『体育と武道』富木謙治著 早稲田大学出版部 昭和45年10月30日初版発行

第一部 

八「わざ」についての究明 P112

 P114  二「たたかい」

およそ生命ある人間のうごくところには、つねに対立や障碍があって、これとの「たたかい」は不可避である。

P115 まず人間が生存と幸福を求めて、衣食住の物資を得るためには、自然の脅威とたたかわなければならない。すなわち、寒暑に堪え風雨を冒し、天変地異にうちかって資源を開発して生産を増加しなければならない。また人為による幾多の障碍ともたたかわなければならない。教育が普及され、社会の施設が整備されたといっても、まだ協同生活を乱す不徳漢も居れば、狂人も居る。さらに理想を異にし、世界観を別にする一団の人々があって、ついには惨烈な戦争にまで対立し、発展するおそれがある。

 だから人類の歴史は、「たたかい」の歴史であるといわれる。じつに歴史は、前述のような対立、矛盾、抵抗と、それに対する「たたかい」の葛藤の跡であって、おそらくは永遠に続く人類の宿命であるかもしれない。中略

およそいろいろな「たたかい」のうちで、最も現実的であり、熾烈であり、そして人間の魂を喚び起こし、生命を揺り動かすものは、何といっても、暴害的意志をもって対立する敵との「たたかい」である。このような「たたかい」の場に処する道の究明が、いわゆる修行道として、古くから伝わった日本武道である。

 乾坤一擲の生死を懸けた勝負に際しての心構え、態度、手段方法を探究する。つまり、真剣勝負の格闘の「わざ」の錬磨体得を通して、人生の道に深く徹するにあった。 中略

P116 さて「勝つ」ということは、つきつめれば、自己の主動的活動の世界を創造することである。その世界の創造とは、環境の対立者を自己の主動的内的の力によって調和統一することである。人は大小にかかわらず、各々自己の世界を有し、その世界内における自主的活動を、いっそう高めようとするばかりでなく、その領域をも広めようと望んでやまない。 中略

 昔から諸芸の名人達人といわれる人々は、みなその独自の世界を有し、その領域においては自由無碍な境地を開いた。 中略

P117  この至芸の極致は、武蔵が「我れ太刀を持って立てば、天地の間に何ものもなし」といった境地とも通ずるものであって、中略

 

 三「わざ」

 「勝つ」ということは、環境の対立者を自己の主動的内的の力で調和統一することであるといったが、それはすべて「わざ」にまたなければならない。およそ外界の環境へのはたらきかけ、つまり環境に「処する」「挑む」「支配する」「克服する」「調和する」などということは、すべて「わざ」のはたらきにまたなければならない。 中略

意志が環境にはたらきかけるところには、必ず「わざ」があるのであって、ひっきょう、人間の生活は、環境に処する「わざ」の連続であるといえる。

 そして環境に処しこれを支配するには、よく環境のあるがままの法則を知って、それに随順しながら、しかもこれを克服しなければならない。

P118  環境の法則に逆らうものは、自然の理法を無視するものであって、ついに破れざるをえない。 中略

 随順の態度は、没我の態度である。没我の態度こそはよく環境の中に自己を生かし、主動的活動を可能ならしめる所以であって、ここにいわゆる、科学する心の態度がある。

                                     2015/10/23

 

 主動的内的の力ということは、いいかえれば、人間のもつ生命力であって、その力の強弱が個人におけるファイトであり、また根性である。古語に「武道は気の修業である」といわれたのも、これをいうのであって、その「気」は大にしては天地の「正気」につらなるといい、そして何ものをも貫いてなし遂げる「必勝」の精神であると訓えている。

P119 かりに、この「必勝」の精神を、日本刀の鋭利さによって象徴するならば、「剣の気」ということができよう。また前述の随順ということを「柔の理」という言葉でいいあらわすならば、「剣の気」と「柔の理」とが、「わざ」をして活用あらしめる根本の理法であることを知る。

 およそ形あり、具象のものは、「見られる」ものであって、すなわち、被動のものである。「見る」もの、すなわち主動のものは、形のないものである。形なくして働く主動者が、「わざ」の理法を活用するには、具体的物体の媒介を要する。 中略

形のない主動の我は、まず肉体を媒介として環境にはたらきかけ、肉体は「わざ」の理法によってその機能を発揮する。

 要するに、人間欲望の無限性と人体機能の有限性との距離をちぢめようとして、発達工夫されたものが道具や機械であって、つまるところ、道具といい、機械といっても、肉体機能の延長に過ぎない。 中略

 

P120 四「技心一如」

P121 中略  武道は、生死を懸けた格闘の場において、自己の主動的世界を創ること、つまり「勝つ」ことである。対立する敵によって目醒めさせられるものは、まず強烈な自我の感情である。それは生命の脅威に遭遇して激発する自己保存の衝動である。衝動の発するところには、感情も激して、そのために、意志は掣肘されて行動が萎縮する。そこで、むしろ我に対立するものは、ひとり外敵ばかりではなくて、我のうちにも存することを知る。敵に対する働きの自由を得ようとすれば、まずもって、我が心のうちの自由を得なければならない。

 そこで、「自我とは何であるか」の問題に逢着するのである。ことばをかえれば「自我」に対する執着から離れることが問題となるのである。

P122 先ず常識的の自我から出発する。常識的自我は、自我の肉体に執した自我であって、いわゆる、肉体我または小我である。これは内省のない精神生活をもたない低い段階であって、この段階に止まるかぎり、人はついに禽獣的生活の域を脱し得ない。利己主義、享楽主義、官能満足主義などは、この段階の外に出ることがむずかしい。このような人生観をもつ以上は、どんなに「わざ」に優れ、力が秀でておっても、生死の場では、活溌なはたらきができないとされた。そこで日本武道の修行に入ろうとするものは、まずその心を学ぶことを求められた。日本武道は、生死の道であるから、心の極意が技法として展開表現されて、いわゆる「相うち」や「体あたり」などの捨身の技法となったといわれている。

 だから修行の第一歩は、肉体我の否定に始まる。およそ生命は、対立否定に生きることによって、ますますその力が強くなる。 中略

P123 ここにはじめて、精神我も深くこれを内省するとき、知覚、表象、概念などは、非我としてこれを捨て去らなければならない。そして理論上の最後の仮定であるところの能動の我、すなわち「真我」に到達するために努力しなければならない。「真我」とは、私たちの意識によって把えた意識内容ではなくて、むしろ、意識するそのものである。それは能被一処の悟りにおいて直感しなければならない境地である。この境地においてこそ精神我は、純粋能動体となって、自由無碍なはたらきと無限の展開をなすことができよう。

 古来聖人と仰がれるような人は、みなこの内省を深めることによって肉体我を破って、「真我」に到達したのである。肉体我を破るとき、はじめて、肉体的には他我であるところの父母や妻子など、さらに、一切の他人をも精神的自我のうちに摂することができるのであって、ついに禽獣虫魚をも含めて、宇宙大にまでも拡大包摂することができる。かの釈迦が天上天下唯我独尊と喝破したのもここをいうのであろう。

 自我は、内省を一歩すすめるとき、それだけ外に向かって一歩の展開をするのであって、極小の「真我」に到達するときは、すなわち、極大の「大我」に通うときである。極小即極大、真我即大我、これが自我展開の方式である。仏教における八正道や六波羅密の修行にしても、または惟神道における禊行にしても、すべての行道はこの方式によるのであった。真我即大我の境地は、宗教的には、いわゆる神人合一の境であって、また「無」といい、「空」というのもこれをさすのであろう。

P124 人はここで、火にも焼けない、水にも溺れないような金剛不壊の「不動心」を悟り、境に応じ、機に臨んで、円転滑脱、自由無碍な心法を悟得するであろう。このような宗教的心法を武道の修行者も求めたのであるけれども、ただ、武道の修行は、あくまでも、技に即して心法を悟る「技心一如」であることが強調された。 後略

 五 武道の「修行」とスポーツの「トレーニング」

いま武道の「修行」過程を、一応分解して説明するならば、まず修行の基盤として最小限の体力を要する。そして、できるだけ健康の維持と体力の増強をはからねばならない。 中略  けれども体力には限度があり、これに技法の修練がなかったならば、十分のはたらきを期待できない。技法の錬磨体得には、必然肉体的苦しみを伴うものであって、ここに「行」としての意義が存する。すなわち、「形」の反復修練によって、技法を全く固有化して、あたかも反射運動的に、身についた働きにまで到達させなければならない。

P125  技法の完全な固有化によって、はじめて、単なる体力が技力としての働きを完うする。

 次に、心力であるが、観擦、分析、判断をあやまらず、そして勇気と決断をもって事にあたる心のはたらきは、古い言葉では「不動智」の心法というのであるが、これをはたらかす原動力は「気」である。個人の「気」は、さかのぼれば、その本源は天地につらなる「正大の気」であって、ここに神人冥合による養気の大切な所以がある。ところが、この「気」の積極的発動を邪魔するものは、恐・懼・疑・惑の病心であって、これを払拭しなければならない。病心の払拭とは肉体我の否定であり、肉体我からの解脱である。これによって、はじめて、氣力の充溢が期待される。充溢した気力が心法にしたがって働くときに、いわゆる心気整って心力となる。心力、技力兼ね備わって、はじめて「技心一如」の妙用が発揮されるのである。中略

P126 「技心一如」をもって技術上達の極致とするのであるけれども、これを行う背景としての倫理観には、古流の武道と今日の武道との違いがある。それは古人の人生観や世界観と、現代人のそれとの違いによる。すなわち、古流では、ややもすれば、「たたかい」の意義が対人的の狭い意味に固執されたけれども、今日では、広く文化的創造のための「たたかい」を意味する。したがって、その修行方法においても、古流をそのままに現代に復活しようとしても無理である。ことに「人間尊重の原則」を第一とする教育には、古流の殺伐性を捨て去って、しかも技術性の深さと品位とを生かすことに心を砕かなければならない。武道のスポーツ化の問題点がここにある。

 私たちは、古の武人が「たたかい」の場にのぞむためにたどった修行のあとを、新しい解釈と新しい方法とによって、広く現代体育の中にスポーツのトレーニングとして、生かすことができることを信じている。 後略

        「早大体育研究室紀要第三号」(昭和三十七年十二月八日稿)

 

                                                                          2015/10/28

第一部

一 教育愛と体育

  中略

P11 三 人間形成と教育

 前略 人間というものは、その生命を護るために欲求が与えられています。その欲求を充たす場合には、多少にかかわらず外界からの抵抗をうけます。

P12 強く阻まれたとき、それに反撥して欲求不満が起こります。つまり、外界の刺激に順応して自分の行動を規定するのですが、同時にその刺激をとり入れることによって、内面的に自分の性格を形成します。

 ところで、この人間形成にあたって作用する要因を挙げるなら、第一にその人の生まれながらの素質であります。生まれながらの素質は否定できません。第二には、自然環境の影響です。  中略  第三には社会環境の影響も見のがすことはできません。 中略 生まれながらの性格が強ければ、自然環境や社会環境の影響に負けないでしょう。しかしながら、その性格が弱ければ、自然環境や社会環境に影響されることが大きいのでありましょう。また、ある場合には自然から受けた影響の方が大きかったり、社会から受けた影響の方が大きかったりするでしょう。

P13 このように、これらの三つの要因がお互いに影響し合って人間の性格を形成するのであります。

 さて、 中略  そのとき良い影響を与える「望ましい」ものと、反対に「望ましくない」ものとがあります。そこで生まれながらの素質のうちで「望ましい」良い素質を育てて、「望ましくない」悪い素質をためるために自然や社会の「望ましい」環境を選んで与え、そして「望ましくない」悪い環境をチェックするはたらきが、厳密な意味の教育活動であります。さらにいうならば、自然環境や社会環境を意図的計画的に選択整備してあたえることによって人間形成をするのが教育であります。 中略

 さて、教育上「望ましい」ものか「望ましくない」ものかを選ぶためには、一定の標準がいります。

P14 つまり価値の標準であって、「価値」ということについてどのように考えたらよいかということです。

                                     2015/10/31

 われわれは欲求をもっております。些細なことでもその欲求を充たしうる対象に対しての価値観によって我々は行動しているのです。けれども、われわれを動かす価値の対象はたくさんあって、そのうち何を選ぶか。その選び方がその人の人生の在り方を決定します。最高の価値を何に求めるか、それはその人の人生観についての問題であって、昔から哲学の中心問題でありました。

 中略  

P15 哲学史上で価値論が大いに叫ばれたのは十九世紀の後半ドイツにおいてであります。中略  新カント派の創始者であるウィンデルバンドは哲学の中心課題を価値論におきました。それはカントの形而上学的物自体の問題をさけて、普遍妥当的文化価値の研究を中心としたのです。

P16 すなわち、真、善、美、聖などの文化価値を立てたのですが、学問、芸術、道徳、法律、宗教などは、それらの具体的実現であるのです。そこで教育論としては、それらの文化価値を教養として身につける琴似よって高い価値生活を送ることができるということになります。つまり、人間形成にあたって「望ましい」環境を選ぶための標準を、この文化価値においたのです。

 ドイツにおける価値論のほかに、アメリカでは、特色ある価値論の学派がつくられました。プラグマチズムの立場からのものであって、興味本位に考えたのです。人間は興味をもてばそこに価値がある。そして興味は個体の存続と外界の適応に役立つものであると理解しました。 中略

P17 前略  要するに、人間には絶えざる向上心があって現状に満足せず、つねにより良きもの、理想を追求してやみません。新カント派の説く真、善、美の理想を捨てることができないと思います。けれども社会学や心理学などの科学的方法によって現実を把握してゆかなかったならば教育効果をあげることがむずかしいのです。

  中略  

P24  五 教育としての体育の重要性

 前略  体育とは「身体性」「運動性」「技術性」を内容とする教育活動である 中略。体を動かす、しかも全力をあげて大きく動かすということは、努力を要し、自主的自発的意志をもってすることです。さらに一定の目的に向かって高度な技術性を追求する場合には、おのずからこころとからだの集中を要します。つまり、心身一体の統一を必要とします。このような内容をもつ教育活動は、他のいかなる教科にもない体育の特質であって、情意の陶冶の上に教育的効果が大きいのです。 中略 我々が日々のスポーツの「場」で体験しておることで、「気分」「気力」ということがあります。後略

 前略  実力があるはずだが、今日の試合で力がでなかった。ところが反対に、今日は何となく気分がよく実力以上に力が出たということがあります。

P25 人は気分によって、ひじょうに左右されます。応援する諸君も「気力を出せ」とか「元気でゆけ」とか申します。つまり、「気」という言葉がたくさんに出ます。 中略  元気、短気、強気、弱気、病気などの人間に関したことばかりでなく、気象や天気のような自然現象にも用いられます。古い哲人は、自然現象の奥にあって、これを動かす力と人間の生命の奥にある力とは同一のものであると信じていました。したがって、人間の生命の力が枯渇したときには、大自然の生命力を受けてこれを強化しなければならない。これを「養気」と申しました。

                                      2015/11/3

 病気とは気を病むと書いて、からだを病むとは書きません。古語に「心を載せて形を御すものは気なり」、また「志は気の帥なり、気は体の充なり」(孟子)と申しました。つまり、気とは心と体との中間にあって、これを結び動かすものであるというのです。 中略

P26 前略  人間の行動の原動力は、感情であれ、いわゆる気であれ、ともかく感性的なものでありますが、そのあらわれとしての行動を是正する役割をもつのが知性です。両者の調和がだいじです。中略 

P27 前略  人間はものにふれて感情が動き、その刺激が強いときに感情もまた強く動く、その喜怒哀楽が身体的表現にまで発展したとき情緒となる 中略  この情緒が強く表現される「場」が、すなわち競技の「場」であります。勝てばうれしく負ければくやしい、名誉を賭けたこの一戦は、最も心を動揺させる「場」であります。だが、冷静に判断し、根気よく対処しなければならないのです。

P28  心理学的にも、人間は情緒の高さに正比例して知的判断力は鈍ることを教えております。すなわち、競技の「場」は感性と知性とが最大に調和を要求される「場」であって、この体験を通してだいじな性格形成がなされるのであります。 中略  ただ運動部の在り方については、必ずしも教育的であるとは見られないこともあります。とくに勝利至上主義的運動部の組織運営がその欠点をもっております。教育的観点からその是正が求められておりますが、そのポイントはスポーツに対する勝負観を正すことにあると思います。 中略

 以上わたくしは、人間における感性と知性とをどのように調和するかということを教育の立場から考え、体育の重要性について述べたのです。そしてそれは体験を重んじ体験を通じてのみ効果があげられることを強調してきました。つまり古い言葉でいいますと「行」の教育であります。武道の方では昔から修行といいます。 中略  

 「行」ということは仏教から出た言葉であって、それが日本ではいろいろな技芸、武芸の練習にあたっても使用されるようになりました。 後略

P29 前略 仏教では人間は愛欲によって在る。人生とは欲の世の中である。その欲のために楽しみもあるけれども、むしろ苦しみが多い。結局人間は死ななければならい。自己保存の欲求もある時点で終止符をうたなければならない。ここに生きる悩みがある。

P30  前略  生命がなぜあるかということは不問として、われわれは所与としてこれを受けねばなりません。所与としてわれわれは自己保存の欲求と種族保存の欲求とをもっております。 中略  生命のすすむ方向は、別の言葉で表現すれば「自由」への欲求であるともいうことができます。すなわち、生命の本質は時間的空間的に無限の「自由」を求めてやまないのです。後略

P31  前略 だが、どんなにその「自由」を獲得したとしても、物理的に外に求めた「自由」は有限でありますから、いつになっても求めて得られない悩みの尽きることがないのです。そこで心を転じて外の世界から内の世界へと「自由」の世界を求めます。ところが、心の中にもその「自由」を邪魔する悪魔が巣食っておるので、それを払いのけなければならない。それが修行だというのです。 後略  

 われわれの競技において、その記録にいどみ記録を高めることは、物理的に外に求めた「自由」の世界の拡大であります。だが、その記録をつくるためには、科学的知識の応用は申すに及ばず、何よりも強く要求されるものは、己にうち克つこと、すなわち節制の徳をつむことであります。競技はあいてに勝つまえに、まず己に克たなければなりません。「身体性」と「精神性」の完全な一致調和があってこそ始めて記録の向上が望まれます。

P32 わたくしが、スポーツの技術性を高めてついに記録を競う競技の「場」にまで至る練習過程が、古い「行」の教育の再現であるといったのはこの意味においてであります。

                                     2015/11/6

P35 二 人間観と体育

 人間は理想に生きる。理想は、より良いものを求めてやまない向上心から生まれる。現在の生活に満足しないで、明日の生活の理想を求めて、これを更新しようとする。ここに教育の活動がある。

中略 人間生活の存するところは、ことごとく文化の伝達や人格形成の行われる広い意味の教育の場であるということができる。 中略

P36 前略 つまり「あるがまま」の人間を、「あるべき」人間にまで陶冶することが教育の本質である。 したがって、教育とは、人間生活の自然の状態を、そのままに放置することではない。また、人間生活の理想の状態を教示することだけでもない。どうすれば、被教育者を現在よりも一歩でも理想に近づけることができるかということである。

 現実のあるがままを正しく知るためには、科学的方法によらなければならない。また、何が求められるところの理想であるかを知るためには、哲学的考察が必要である。中略  体育においては、教育活動がすべて、「身体」を前提とするばかりでなく、その具体的実践的「運動」そのものによって行われる。この点、他の教育の部門にみるように、記憶、思考、観念だけを教育の手段または教材として行われる教育活動とは違うのである。したがって、体育の教育的意義や教育的理想を究明しようとすれば、人間における身体の意義を明らかにしなければならないし、そのためには、人間そのものについての考察がだいじである。つまり人間観についての究明を要するのである。

P37 人間の本体の究明ということは、あらゆる精神科学、哲学、倫理学、社会学、政治学を構成する基礎となるので、古代ギリシャのソクラテス以来、数千年にわたり多くの思想家が、いろいろの角度から思索してきた。それにもかかわらず、現代になっても、なお重大な問題であり、難解な課題である。 後略

P38 前略 人間は他の動物と同じように、身体をもち、感情を備え、争い、貪り、食らい、嫉み、また種族保存を営む本能をもっている。だが、人間には、他の動物と区別することのできる幾多の優れた特色がある。

 比較解剖学者の神経機構についての解説に依れば 中略  高等動物になると、 中略  ついに複雑高度な仲介機構である脳脊髄神経機構をもっている。すなわち、中略  人間は生活するために、第一には反射作用をもち、第二には本能作用をもち、第三には高い知能的創造的作用をもっている。

 第一の反射作用とは、人間が「生きていく」ために、外からの刺激に対して行動するとき、意識とは関係なく反射的に行動することである。これをさらに二つに分けられる。一は自律系の反射作用であって、心臓や肺臓の如き不随意筋によるものである。そして交感神経と副交感神経との拮抗する二つのはたらきがある。いま一つは、体性系の反射作用であって、これまた防禦反射と姿勢反射とが挙げられる。防禦反射は、危害から生命を守ろうとするときに、無意識的に行動するもので屈筋群がこれにあづかる。姿勢反射は、伸筋群の緊張によって行われるものであって、直立や歩行のばあいに、踏みまちがい、姿勢がくずれたり、よろけたりするときに、直ちにもとにもどそうとする反射作用である。

 第二の本能作用とは、理性や知能のはたらきがなくても、自動的に起こるものであって、三つの大きなはたらきがある。食のため、性のため、 集団をつくるための本能作用である。

 以上の反射作用と本能作用のための神経機構としては、 中略 必ずしも人間特有のものではない。他の動物においてもこの機構をもっている。だが、第三の機構である高い知能的創造的作用をつかさどる大脳の新しい皮質は人間において優秀であり、とくにその前頭葉の発達は人間だけのものである。

 人間は 中略 人間に特有のものをもっているので、他の動物と区別される。いうまでもなく、それは人間が理性をもっているからである。

P40 理性とは、ただ見たり、聞いたりする感覚的能力や本能、衝動によって動く能力とは違い、概念的思考能力や本能を超越して義務の意識によって動く行動能力をいう。科学、芸術、道徳、宗教などすべて理性の力で作り出したものである。   

 プラトンは、人間は理性によって永遠に変わらない実在であるイデアを認識することができると説いた。また、近世哲学の開祖といわれるデカルトは、有名な「われ思う、故にわれ在り」という命題を残した。すべてのことが疑わしい中で、自分が考える力があるということだけはたしかであって、そこからかれの合理主義の考え方を発展させた。また、パスカルは「人は考える葦である」といって、人間の思考力の尊さを教えた。これらの人々は、みな人間における理性、つまり思考力や判断力に重点を置いたのであるが、このような人間観は、ややもすれば、心身二元輪におちて、精神と肉体とを対立させる。そして精神を優位において、身体を卑しむきらいがある。つまり本能や衝動は、肉体に付随するものであって、それを超え、これを抑制し、支配するものが理性であるとしたからである、

 さらに、精神と肉体とを対立させて、精神の優位を強調し、人間の精神の奥には神聖にして犯すことのできないものを宿しているという考え方がある。すなわち神や仏を信じて、身を慎んで修行すれば、汚れ知らぬ人間の神聖を発揮することができるという宗教的信念であって、古今東西にわたる宗教家の説く教えである。後略

P42  前略 心身二元論の立場をとり、精神を主として身体を従とみる人間観、または、人間の霊性の永遠不滅と絶対の自由とを信じて、これを邪魔する肉体と、これに付随する本能、衝動を否定しようとする人間観にあっては、人間の「身体」そのものに、積極的価値を認めようとしない。このような人間観に立てば、今日のような「身体運動」を前提とする体育もまた認められる筈がない。

  後略 

p44 前略  近世における人間の開発は、合理主義、科学主義、実証主義、そして唯物主義の思想を展開した。この思想の現れとして、人類の生活における物質面に驚くべき進歩を招来した。原始人の生活では、衣食住の物資を獲得するために、すべての人々が大筋肉の運動を余儀なくされた。生産活動すなわち体育運動、または、労働すなわち体育運動であった。ところが  中略  現代のオートメーション化された大企業組織においては、ほとんど身体を労せずにすむ。 中略  「人間の身体機能は、使わなければ退化する」(廃用性萎縮)ことは、生理学的鉄則である。 中略  人類は頭脳の優秀さによって文化をすすめ、労力を節したのであるが、そのことのためにかえって、体力と知力とを弱めて自滅のみちをたどろうとしている。この矛盾を解決するものこそは、之からの正しい体育でなければならない。  後略

                                     2015/11/11

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