「形の性格」 p55           *は私見の挿入

 『身体活動において力強くあるためには、つねに体の統一(安定性)が必要とされる。

同時にその活動が活発であることは、その体が変化(活動生)に富むことを意味する。     

統一を欠く変化は弱く、変化に乏しい統一ははたらきをもたない。

 

統一と変化とを具体的形体の中に同時にもたなければ形としての意義がない。』

 

『古流の武道は技術的に分化してなかった。人間格闘におけるいろいろな場面に応ずるための技術を探求した。中略…それらの異質の技術は危険性がともなうのであるから、一定の「形」として相手方の自由意志を限定して練習する。つまり「形」の練習であって、勝つ人と負ける人、投げる人と投げられる人とを、あらかじめ約束した上での練習である。一定の方式にしたがった正しい技に対しては反抗をこころみないで、素直に負けることによって、お互いが技の理法を体得するのである。』

 

*先手/後手/同時打ちの設定や、転換/回転の速さは稽古の段階や目的に応じて一定させる方が効果的である。しかし、返し技としての稽古では初めの設定を覆す受けの速さと、取りの動作に不備を認めての形における反攻が主眼となる。これも約束の上で効果を次第に高めて行く場合と、受けを取る上位者が取りに対して指導的にその不備を衝く場合もよく行われる。その際も正しい(普遍的・合理的)方法(形)が技として伝えられている。これらが曖昧に行われると乱雑で見苦しい「乱取り」もどきとなってしまう。

2012/5/24

 

 

『要するに「形」は技における正しい手順や、かたちをおぼえられる』

『「形」は古の武道であれば技術の内容に限定の無い格闘の技術であるから、その重点が発明した先人の個性が異なるごとに、それぞれ異なったのである。…中略 現代のように武道がそれぞれ一定のルールにしたがい、動作と技術が限定された場合であっても、やはりその「形」には教える人々によって多少の相異が見られる。要は最も普遍的、合理的なものを手引きとして学ぶべきである。』

 

*『現代のように武道が…』とは剣道や柔道を指す。

 

  『「形」は先人の業績を端的に表現したものであって、尊いものである。後進者はこれを正しく学ぶことによってはじめてその手引きをえられるものであって、上達の早道であることはいうまでもない。この基本を無視しては上達をはばまれ、あるいは非常な回りみちをすることになる。』

 2012/5/25


合氣道の武術性を学ぶために

 負傷を避けるだけでなく健康上左右の均衡も大事な要素であり、効果的な稽古ということなら一つの技をその都度左右の動作で反復することに異論は無い。

 たとえば右で突いて来たら逆半身入り身転換・左手で取って小手返し、左で来れば取りは右足から入り身転換・右手で小手返しというように、通常の型稽古を行う限り左右の選択や速度は両者の約束に則ってお互いに効率よく実施される。これにより、互いの恊働に基づき一つの技に限って初動から終末動作、残心を身につけることが出来る。

 一方、型稽古の対極にあるのは、取り受けの設定がなく互いに相手が敵となり自由に勝敗を競うなかで技術を体得することであろうが、それでは実際に稽古であり続けることができない。稽古である限り、互いを尊重し効果的に合氣を修練し続けることのできるものであるべきだ。

 武道としての緊張感と達成感に着目すれば、受けの攻撃初動において左右いずれの上肢や下肢を用いるか、上段か中段か、速さは、など予見不能であることがまず大前提である。受けにとっては取りの先手が予見できないわけであるから表技や掴み技全般をひとくくりにして別に稽古するのが合理的であろう。従って、同時打ちかあるいは後手で氣を発して相半身か逆半身に接したところから相対動作が始まり、勝ちに至る技を産むことこそ稽古として望まれる

 つまり、対峙する者との距離に加えてその上肢、通常は片手、がまず動き始める瞬間を我が方の動作の起点とするしかない。そこで取りとなるべき者が一瞬何を動作するか。吸気か呼気か。基本中の基本である限り選択の余地は無く、単独呼吸法と単独基本動作に限られる。なぜなら、互いにどのような攻撃でどの相対基本動作を行うか、まして最終的にどの技が産まれるかは、初めての接触の更に前段階において知る由もないからである。

 『武道論:富木謙治著』では、『敵の機を知る上で直感による境地に進むのが理想であろうが、修行者の段階としては五感のはたらき、とりわけ見ることが大切である。』として、『古来、一眼、二足、三胆、四力をもって武道の要訣とした。』と記されている。四力の力は技術力である。その技を発揮する体力や筋力などの身体能力であるとされる。型稽古の習熟で身につけることのできる技術を最後に持って来たところと、手や腕の動作をあえて取り上げないところにこの教えの尊さがある。従って、受けが手をどう動かすか、取りはどちらの腕をどう合わせるかということなどは取るに足りない、いや、むしろこだわってはならない要素であるという教えでもあろう。

 また、『形で覚えた個々の技について、その機会のつかみ方や、技と技との連絡変化などのはたらきを教えるのが自由意志による「乱取り練習法」で』あり、この場合、自由意志とはいえ競技規則に則ったものであるから、『人間関係における自主的規律を尊重することに繋がり、体育としての教育目的を達成することができる』と記しておられる。 

 競技武道におけるそのような稽古方法でさえ、ある意味では規則という型の中で行われるものであるから、合氣道の伝統的稽古が互いの自由意志で、しかしある程度の状況設定をしたうえで、行うことも可能であろう。そこで、基本の稽古を、相対基本動作とそれによる技の成立、所謂型稽古とするなら、応用の稽古は受けの初動に対する単独基本動作とそれによる相対基本動作の成立とすることが出来る。この分け方は技の成立過程に着目すれば逆の名称でも差し支えない。相対基本動作の成立とは、受けの魂氣と魄氣の結びを解き、取りの魂氣と魄氣が受けのそれぞれに結んだ状態を言う。また、技の成立とは取りが残心を示し、受けは魄氣の丹田への結び(正立)を失い中心が地に結んだ状態と表現することができる。それは、互いの結びから再び取りが単独動作に戻った瞬間でもある。

 以上のことから、合氣道をより達成感のある武道とするためには、始め応用の稽古に専念し、基本の稽古をその後に行うという段階を踏むのも一つの方法である。

 乱取りといえどもそれぞれの格闘技の基本の上に成り立つものであり、あくまでも礼節を維持するに耐えられるものであるべきだ。

2012/6/3

 

p65 日本武道は「実戦の場」で勝つために命がけの修練をしてつくり出した高度の精神的技術的伝統文化である。

p69 武道が宗教と親近性があるゆえんは、両者とも死の恐怖と生の不安からのがれようとするところにある。したがって、昔から武道をもって(中略)「生の執着を断ち切る修業」であるともいわれてきた。

p70(現代武道における)「競技の場」は「たたかう心」と「和の心」との調和の場である。「たたかう心」のないところに進歩はない。が、「たたかう心」が「和の心」を破り、闘争におわるならば人類は破滅する。たたかって、しかも和するとき、人類に永遠の幸福と繁栄とをもたらす。

この意味において、「実戦の場」から「競技の場」へうつした現代の武道は、大いなる飛躍であり、進歩であるといわなければならない。

p80 古くから武道が精神修養になるといわれた第一の理由は、「実戦の場」にのぞんで、「勝つ」ことのために「わざ」を究めつくして、さらに、その「わざ」を通して心構えを学ぶからであった。そしてついには、平常の心がけや、生活態度のだいじなことにまで、その修業をすすめたからである。つまり、「実戦の場」にのぞんで、「勝つ」ことを目的として、そこから出発して、技術的に精神的に探求したものである。だから武道における精神修養とは「わざ」をはなれて「こころ」の修養はありえない。(中略) その「こころ」とは、勝負によって動揺しない「こころ」であって、その勝負というのは、つきつめていえば、生死につながるものであるから、死の恐怖を前にしても動揺しないような「こころ」ということである。

「わざ」がどんなにうまくなっても、相対的であるから、これのみにたよることはできない。絶対不敗の「こころ」をえるためには宗教的信念をえなければならない。そこで古人は、武道の修業には、何をおいても、まず「こころ」を学ばなければならないと教えたのであった。

 「こころ」の問題になると、昔から名人達人は、それぞれの体験によって、主観的信念を述べたので、その「こころ」についての表現がまちまちであった。(中略)

p81 要するに、日本武道は、殺伐闘争の「わざ」から出発して、勝負を超越しようとする「こころ」の探究が、ついに仏教の死生観や儒教の大自然融合の道へとすすんだのである。


2012/6/26

「形の性格」に関連する私見

 合氣とは、呼吸と共に魂氣と魄氣が丹田に結ぶ動作である。天と地の間に在って、正しく立ち、または座り、体軸と丹田を確立することに始まる。相対的には取り受け互いの魂氣と魄氣が取りの丹田に結ぶことである。

 その際、外に現れ目に映るものが形である。その形をなぞって伝えて行くことが合氣ではない。形に現われるところの核心を体得し共有することが伝統そのものである。形をつくることと氣結びを成すことの、違いを知るところに伝統が産まれる。

 未だ形を現せない中心では結びが思いに留まることとなる。しかし、合氣が成り立つなら思いの中から結びを成し、巡りが再び結びに連なる。そして、自身の目に形は映らない。

 つまり、形は伝統たり得ない。見るものをして確信を予感させ得るものであればそれは美である。

 

p55以下『要するに「形」は技における正しい手順や、かたちをおぼえられる』とある。この場合、「形」は型、「かたち」は上記述べた私見に記した形に相当すると考えられる。「おぼえられる」とは言い得て妙。合氣を成すことの実感とは隔たりのある意味合いである。

2012/7/5

 

武道と宗教

P30  武道と体育思想

P34 ③武道と宗教

 戦場は「生死の場」である。死の解決は武技を超越して、これを神仏に求めなければならない。ー 中略 ー 古来の武将や武芸者は多く神仏に帰依し、それによって心胆を練り安心立命をえた。

P35 古の武士が命を鴻毛の軽きに比して、死生超脱の境地を求めたわけは、名誉と責任とを守り、武士の権威を保つことが、自分のいのちを長らえることよりも大事であったからである。しかもそれは、他からの強制や功利のためではない。武士は自我意識が強烈であって、何ごとにおいても自律主動をもって本領とした。

P36 ー 中略 ー 武士が日常生活において、起居容儀、言語応対など、すべてを敬しみ深く、油断なく、しかも死身になって厳しく過ごすことを要求したのは、要するに、武士の職分である戦場において「勝つ」ためには、一切の生活をこれに結集したからである。つまり生活全般を通して戦場にのぞむ「心構え」と「気魄」とを養ったのである。

 武士の能動的精神を最大に発揮しなければならない場面はいうまでもなく、実戦格闘においてである。技術そのものの練達は、もちろん大事であるけれども、心のはたらきが、恐怖のために萎縮するようでは勝利をうることがむずかしい。禅僧沢庵が剣術指南役柳生宗矩に書き与えたという『不動智神明録』がある。自刃を相交え、生死巌頭にたったとき「心」のはたらきをどうしたらよいかについて訓えている。強く逞しく生きようとする格闘の場にあって、かえって生を捨て、生への執着を離れることによって、心の自由をえられる。すなわち禅の心法を悟りえたものであって、はじめて自由無礙な剣法の極意をえられるものだと説いている。

 けれども、佚斎樗山子(いっさいちょざんし)が『天狗芸術論』に述べているように、ー 中略 ー 「芸術は修練を要す、事熟せざれば気融和せず、気融和せざれば形したがはず」という。心とともに技術の修練が必要でることを力説している。そこで、われわれは、昔から武道には「技心一如」や「心気力の一致」がなければならないといわれた理由を知ることができる。

2012/8/10 ロンドンオリンピック期間

天狗芸術論の一節

合氣道の立場から訳を試みる。

   「事(わざ)の熟するにしたがって気融和し」

 

「気」は目に見えるものではないから「気融和し」を心身の働きが一つに融け合うという表現では実体を想起できない。魂氣三要素と魄氣三要素は気をイメージすることによる基本の動作そのものであるから、

   “技術が熟達してくるにつれて魂氣と魄氣の丹田での結びを自覚し”

と訳したい。

 

  「気融和せざれば形したがわず、心と形と二つに成りて自在をなすことあたわず」

 

「形」は動作に繋がり、「心」とは思うこと、意図することであろう。

   “魂氣と魄氣の結びがなければ確かな動作と成らず、また、相対動作に至ってはさらに思い通りに運ばず、自在に技を使うことなぞできない”

 これで合氣道が剣術の理にそのまま繋がることは明白であり、魂氣が剣をとって発揮されるか、徒手で巡り互いに与えられるかの違いであるから、両腕、手指の用い方にこそ合氣の本質があるといわざるを得ない。剣または杖を持たないことによる魂氣の深まりが、間合いの変化に叶う魄氣との結びと相まって合氣道特有の技を産むことができる。

 魄氣の要素に集中するための剣技は、剣を離して空をとる魂氣に結び生かされるものである。武器を用いる稽古の意義を冷静に見極めることが肝要である。

 2013/1/15

 

 

合氣道稽古法の参考とする

P197から198

 それら(柔術)のすべての「わざ」の根底にあって、これを動かしている基本原理がある。昔の柔術では、このような原理についての説明はなかった。むしろ柔術には説明はいらない。体験だけで各人の悟りでおぼえるものとされた。だが、嘉納師範は、この考え方を破って、「わざ」についての科学的分析と分類とをなした。(中略)この原理を指針として、それぞれの「わざ」を理解し、練習上に役立てるようにした。(中略)いうまでもなく、原理は理論であって、知的理解の対象であるから、その理論にもとづいた身体練習が必要である。これが「基本動作」である。「わざ」の正しい上達のためには「基本動作」がだいじでる。

P206 から207

 元来修業法に二つあります。即ち一は型より乱取りへ。一は乱取りより型への方法があります。(中略)武術の真精神を会得するにはまず充分型によってその真味を体得し熟するに従って乱取りに入る方が誤りないように思われます。大東流はこの方法をとります。(中略)如何なる場合、如何なる体形をも予定して、それに応じ得るよう変通自在なものでありまして、型即乱取りといったようなものであります。

P221から223

 古流柔術の「わざ」の練習法には「形」と「乱取試合」の二方法がある。

第一の「形」は古人の修練の結晶であって、多くの人々の創意と工夫の集積である。これを学び反復練習することによって、からだの動き、力の配分、「わざ」の手順や目的が体得される。

 「形」の練習には、さらに次の二段階がある。

取と受とをあらかじめきめて、約束による「わざ」の手順を反復する。つまり取の動作も受の動作も約束によるきめられた一つの「わざ」だけをくりかえす。

取と受とがきめられていることは前者と同じであるが、取が自由意志で「わざ」を選んでかけたとき、受はこれに随順して受ける。つまり、取の動作は自由であるが、受の動作は拘束されて行う。

第二の「乱取試合」は、まず「乱取」次に「試合」とに分けて解説する。(中略)取も受もお互いに自由意志で「わざ」を選び、お互いに競って「わざ」を磨く。これによって、「わざ」をかけるチャンスのつかみ方や「わざ」と「わざ」との連絡変化など生きたはたらきをおぼえる。(中略)なぜ古流柔術では「形」の練習だけ行われて「乱取」の練習がおこなわれなかったのであろうか。それには次の理由があげられる。①「わざ」が危険であるから自由意志で無限定に「わざ」を使用すること、またその「わざ」を競うことは「実戦場」だけのものであると考えられたこと。②「わざ」の種類が多く、かつ「場」の条件も異なるので、複雑多岐なこれらの「わざ」を整理して練習することは困難であると考えられたこと。(中略)「乱取」の練習をつみかさねることによって、おのずから「試合」に到達することになる。「乱取」はお互いが自由意志によって「わざ」の応酬をなし、奔放自在な練習をくりかえすが、その間に「わざ」のチャンスのとらえ方や「わざ」と「わざ」との連絡変化の運用の妙を体得する。

 

以上富木謙治著『武道論』より

2012/10/9

 

科学する

 科学者であっても、いや科学者であるが故に武道を科学と捉えないばあいがあり、非科学者は当然の様に科学しないで合氣道を眺め、なぞり、観念のみでそれに同化しようとする。また非科学者が科学として捉えようとするが常に足踏みで終わる。

 ここは富木謙治著「武道論」にあるように、柔術にたいして果敢にそして謙虚に科学した嘉納治五郎の心を持って、合氣道に取り組み、基本動作を洗練させ、わかりやすくして次代に伝えたいものだ。

 2012/10/19

 

形と型

 氣結びと魄氣の三要素が基本動作を産み、その連なりから表面に現れる一瞬一瞬が形である。形には魂氣と魄氣の要素が含まれている。

 それに対して型は基本動作とその形を外からなぞった姿そのものである。動作の連なりの速さや順番即ち技の種類を知ることは出来るが、一々形に備わる各動作の表現や氣の思いとは同化し得ない。

2013/2/13

 

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