軸足・体軸を確立し、非軸足側の手は陰の魂氣で巡ることに続き、陥凹した下腹に結び、次の吸気とともに魂氣を発して上肢を伸展する兆しをもつことになる。
2018/1/7
魂氣は呼気で掌を包み上肢を畳む。同時に同側の非軸足を置き換えて軸足に交代し、転換すると陰の魄氣。
直ちに非軸足を踏んで再度軸足に交代して体軸は移る。魂氣が体軸から解けて(空の氣を解脱して)自在に発することのできる兆しが産まれる。このとき母指先だけは自身の側頸に結んでいる。
吸気で側頸を離れた母指先から魂氣は空間へと円を描き、体軸・丹田に巡る(真空の氣に結ぶ)。魄氣は陽で入り身・継ぎ足、一足で直立する(残心)。その直後に呼気で陰の魄氣。
魂氣が〝空の氣を解脱して真空の氣に結ぶ〟。このとき取りの上肢は受けの側頸を経てその体軸に氣力を響かせる。受けの底を抜いて入り身とともに取りの体側/下丹田(体軸)に結ぶ。この瞬間が残心であり、技が産まれる。
突き呼吸法を例として:真中を守る手刀の魂氣から呼気が始まり、同側の非軸足を外に置き換え軸として転換し、掌を包んで丹田から自身の側頸に結び(昇氣)陰の魄氣となる。同時に上体は入り身転換することで目付けは受けに同じくする。
軸足を交代して体軸を移すと魂氣は吸気で側頸を離れて母指先から陽で空間に発し、同側の非軸足の入り身一足で受けと密着した体軸に巡る。技が産まれて受けは取りの背側を螺旋で落ちる(動画)。
2018/1/11
陽で発する兆しとは、自身の体軸から母指先を経て魂氣を発することのできる状態にあることと思われる。なぜなら、合氣による手の動作とは、上肢の一部、たとえば母指先、手背、肘などが魄氣と直接結んでから、母指先を経て魂氣を発するように行うものであろうと考えるからである。
今、腋が閉じ、上肢を弛緩屈曲しながら畳んで体幹に着けることを陰の魂氣の動作とする。また、同側の側頸を母指先が指すだけでなく、そこから腋を90度開くことによって母指先が側頸に直に接しなければ中丹田・体軸へと繋がったことにはならない。そこから母指先が離れて伸展すれば陽の魂氣を発することになるし、母指先が地に向かい、下丹田へと正中線上を降りると、降氣で体軸に結んだまま下丹田に陰の陰(二教の手)で結ぶわけである。
他方、腋は閉じて肘が側腹に接したままなら、陰の陽で母指先が外側を指しながらそのまま空間へと魂氣を発することはできる。やがて肘が伸展して腋も開き、上肢は完全に過伸展する。小手返しの手から陽の陽である。
包まれた掌が上肢の弛緩で下丹田に密着すると陰の魂氣は魄氣と結んだ状態である。そこで、いきなり腋が開いて肘と母指先が体軸から離れた場合、魂氣と魄氣の結びは解けて、手首にある受けとの接点は肩から力を得て動かそうとする状態になり、そのときは魂氣を体軸から母指先を経て発するという心の持ち方はすでに失っている。即ち魂氣を発する兆しは生まれていない。
腋が開くに連れて陰の魂氣の結びが持続したままであれば、肘が畳まれて自ずと掌は氣の珠を包んで体軸を側頸まで上昇する。これが昇氣の本質である。
体軸を通して魄氣との結びの中で魂氣を発するには、母指が各丹田に接していることから始まらなければならない。上丹田に振り被った魂氣を受けに上段で与える場合、側頸から中丹田で与える場合、下丹田から陰の陽で魂氣を下段に与えて片手取りや交差取りが始まる場合(動画①)、陽の陰で与えて諸手取りとなる場合などである。
片手取りを入り身で取りの下丹田に巡らせ、転換から体の変更で陽の陽に発する場合もある(動画②)。体軸に置いて陰の魂氣で一旦休ませることも必要であり、次に吸気で発する用意の整うことが兆しであろう。
2018/1/15
横面打ちに小手返し/入り身投げ
魂氣を与えようと半身になるとき受けが逆半身で横面打ちに振りかぶり、取りの魂氣が下丹田から発することの出来ない一瞬、同側の足をその場で軸として腰仙部の対側魂氣を相半身返し突きで受けの真中に発して同側の足を軸とし、元の前方の足を非軸足に交代して魂氣と共に後ろに回し、陰の魄氣となる。相半身内転換である。
返し突きは受けの異名側の手で払われて受けの同名側の(横面打ちした)上肢に降りて外巡りによって相半身で上体の外入り身、魄氣は陰から陽とした後一歩踏み込んで逆半身横面打ちの入り身転換で小手返しや入り身投げ裏に進める。
横面打ちに内転換
非軸足を後ろに回す際の同側の魂氣は足腰に先立って陰で腰仙部に回す。手の動きではあっても陽で緊張伸展するのではないから、足腰の先導となるように動作しても矛盾はない。
一眼二足三胆四力、この成句の力(りき)とは陽の魂氣を含めた手力のことでもあろう。足腰を後ろに置き換える場合は、同側の魂氣を陰で後方に巡るわけであり、氣を忘れてその場に垂れた手であっては合氣が成り立たない。すなわち、脱力とは陰に巡る魂氣の動作であるべき、と考えられる。
片手取り昇氣呼吸法の外転換・入り身
一方、入り身で側頸から魂氣を陽で差し出すときは、非軸足と腰を進めてその拇趾先に合わせて魂氣を母指先から発するのである。これは正に二足三胆四力である。また、一眼とは必ずしも足先の進む方向を目付けが先に示すわけではなく、上体の入り身転換がそうであるように、たとえ反対方向であっても先ず目付けを定めて側頸を開き、体軸を確立するということになろう。
2018/1/21
受けに与える魂氣を包む手が下段に差し出されたなら、手首を上から握って制圧しつつ逆半身で剣線を外すのが受けの動作である。それは、同時に中段で受けが攻撃を確保する動作でもある。
中段や上段に差し出されたなら受けは杖巡りや横面打ち外転換で同名側や異名側の手を振り降ろして取りの手首を把持するか、払って対側の手で入り身に繋げる。
手首の下から支えるように受けて掴もうとしても、取りの手を制圧する動作とは成り得ない。
また、掌を開いて全ての指を緊張伸展した取りの手が受けの前に差し出されると、受けは一側の掌を取りの手首に上からあてがって包んでも制圧しきれない。
たとえば陽の陽で発せられた魂氣に屈側を握る、あるいは陽の陰では伸側を握ろうとしていずれも上から包むように制圧しかけても、広義の陽で突き出された魂氣は静止しきれない。たとえ伸展の極限で止まっていても、受けの手に余る手首を握って制圧するわけにはいかない。つまり、自ずと諸手で握ることになるのである。
受けが取りに四教の持ち方で陽の魄氣として、体軸が両足間の宙に浮いた瞬間、取りは魄氣の陰で向き直り、魂氣を陽の陰として諸手取りに取らせた状態となる。
坐技呼吸法をはじめとして合氣道で受けに取らせる手は、魂氣三要素の陰陽・巡りを現した単独動作の形に他ならない。
言い換えると、相対動作の初動たりうるこだわりがあってこそ合氣道としての姿が表れるのだ。
2018/1/27
膝を開いて掌は包んだまま 広義の陰の魂氣・陰の陽、空の氣に結ぶ
掌を開いて非軸足を合わせる 広義の陽の魂氣・陽の陽、真空の氣に結ぶ
2018/2/1
難場歩きの本質
難場歩きというのは、同側の手足を同方向に差し出し、対側の手足は軸として静止させる。つまり片方の手を同側の膝や丹田に置き、その足を軸として体軸を安定させることによって対側の手を自在に振り出し、足も踏み出して置き換えると、その場で踏み込み軸足に交代させるのである。その繰り返しで歩行が行われる。
合氣道では、差し出して伸展させた手は陽の魂氣の働きであって同側の足は非軸足であるから、同時に前へ進めると陽の魄氣が体軸を移動させて軸足へと交代する。このとき、いよいよ軸足交代し、継ぎ足とともに密着した二足に体軸が繋がって移動し終えたなら、同側の手を陰に巡らせ丹田や体側に置かなければならない。つまり魂氣と魄氣の結び、合氣が為されたわけである。これぞ残心の姿である。
ところで非軸足を進めるとき、魂氣が下段に差し出されると剣線上に手が置かれるから、足は半歩も進めない。そこで魂氣を内に巡って下丹田へ指を向けると、腋の下が開いて足腰は容易に進められる。
一方、上段に振りかぶる際は同時に腋の下が大きく開き、同側の非軸足は同時に半歩進めることが容易となる。手が下丹田に巡るときは既に軸足交代が終わり、継ぎ足で残心の段階となる。横面打ち入り身運動である。
このように相対動作で下段と上段に魂氣を与えたなら、それぞれで魂氣の陰陽・巡りと非軸足の入り身は微妙にずれることが解るであろう。手足腰目付けの一致とは、単に同時に動かせばよいというものではない。与えて触れた点では魂の比礼振りで真空の氣に結び、取らせた点は既に自身のものではなく、母指先から陰に巡って上肢を畳んで自身の体軸に預かり、その体軸上を各丹田に魂氣が上り下りする間に軸足を交代して、非軸足になったとき同側の魂氣は陽で発することができるのである。
すなわち、軸足と共に体軸を作る魂氣は陽で発することが出来ない。魂氣が魄氣に結ぶことこそ合氣であり、体軸の確立であるからだ。
合氣が解けるとき対側の足に軸が交代され、今や非軸足側となった手は自在に真空へと陽で発して働かなくてはならない(動画)。
〝空の氣を解脱して真空の氣に結ぶ〟
*「25. 魂氣を与えようとして与えない」の動画からも魄氣(足腰)の動作を参考に。
2018/2/10
鳥船の陰の魄氣に見られるごとく、体軸は魄氣と魂氣が結んで確立される(画像①)。相対動作では受けと接触した直後に取りの魂氣が受けの手や自身の丹田に結び、魄氣は受けの体軸に入り身で密着する(画像②)。したがって取りの体軸は手足腰目付けが受けに連なった状態で地に直立している(動画①)
鳥船の陽の魄氣では後方の足が伸展して、なおも地を踏み、前方の足も下腿が垂直に地を踏むことで体軸は軸足から離れて前方に揺れ、地に着くことなく前後の足の間で支えられる(画像③)。但し、陽の魄氣とは動作の中の一瞬の姿勢であり、鳥船に見るごとくこのまま足腰・体軸が静止するわけではない(動画②)。ましてや相対動作ではこの姿勢のままで魂氣が陰陽・巡り・結びを動作して手を有効に働かせることはできない。転換で陰の魄氣に戻るか、継ぎ足による二足の密着で軸足交代して入り身一足が成立する、所謂残心とする(動画③)か、その何れかである。
入り身に伴って技が産まれた場合は呼気相で一瞬静止して残心となるが、すぐさま吸気で前の足が軸として一歩の入り身に向かったり、呼気のまま後ろの足が軸となって陰の魄氣の姿勢から前の非軸足を置き換えて入り身・転換・回転へと動きを連ねることになろう。
禊の動作である鳥船と相対動作では、魂氣(手)の動きに根本的な違いがある。つまり、禊は両手を陰陽揃えて動作し、単独動作の一部や相対動作では道歌にある如く右手が陽なら左手は陰(動画④)であり、その巡りによって自身の結びと受けとの相対の結びがなされ、すなわち合氣が技を産むということになる(動画③)。
鳥船の陰の姿勢(イェイ)のごとく、陰の魂氣は呼気で陰の魄氣に結んで体軸を確立する。単独動作の入り身転換や相対動作では、対側の魂氣は非軸足とともに陽の魄氣に乗って真空に発し(画像④)、陽の魂氣となって体側や丹田に巡り、入り身・残心へと体軸移動して正立へ(動画③)、あるいは地に固めて正座に至るわけである。
軸足とともに体軸を作る陰の魂氣が受けを繋いだまま、いつの間にか陽の魂氣として腕を空中に掲げようとすれば、本来静止すべき片腕が体軸と軸足を置き去りにして、受けの制圧を意図することになる。ここに魄氣の力を借りて手を働かそうとする無理・矛盾が生まれる。これを開祖は〝魄ではだめだ〟と指摘しておられるのであろう。
陰の魂氣を陽で発するには、吸気で母指先から全ての指を緊張伸展し、同時に上肢全体へと及ぼして、氣の珠を包んだ掌が天に向けて開かれねばならない(動画⑤)。掌は体軸から最大限に離れる。もっとも、母指先の反りに合わせて必ず円を描いて巡ってくるのであるが。
同時に、手足腰の一致(難場歩き)で動作する合氣の術理から、同側の足は軸を対側の足に移して非軸足へと交代しなければならない。軸足交代した体軸に魂氣が結んだまま対側の魂氣(手)を別の丹田に結んで体軸に与らせるわけだ。
一体となっている受けの体軸と共に取りの体軸を対側の足と手に移して、非軸足を置き換える際の陽の魄氣とともに、受けと繋がったままの魂氣を自身の丹田(あるいは側頸)から陽で発するのである(空の氣を解脱して真空の氣に結ぶ)(動画⑥)。この妙味を開祖は〝心の持ち方である〟(合気神髄)と明言されているのではないか。
徒手の松竹梅で取り返す。
陽の陰で諸手に取らせ、外転換とともに小手返しの手で側頸に巡って受けの両手を縦に並べることで十字投げや四方投げへと作って行く。陽の陰で開いた掌に氣の珠を包んで陰の陽へと側頸の高さまで巡らす、いわゆる降氣の形へと呼気で畳むわけである。
ところで、陰の陽に差し出した手が思いがけず諸手取りされた場合、思いを込めて腕を緊張させても、あるいは受けに任せて指の先まで弛緩させても、瞬く間に制圧されるに違いない。
そこで、腋を閉じて上腕を側胸部に密着して同側の足腰と共に体軸を確立するなら、受けに与えた魂氣は広義の陰となり、受けの体軸はそのまま取りの魄氣に繋がって地に固定される。その瞬間は上肢の受ける圧力が体感上消失する。そして、肘は体幹に固定され、前腕から手首までは僅かに受けと間合いを保ち、伸展している母指先だけが剣の代わりに魂氣を発することができる。そこで、上肢は陰の魂氣(掌に魂氣の珠を包んでいる)でありながら自由な手首を起こして、その部位では魂氣の思いを母指先から前方に発することが可能である。
初動で与えた手の母指先が地から天に向かい、空間に魂氣を発していくうちにも肘で魄氣に結び、その同側を軸足として後ろの非軸足を内後方に置き換えて内転換することで陰の魄氣となる。再度交代した同側の非軸足に合わせて母指先からなおも魂氣を発する思いで、ついに上腕を伸展して掌を開き、広義の陽で受けの異名側の手首上縁に沿って反屈した手背を進めることが出来る。交差取りの外転換と片手取りの内転換を同時に動作したわけである。止まらず掌を狭義の陰に巡って受けの手首に被せると、いわゆる陽の陰で受けの手首を包む用意ができている。鳥船のサーを思えばよいであろう。
ここで入り身転換によって再度同側の足に軸を移すと、その同側の手が受けの異名側の手を上から取って再び体軸に預かりつつ陰の陽で上丹田に振りかぶることができる。同時に対側の手で受けの同じ手首を四方投げの持ち方にて額に結べば、取りが諸手で受けの手を四方投げに取り返したこととなる。
2018/2/24
P69
天地の和合を素直に受けたたとえ、これが天の浮橋であります。片寄りがない分です。 中略
吸気で広げた両手に天から魂氣を受ける思いを持つ。 左右の足は対称に正立し、足底を経て地から魄氣を受けていることを思い、拍手と共に臍下丹田に両者が結び、命の確立を全身で自覚する。天の浮橋に立つというたとえであり、つまり禊である(動画①)。
左は発し、右はこれを受ける、中略 右足をもう一度、中略 踏む、中略 自転公転の大中心はこの右足であります。
P70
こんどは左足、千変万化、これによって体の変化を生じます。左足を三位の体にて軽く半歩出します。左足は 中略 これが千変万化の無量無限、神変、神秘を表わすことになります。
また右足は 中略 動かしてはなりません。全ての気を握るのは、この右足 中略 であります。
左手の先からは吸気で魂氣を発し、右は呼気で掌に魂氣を包んで丹田に結ぶ。呼気では右足を軸として魄氣を受け、右の手足腰により体軸が確立し、目付けは天地の境に定まる。鳥船の動作である(動画①)。
他方左足先は地に置き、自在に置き換えることができる。半歩前に置くと左半身となる。また、前方に進めると入り身、左は転換、右は前方回転、左から後ろは後方回転となる。軸足については非軸足へと交代するまで、その場を動かしてはいけない(動画②③④)。
魄を脱して魂に入れば 中略 左はすべて発し兆し、無量無限の気を生み出すところであります。中略 魂の比礼振りが起こったら左が自在に活躍します。左で活殺を握り、右手で止めをさす。
左手・魂氣は軸足交代によって左の非軸足と共に体軸(魄氣)から離れて自在に動かすことができ、手首から先は弛緩屈曲、緊張伸展が自在に行われて、陰から陽、陽から陰へと巡ることが可能となる。魂の比礼振りのたとえである。そこで、魂氣は受けとの間で接点から中へ入ってその体軸に結ぶことができる。
取りの魂氣(手)が丹田に巡り自身の魄氣に結べば、魂氣は受けの底丹田を抜けて取りの合氣即ち禊そのものとなり、ここに武技が生まれるから武産合氣と呼ばれるのである(動画⑤)。
2018/3/9
稽古のはじめに、正立した禊で天から魂氣を受けた両手が下丹田に結ぶと、開祖の「天地の和合を素直に受けたたとえ、これが天の浮橋であります。片寄りがない分です。」という言葉が浮かぶ。そこで左半身の鳥船に移るべく右に体重をかけたまま左足先を半歩前に置き換えたとき、開祖の言葉は「右足をもう一度、国之常立神の観念にて踏む、右足は、淤能碁呂島、自転公転の大中心はこの右足であります。今度は左足、千変万化、これによって体の変化を生じます。左足を三位の体にて軽く半歩出します。」と続く。
軸足が魄氣を受けて体軸を地に直立させ、同側の魂氣を下丹田に結ぶことで一足の手足腰が合氣によって天地に結んだ体軸をつくることになる。このとき軸足は体軸を確立したと表現してよいだろう。
ここで、反対(左)側の足腰は非軸足となって自在に置き換えることができ、転換・入り身によって相対動作では互いの体軸を接することが可能となる。同時に、左手は「魄を脱して魂に入れば」空間に魂の比礼振りで円を描き、魂氣を陰陽に巡らせて受けの手に結び、さらにその体軸へ響かせた後に自身の丹田へと巡って結ぶ。入り身・残心を経て合氣即ち禊が技を産むのである。
「左は全て発し兆し、無量無限の気を生み出すところであります。」「魂の比礼振りが起こったら左が自在に活躍します。左で活殺を握り、右手で止めをさす。これが左の神業の意義であります。」「技が生か滅か、端的な活殺が武産合氣であります。」とあるように、左半身片手取り昇氣呼吸法を例にとると、右手は陰で腰に置いたまま転換・再度軸足交代で入り身・残心と左手で技を生み出すことができる。つまり、止めをさす動作は必要ないわけだ。
ところで、受けに与えた手から魂氣を発して受けを導こうとすれば、同側の足と共に体軸を確立したままでは無理があるということを、これまでの開祖のお言葉から学ぶべきであろう。
われわれは、非軸足先に同側の手と目付けを合わせて一方向への動作に徹することを、手足腰目付けの一致と称して相対動作の稽古で着目するようにしている。正面打ち一教運動表や片手取り入り身転換、片手取り昇氣呼吸法などにおいてである。そのとき軸足側は魂氣がそれぞれ上、下、中丹田に魄氣と結び、体軸の確立がなされて安定した柱を作る。難場歩きに通じる「仕組み」である。
難場歩きからかけ離れた相対動作では、軸が不安定であるため無理が生じて大小の不規則な力を手足腰で補おうとする。体軸の自壊があっては結局動作が行き詰まることになろう。
軸足側にある限り手から吸気で陽の魂氣を発することには無理が有るものの、呼気で陰のまま即ち体軸上(実際は体表面)を上下することはできるのである。したがって自ずと各丹田は垂直に体軸上を並ぶこととなり、姿勢を直立に正すことが自然体と呼ばれる所以である。
上肢の働きに魂氣の陰陽を思い、魄氣から離れた非軸足と同時に吸気で差し出せば存分に氣力を発することができる。また、魄氣を受ける軸足と結んで体軸をつくれば、上肢は呼気で体軸上の丹田を容易に昇り降りすることができる。この術理を間違えば合氣の動作はたちまち詰まるところとなり、力を要する稽古へと傾かざるを得なくなる。
2018/3/10