1. 合氣道とは

 “合氣道とは、氣の武道である”。あれほど緻密な体の使い方に徹した小林裕和師範が結局このように言い現したことを、当初は理解することが困難であったが、今にして思えばそこまで厳密な動作を全身に要求し続ける上で、氣の観念こそが必要不可欠であるということであろう。氣を思うだけでは動かず、動作だけではぶつかり息が詰まる。まして形をなぞることに終始することは先達の辛苦に報いるものではない。

 

 生命とは言うまでもなく心と体からなる。心のたましいは魂とよび天に昇り、体のたましいは魄と呼び地に下るとイメージする。天地の間は氣で満たされそのうち天から受ける氣を魂氣(真空の氣)、地から受ける氣を魄氣(空の氣)という。両腕を広げて深い吸気とともに魂氣がそこに降り注ぎ、一方足腰は地から魄氣を受けて定まる。呼気とともに両腕が弛緩して魂氣は巡り、中心(腹)において魄氣と結ぶ動作が氣結びである。空の氣と真空の氣を臍下丹田に結べば(気構え)単に自己の力や動作を産み出すに止まらず、過去、現在、未来を結び、相手と結び、互いを活かす技が無限に産まれるのである。  参考「合気神髄 合氣道開祖・植芝盛平語録:植芝吉祥丸監修」

 呼吸は限りなく反復することから魂氣も常に巡り、それは上肢を介して天から体に受けては更に上肢を経て発せられるものである。互いの魂氣と魄氣が結んだ後、取りの魂氣が自身の魄氣に結んで終われば残心で、ここに技の本義が在る。

 従って、合気道の稽古や演武は開祖と先達にたいする感謝と畏敬の念にもとづくものであって、単に魂氣と魄氣の理を知ってそれを楽しむだけではなく、技の基になる基本動作の評価に終わるだけでもない。そこには開祖の肖像があり、合気道への真摯な修練の成果を捧げる報恩の行いであることを忘れてはならない。

      2012/10/25

2. 合氣道の成り立ちの整理法

  • 魂氣魄
  • 魂氣三要素
  • 魄氣三要素
  • 単独呼吸法
  • 単独基本動作
  • 相対基本動作
  • 基本技
  • 残心
  • 応用技(乱取り)

2012/10/26

 

3. 単独基本動作の理解方法

 巡りの無い魂氣、陰でも陽でもない魄氣、結びの無い取りの動作、もとより魄氣を投げ出す受け。これらは武術性に欠ける相対基本動作の背景である。 

 巡りは陰陽と結びの間にあって魂氣の中核であるから、これを欠く動作は魂氣を発現させることが出来ない。また、魄氣の要素をともなわない動きも静止も魂氣との結びを成し得ない。

 ところで、開祖は魄が前に出ることを戒め、一方で魄を大事に扱うようにおっしゃっている(合氣神髄 植芝守平語録 植芝吉祥丸監修)。この真意は、魂氣を失い魄氣に頼る上肢を戒め、一方正立(残心)を捨てた魄氣の脆さを叱咤するものであるはずだ。単に体の力と心の力を比べているものでもなければ、まして前者を軽んじているわけでもない。

 受けにおける魂氣と魄氣こそが取りによって理にかなう相対動作と成り、武を産む要素そのものとなる。いずれにしても各々の単独基本動作の成り立ちが魂氣と魄氣の結びに依らなければ相対動作も技も産まれない。武術性の本体である。

2012/10/27

4. 神氣館における用語の約束事

 与える:今、広義の陰で手首は屈曲してその遠位は萎んで軽く手を握る状態にあり、母指のみ進展のまま示指の第二関節の屈曲部にその腹をのせ、臍下丹田に結んでいる。閉じた手掌を上に向けると狭義の陽で、母指先は内方向にある。ここより脇を開けながら手首を丹田の前方に差し出すと下段に与え、受けの眼前に差し出すと上段に与えるという。陽の陰(母指は地を指し、他の指は縦に揃えて伸展し、脇を開けて上肢全体が吸気とともに緊張伸展する)にて肩の高さで前方に差し出すと中段に与えるという。

 突き:陰の陽で丹田から始まり上肢が脇から肘、手首と伸展し母指先が受けの中心に向かえば突き。

 片手取り:与えるから受けが手首を取って掌を開こうとする。始めに取りが上肢を伸展し、手を開き、指を広げると手の内は露になり皆地に落ち、受けが手首を取ろうとしない。指の一本一本は間合いによっては急所を晒す事になる。

 武産す魂氣:与える動作は陰陽の巡りの一瞬に過ぎない。取るかどうかは受け次第であり、掴まさなくても受けの動作を引き出し、取りは両手の陰陽の巡りを続けて魄氣の陰陽・入り身・転換回転のなかで受けの魂氣・魄氣と結び、取り自身の魂氣と魄氣が最後に結ぶことで残心を成す。この間は直に衝突や途中の停止があっては合気道の要素が見出せず、基本なきは合気道に非ず、ということになる。相対基本動作の成立こそが合気道を産む。

 与えるは振り魂の手の内:与えて受けが取ると巡って開く。これが陽の陽で、既に結んでいる。手の内は落ちない。たとえば入り身投げでは陽の陰に巡って受けの魄氣にも結ぶと手の内、つまり魂氣を受けに与えたことになり、そのまま取りの丹田に結ぶと魂氣は受けを貫いて自身の魄氣と結び残心。呼吸法では陽の陽から陰の陽で体側に結んで残心。

技の成り立ちによって受けは取りの足下に落ちる。

 形合氣とは言葉と思いと動作の三位一体となるもの。

魂氣三要素・魄氣三要素という氣のイメージを伴った動きが丹田において結ぶこと。

その動作の内から現れるものが形。

形を外からなぞると型。

受けの武術性が取りとともに理合を成す。

2013/2/5

 

 

5. 魂氣と魄氣

 魂氣は上肢の動作を魄氣は足腰の動作を裏付けるイメージ。

 呼吸とともに魂氣三要素と魄氣三要素の織りなす動静の変転こそが合気道の姿である。

 魂氣は陰陽・巡り・結び、魄氣は陰陽・入り身・転換回転。これらが単独呼吸法、単独基本動作を現し、これこそが合気道の基本である。それが相対基本動作に進展すると残心とともに技を産み出す。

 丹田から吸気と共に腋が開いて上肢が伸展することを広義の陽、手掌が天を向くと狭義の陽、呼気と共に腋が閉じて上肢が体軸を含む丹田に戻ることを広義の陰、手背が天を向くと狭義の陰とする。広義の陽で狭義の陰なら陽の陰と表現する。

 魄氣の陽とは前方に足を伸展して踏み込み下腿が直立し後方の足が重心を残したまま伸展し足底はしっかり踏み続ける状態。舟漕ぎ運動の吸気ホーに相当する。正面打では剣を吸気と共に打ち振った時の足腰であるから送り足の直前の一瞬である。

 魄氣の陰とは、舟漕ぎ運動で呼気と共に両手で魂氣を陰の陰にて丹田に巡った時の足腰で前方の足は伸展し足先を地に置くのみで重心は後ろの足に懸かり膝を曲げて腰を下げる。剣を振りかぶった時や杖の巡りの姿勢に一致する。

 魂氣と魄氣を統合するものは魂氣三要素のうちの結びである。入り身によって互いの腰や上体が着くことを魄氣の結びと表現することもあるが、いずれにしてもそこに魂氣が結ばなければ残心(技の成立)はあり得ないわけで、“魂の氣で、自己の身体を自在に使わなければならない”という開祖のお言葉は、観念よりはこの動作そのものを示しておられるのであろう。

2012/11/2

 

6. 単独基本動作の一つ入り身運動の追究

陰の陰で入り身運動

 自然本体から左自然体とするには魂氣を左手で陰の陰にて丹田へ結び左足先を剣線に沿わせるように置き換え、右手を陰の陽で腰の後ろに結ぶと同時に右足先は剣線を外して左足踵の後ろに置き換える。

次に腰の魂氣を前方に廻して陰の陽から陰の陰に巡り、丹田の陰の陰は腰の後ろに陰の陽に巡ると同時に足腰を置き換えるて右半身。

横面打ち入り身運動左右連続

 自然本体から左手を手刀で額の前に振りかぶり同時に左足先を剣線に沿わせて半歩踏み出して置き替え、左手を陰の陽で丹田に降ろす。このとき右手を陰の陽で腰の後ろに結ぶと同時に右足先は剣線を外して左足踵の後ろに送り足で左半身。

次に剣線を跨いで右足を一歩進めて剣線に沿わせて置き換え、右手は腰の陰の陽から手刀で額に結び左足は剣線を外して右足踵の後ろに送り足、このとき丹田の陰の陽の左手を左足と同時に後ろへ廻して腰に結ぶと右半身。

突き入り身運動

 振込突きで入り身運動

足腰の動作は横面打ちに準じて、拳は陰で軽く握り母指を伸展して示指の第II関節の屈曲部に置く。

下段受け流し入り身運動

 自然本体から降氣の形で左手を肩口に寄せ左足先は剣線を跨いで左半身にて剣線を外し同時に回外、右手は陰の陽で腰の後ろに巡り、左足を半歩踏み出し、左上肢を伸展して母指先のみ突いて丹田に陰の陽で巡るか、小指から陽の陰に巡って丹田に結び送り足で残心。剣線の右側で左半身。次に、左足先から剣線を跨ぎ右足先を一歩前に置き換えながらやはり剣線を跨ぎ右手で降氣の形、左手は陰の陽で腰の後ろに廻す。右手を回外して右足を半歩踏み出し入り身運動反復剣線の左側で右半身。

 相対動作へ 片手取り入り身転換

 魂氣を与えようとしてから丹田に結ぶ時同側の足を半歩踏み込み置き換える。

右半身片手取り入り身転換では右手で魂氣を与えようとしてから丹田に陰の陽で結ぶ時、受けは左手で取りの手首を取りその魂氣とともに取りの丹田に結ぶこととなる。取りは同側の右足先を受けの真中の方に向けて逆半身で外に半歩踏み込み(魄氣の陽)転換の軸足とする。右腰を受けの側面に接するように転回すると、右足は踏みつけたまま45度捻り左足は伸展しその足先は今や前方を指し、踵は軸足に向かって適度に引き戻される。このとき腰の後ろに結んでいた左手の魂氣は対側の陰の陽の結びに合わせて陽の陽で今や前方に差し出し目付けはその手掌に合わせる。魄氣の陰である。

 相対動作へ 片手取り体の変更 

 右半身片手取り入り身転換で左半身陰の魄氣とし、前方の足先を止めず一歩後ろに置き換え軸足として同時に左手を陰お様で腰の後ろに回す。今や前方の右足を45度踏み替えて右手を丹田から陽の陽で伸展すると、取りの上体は右半身となり受けは手首を把持したまま取りの右手に沿って右足を前方へ一歩踏み出してから取りの手を離して向き直り右半身となって対峙する。体の変更である。次に取りは左半身で左手を与えようとして連続動作。

ピットフォール

 入り身運動であるから右手が丹田に巡り結び、右足が半歩受けの外側に進んで入り身が成立する。右手を差し出したまま、あるいは取らせて脇を開いたまま一瞬固定して、その上で右足先を右手と同じように半歩受けの側面に踏み込もうとすれば、魂氣で支えて足が入れない。入れたとしてもその時すでに取りの手首は受けによって強固に把持され、たちまち固めか対側の手で即座に攻撃を受ける。

2015/7/23 

 

8. “守”と“破”のはざまに

 本来伝統技芸の修業過程を現す“守破離”には、その普遍的認知という点において、競技武道に比べてむしろ見えにくいものがあるのではないだろうか。

 合氣道の修練についてその“守”と“破”の間に着目してみる。開祖や先達が示されたものは奥義ではあるが初心者にとってみれば形をまとったものである。形を観て自ら動作を試みる際はそれをなぞることで十分であろうが、単独動作と相対動作を習得するうちには形を動作しきれない段階がすぐにやってくる。このとき“守”という修養については良く吟味しなければならない。納得のいく指導はここにこそ必要である。

 師の教えに従い尚動作しきれない過程では、形を際立たせ真摯に追究し続けるはずの“守”は薄弱なものとなる。たまらず形を少しずつ変えてみながら動作をなし得るように工夫することは、真摯な修練と言えるだろうか。

 核心に触れない表層の変化は“守”を突き詰めたものではなかろう。“破”とはそのような単なる形の変形ではないはずだ。徹底して形を突き詰めればやがてそのものに分け入ることとなる。それこそが“破”に至る必須の契機である。

 “守”と“破”の間には形を産んだ基本動作の要訣が潜在している。“破”とは形を変えることよりもむしろ内に潜む核心の動作に分け入り、体得して後に動作する段階を示している。しかる後には動作が形を伴うこととなり、形の外観の差異を論じる意味は全く無い。

 一方、“守”の段階で形のひたむきな修練を怠れば、際限なき表層の移り変わりによって合氣道とは異なった武道へと漂流することになる。また、形をなぞるだけでは達成感の無いまま飽きることにさほど時間を要しないであろう。              

2013/1/5

11. 合氣道の核心

 

『基本動作なきは合氣道に非ず』

 

 30年近く“基本なきは合氣道に非ず”と説明して来た。

今後理解し易い表現として冒頭のごとく改めた。

 

 動作無き観念は基本ではない、熱るだけで人が動くことは無い。

 

 観念無き動作は基本ではない、力むだけで人が動くことは無い。

2012/11/21

 

 

13. 魂氣の陰(広義)の中にも陰陽の巡り……母指と他指の役割

 広義の陰とは呼気と共に手が側頸や丹田あるいは額に還っている状態である。肘については側頸では強く屈曲し、額ではほぼ直角に開き、丹田では伸展している。脇では丹田へ結ぶ場合が閉じており、他は開いている。

 手について着目する。額では陰の陰、側頸では昇氣の時が陰の陽、降氣では陰の陰となる。丹田では外巡りのとき陰の陰、昇氣や内巡りでは陰の陽である。いずれも単独呼吸法における自然の動きを言葉で表現して規定したものである。細部にわたって曖昧である筈の無い動きを形の連鎖として認識するものである。

 広義の陰では肘関節の内外への回旋が狭義の陰陽をもたらすものの、手首から遠位はいかなる場合も一定した形で現される。合氣道に特有の手掌と指の屈曲・弛緩による握りである。つまり、手の内に何か小さな球をころころと包み持つ握りであるから、自ずと示指から小指までを曲げて掌を閉じ、屈曲した示指の側面は伸展したままの母指で塞ぐ形となる。

 残心を除けば次の吸気で必ず広義の陽へと進める上肢であり、その際に母指が方向を指し示すと残りの指はそれに従って伸展して行く。あるいは狭義の陰陽を転じるにも伸展したままの母指を巡らすことで、残りの指と掌が内に球を包み持ったまま付き従う。

 今、広義の陰である手に注目すれば手首は屈曲し母指は陽、他指は陰で結んでいることとなり、いつでも母指から広義の陽が始まり、掌に球を載せて示すことが出来る。広義の陰に巡る際には小指から順次弛緩して握って行き、遂に進展したままの母指の下に球が包まれる。

 諸手取りから降氣の形、小手返しの取り方、四方投げの持ち方、一教の手首の持ち方、三教固めで手背の覆い方、入り身投げの側頸への結び、後ろ両手取りの結びなどことごとくで母指と他指の陰陽の対比に気付くことが出来る。単に掴むことと手首から遠位が陰の陽で手の内も結ぶこととの違いを知るべきである。

2012/12/12 

 

14. 開祖の示唆されるもの:“天の浮橋に立つ”こと

 立つということは正立すなわち自然体である。

全体を見渡して天から受ける魂氣と地から受ける魄氣が臍下丹田に結ぶ状態である。

 相対動作において、取りの魂氣の陰陽が固定して巡りがなく、受けの魂氣との間に結びを欠如することは、相対動作としての互いの結びが成立しないことである。受けにとっては魂氣と魄氣の結びが依然として成り立ち、互いに正立を成して受けが倒れる理由は存在しない。

 取りが受けに結ぶとは、受けの魂氣と魄氣の結びを断ち、その間に取りが受けの魂氣に結びつつその魂氣と取り自身の魄氣を結んで立つことである。従って受けの魄氣は自身の丹田に其の魂氣と結び得ない。相対動作での“天の浮き橋に立つ”とは取りが天地、魂氣と魄氣、の間に立つ、つまり受け自身の魂魄の氣結びを解きその中心に取りが在ることと解釈したい。

 相対動作とはことごとく受けの魂氣と魄氣の結びを一旦は解くことから始まる。自然体や入り身運動の残心で静の状態から動き始めるその瞬間のことである。従って再び魂氣と魄氣の結ぶまでが一つの動作であり、その時受け自身の魂氣と魄氣が結ばれず互いの魂氣が一つになり、さらにそれらが受けの魄氣を貫いて取りの魄氣に結ぶと、受けの正立そのものが取り自身の丹田の中にある。すなわち残心にある、つまり技が成立し受けはもはや正立たり得ない。

 たとえば、後ろ両手取りで取りが魂氣の巡りから左右の手を額と丹田に(天地に)結ぶと、受けの両手は自身の魄氣に結べず取りの額と丹田つまり取りの魄氣に結んでおり、倒れていなくても正立たり得ていない。取りをこのとき“天の浮橋に立つ”と表現して矛盾は無いと考える。

 (「フォトギャラリー」の画像 天地の結び 参照)

2013/1/30

 

15. 開祖の示唆されるもの:合氣と武“山彦の道”

 武とは対峙して意図するものでなく産まれるものである。

  単独呼吸法(坐技)・単独基本動作にあっては臍下丹田と側頸、額をそれぞれ氣結びの場所とする。それらを結ぶ線上は呼吸とともに魂氣の昇り降りする道筋である。手指の先が魂氣の出入りする部位であり、またその方向を示す役割も果たす。道筋を昇り降りするとは手指と手背が上体に接したまま上下し陰の氣で体内を通るイメージを持つこととする。

 丹田は腰の前、上体の底に位置し、今上肢を伸展し腋を閉めて魂氣を陰の陽とし、上体の真中に向かうとそこは臍下丹田である。このとき上肢全体が躯幹に密着し魂氣と魄氣は臍下丹田で結んでいるとイメージする。また、丹田と側頸と額を結ぶ線上に魂氣が集まれば結びが保たれている。上下させる際それぞれを昇氣、降氣とし、体内を魂氣が昇り降りするイメージを持つ。それにともない肘は屈曲・伸展を示し、丹田では腋が閉じ、側頸では直角に開き額では上肢を振りかぶる姿である。

 次に、掴みや正面打ち、突きなどの相対動作で受けの魂氣と結ぶということは、互いの手首の接点で受けの近位部に取り自身の魂氣が分け入った場合で、広義の陰から陽、陽から陰へと巡って入ることで成り立つ。上肢の動作には陰陽、巡り、結びの要素が発揮されて初めて魂氣のイメージが生きる。その取りの魂氣は更に自身の丹田に巡って結ぶことで受けとの間に魂氣と魄氣の結びが成される。つまり、その間に魂氣は受けの側頸や上肢にも結んでさらに取りの丹田に巡り、魄氣は入り身・転換によって受けの魄氣に取って代わるから受けは制御される。合氣はここに武を産むことと成る。

 受けの存在する相対動作も取りにとっては究極単独動作にすぎない。互いの魂魄の氣が結び再び巡った後自身に結んだとき、すでに単独動作の残心である。山彦の道とは、対象の中にあっても合氣を成すことの核心は自身一人にあるという意味で、自己確立を指しているのであろう。

2013/1/31

 

18. 入り身:漆膠の身とは

 片手取り入り身転換呼吸法を例とする。

自然本体から右手を陽、左手を陰とする入り身運動で一旦右自然体の陰の魄氣とする。右魂氣は陰の陽から陽の陽に進めようとして下段に差し出すも受けが取ろうとする時、陰の陽のまま丹田に巡ると同時に魄氣は右自然体の陽で前方の足をさらに半歩前方に置き換え、足先を中心に向けて入り身の瞬間に転換する。後方の軸足が今や前方となり足先が床に触れた状態で半歩引き寄せ陰の魄氣で左半身となる。魂氣は丹田から陰の陽の昇氣で右側頸に結び、母指先は耳の後方で背部方向を向いている

 入り身転換による躯幹の右背面と受けの左前胸部に接触面が出来、その何処かある部分に腕や肩による押す力が入れば軸足のみならず前方の足先までが固定し、接触面と同様に力が籠って行く。他の部分は反作用で離れて隙間が出来る。魄氣は地に固着して進まないからますます隙間は大きくなる。押す力を入れ直そうとますます力みが増す。両下肢は地に固着して上肢は既に伸びきって陽の陽となり、魂氣は与えてしまっている。受けとの接点だけであとは押さざるをえない。

 接触面に押す力でなく魂氣の結びが出来るということは、受けの魄氣への密着がさらに広くなって後方の足は完全に軸足となり、前方の足先の内側への踏み替えが可能となり前方の足を軸足にできるということになる。それで後方の足も踏み替えとともに魂氣を陽で耳の下から後方へ母指先の反りの方向に伸展するなら、魂氣は受けの丹田までその背部から結び、今や軸足は前方の右足に移り後方の左足は送り足で丹田の移動が完了する。魂氣は取りの右体側に接して取り自身の結びが成り立つ。左側の魂氣は始め入り身転換で陽の陽、踏み替え以後は腰に陰の陽で結んでいる

 以上の相対動作を振り返ると、漆膠のごとくとは、強く接着するというよりは、ぶつからず順次全面(片側の腰・背・肩・上肢伸側から撓側全体)に満遍なく接触がゆきわたることをイメージするものであることがわかる。特に魂氣を広義の陽で巡らす時は、目付けはともかく、魄氣が同方向の陽に向かい直ぐさま送り足で残心として受け自身の魂氣と魄氣が結び正立をなす事が肝要である。漆膠の身によってこのことが叶う。

 転換を伴わない入り身のみでも本来このように密着するが、転換だけの場合は唯剣線を外すのみであり、入り身つまり密着は次の段階である。外して詰めるであり、入り身転換は詰めて外すである。

2013/2/8

30. 残心とは

 残心とは魂氣が自身に巡り魄氣と共に丹田に結ぶことであり、天地に結んだ禊の状態に相当する。相対動作では手順に受けと結んでから取り自身に巡るから、残心と共に技が成立し、なおかつ次の動作、即ち新たな魂氣と魄氣の陽から陰への巡りが可能となる。

 時に残心の形としては魄氣も魂氣も陽で停止した状態を指している場合が見受けられる。巡りも結びも無く、地に氣を発しているだけで、たとえ受けが倒れていても合氣の技の成り立ちとは関わっていない。しかも魂氣を地に発したまま、地に臥せった受けへと目付が固定され、両足を地に突っ張った陽の魄氣で静止した瞬間は隙だらけである。

 自身の前後左右に対処することのできる姿は自然体以外には無い。合気道では初動に際しても完結においても右または左自然体をとり、それを半身という。全周に対処する場合は自然本体から右または左へと魂氣を陰陽へと発し、魄氣も陰で転換あるいは陽で入身を為す。

 技が完結した後は、地に結んだ受けを含めても、改めて全体を感じて対応できる姿勢こそ残心であり、左右自然体をおいて他にあり得ない。合気道の特徴は、技の成り立ちが同時に次の動作の始まりとなることであり、呼吸の繰り返しと魂氣の巡りに現れる。それは動作と静止の繋がりでもあり一体であるとも云える。

2013/8/11

魄氣の陽と陰

鳥船 陽の陰の魂氣と陽の魄氣 重心は前の足寄りに
鳥船 陽の陰の魂氣と陽の魄氣 重心は前の足寄りに
鳥船 陰の陰の魂氣と陰の魄氣 重心は後方の足腰
鳥船 陰の陰の魂氣と陰の魄氣 重心は後方の足腰

入身運動の残心 送り足で魄氣は陽でも陰でもない

陰の陽の魂氣と右半身の残心
陰の陽の魂氣と右半身の残心
陰の陽の魂氣と左半身の残心
陰の陽の魂氣と左半身の残心
陰の陽の魂氣と右半身の残心 体軸は丹田と両足に
陰の陽の魂氣と右半身の残心 体軸は丹田と両足に

四方投げの残心

四方投げの持ち方で受けの項に差し出し 魄氣は陽へ
四方投げの持ち方で受けの項に差し出し 魄氣は陽へ
陰の陽で魂氣を丹田に巡らし送り足で残心。受けは取りの左足後方へ螺旋で落ちて四方投げの成立
陰の陽で魂氣を丹田に巡らし送り足で残心。受けは取りの左足後方へ螺旋で落ちて四方投げの成立

31. 指導

 一定期間の指導が終わると、まず学んだことの客観的な評価がなされる。

従って、教え、学び、評価に一貫する理を既に普遍化しておくことが必要となる。

当然、理とは合氣でなければならない。

 ところで、言葉、観念、動作が一体となるところにこそ合氣が産まれる。どれ一つ欠けても合氣は成り立たず、合氣が無ければ、習得中の言葉、観念、動作それぞれが意味の無いものとなるばかりか、誤った理解が散らばることとなる。

 合氣道の愛好家が増えれば増えるほど、その地域が広がるほどにこの三位一体がぶれることを懸念すべきである。個人の習得段階においてそれは一時的に避けることの出来ない状態であるが、極力そこにぶれを増幅させない工夫こそ肝要である。

 初心者が呼吸法や基本動作を習得して行く段階ではあくまでその一体化に向かうべきであって、ぶれを修復するつもりで限られた要素のみを追究させれば、理は遠ざかるばかりだ。

2012/12/1


32. 巡りと結び

 吸気から呼気に変わり呼気から吸気を継ぐように、また、波が寄せては返すように行き帰りすることを巡りとする。これを氣に当てはめると、まず魂氣の観念とその言葉に加えて上肢の動作が規定される。吸気とともに手掌を開いて天に向けて腕を指先まで開き伸ばして行くことを魂氣の陽として、前者を狭義の陽、後者を広義の陽とする。呼気とともに手が還ってくることを広義の陰、手掌が地に向き、手背が上に向くと狭義の陰とし、陰陽が変わることを巡りという。

 魂氣の陰陽を広義と狭義に分けて定めると、巡りにも広義と狭義の理解が生まれる。広義の陰陽を先に、狭義の陰陽をその後に表現すると、たとえば陽の陽から陽の陰に巡るとは、手掌を上にして上肢を指し伸ばしたあと手掌だけを返すことであり、そのまま母指先の反りの方向に上肢を丹田に戻すと陰の陰に巡るという。また、丹田に密着する場合魂氣と魄氣が結んだといい、これを合氣と理解する。言葉と、観念と、動作の三位一体が合氣の本態である。

  “陰陽の巡り無くして結び無し”

 結びとは繋がりである。

魂氣の結びとは左右の上肢においてあり、魂氣と魄氣のあいだにてもある。

 相対動作ではそれぞれに魂氣と魄氣の結びがあるうえに、互いの魂氣と魄氣それぞれに成り立つ。特に魂氣のそれは互いの接点から取りが拳一つ分以上受けの中に入ることで、それに引き続く転換・入り身は魄氣も入って結ぶこととなる。

 また、取りの魂氣と受けの魄氣の間にもあり、相対基本動作から技につながる観念であり動作である。固めでは受けと地の間で結ぶ。残心での結びは取り自身の魂氣が巡って自身の魄氣に結ぶことである。

2012/12/5

33. 稽古

 技を稽古するのではない

合氣道そのもの、つまり基本を稽古する

基本動作を稽古する

互いに相対動作に進めて結ぶ

そして地に結ぶか残心を取る

 つまり、単独動作に還る

2012/12/28

 

34. 技の姿

理があって 動くところに 形は作られる

理がなければ ただ形を作ろうとしても 動きが定まらない

2012/12/28

35. 合同稽古に学ぶこと

  多数のかたと稽古できる機会を得て必ず教えられることがある。たとえ微妙に表現の形が異なろうと、幾多の変遷の後それぞれの人に根付こうとしている技法は、その大筋において開祖に由来するものとして間違いなかろう。背骨を共有する者である限り、四肢の千変万化は如何様にも受け答えする用意がなくては、各先達に申し訳が立たない。“一を知りて二を知らず”、“蜀犬日に吠ゆ”、を戒めの成句として心においてからは、多くの方と稽古をしていただけることにむしろ合氣道の価値の一つを見出したと思っている。

 合氣道にたいする科学的取り組みと開祖への報恩の念は何ら矛盾するものでなく、一人一人の探求が自己啓発を産み合氣道を一層よく実践するきっかけとなるであろうし、開祖の中心へと向かうことに繋がるのである。

2013/1/3

 

36. 語句・観念・動作の三位一体 

 合氣道を科学するとは言葉と観念に形や動作が伴うことから始まる。動作が言葉と観念に対応して形が定まる過程とも言い換えることが出来る。従って観念の欠けた語句はもちろん、動作に現せない観念は合氣道の修練においては意味を持ち得ない。それが普遍化を必要としないのであればそれで良いが、体育と徳育に加え知育を満たす上で科学的普遍性こそは無視するわけにいかない。意義ある動作を積み重ねてこそ進むべき道は現れる。

 語句とイメージと動作が三位一体となるその一点を求めることは、単に合氣の修練に留まらず、開祖が一人一人の生き甲斐に示唆を与えてくださったのであろう。

2013/1/15

 

37. 演武に見る合気道の成り立ち

 合氣道の技の成否は当然合氣の成り立ちに懸かっている。

 合氣とは魂氣と魄氣の結びがその本質であるから、相対動作では、取りが受けの発する魂氣と結んで受け自身の魂氣と魄氣の結びを解く事が第一段階である。そして次に取りと受けの魂氣は取りの魄氣に結び、さらに巡って受けの魄氣にも結ぶと、受けの底を貫いて結局取りの丹田に結ぶ。今や取りは単独で入り身運動の終末動作すなわち残心をとっている。受けは自身の魂氣と魄氣が再び結ぶ事無く、中心に取りの魂氣を受けて正立が叶わず、地との間に氣結びがなされ臥せって固めか投げで受け身を取っている。

 そもそも始めに受けが正立の結びを一瞬解きながらも、陽の魂氣を取りに発するという初動は武術の普遍的動作であり、その上魂氣は両腕の陰陽の巡りへと連なるものであり、常時受け自身の魄氣との結びを維持し、少なくとも正立を継続する事が大前提である。そこに取りとの間でそれぞれの結びと巡り、入り身と転換・回転が成り立ち、合氣の成り立ちが武を産むのである。

 受けの動作にそれら普遍的武術性を欠く場合は合氣が成り立ち得ないばかりか、本来技が産み出される事は無く、衝突と静止に至るかあるいは技の形を作ることに向かうしかない。受けのみならず取りが天地の結びを忘れ残心に帰結しない動作を誇張すればますます合氣とはかけ離れた姿に偏るが、受けの武術性もそれに伴い一層異質の動作へと転じざるを得ず、相対動作が過剰の熱気に邁進しかねない。また、同じ経緯でも正反対の異様に冷めた動作として目に映る場合がある。いずれにしても、相対動作に氣のイメージと氣結びという核心が抜け落ち、合氣の剣と杖がかけ声だけとなれば魄氣の要素も失われ、合氣の技が産まれることは期待できない。

 合氣道の形を真似ることはもとより開祖が我々に望むものではないはずだ。老若男女にも楽しめる新しい武道としての歴史と世界95カ国への発展は、合氣道の真価の賜物であって、我らが此れを学び活用する同好の士であることに違いは無い。言葉と心と動作の三位一体を真摯に研鑽し先達への報恩の念を共通のものとすべきであろう。

2013/2/2

38. 技の局面としての基本動作の意義

 入り身運動は剣線に沿って前に足を半歩進め、他側の足は剣線を跨いで前方の足の踵まで送る。それにともなって同側の膝、腰、肩は前方に進む。単独動作といえども剣・杖・徒手の相対動作などを考慮して外巡り、昇氣、横面打ちで陰の陽、下段受け流しの降氣の形など魂氣を巡らせて、秋候の身を体現する(単独動作では漆膠の身を表現する事は出来ない)。送り足の瞬間重心は両足に在り、直ぐさま陰の魄氣で後ろを軸足とするか陽の魄氣で前に重心を移すかいずれにしても動きの中の終末として一瞬の残心を示す姿勢である。

 転換とは半身を左右入れ替えることで、始めに陰の魄氣で半身となる。後方を軸足とし、他側の足先を前方においている。それを半歩外側に置き換えて軸とし、後方の足先を前方の足先の在った場所に置き換えると元の半身は逆転し、剣線を外して目付けと足先は剣線に対して直角とする。魄氣は同じく陰である。

 転換して入り身とは転換後の前の足を軸として後ろの足を剣線に沿って半歩進めて入り身・送り足と入り身運動を行うことである。

 入り身して転換とは入り身運動で送り足の直後にそれを軸足として前方の足をその場で内方へ直角に向けて踏み替え軸足とし、目付けと上体を後方へ転換しつつ後方の足を直角に回転して足先が後方を向くように置き換える。

 入り身転換とは前方に進めた足先を剣線の外側で内方へ直角に着地して軸足とし、後方に向き直って後方の足先を後方に向く様置き換えて陰の魄氣となる。従って目付け、丹田、肩を結ぶ線は転換して今や正面を向いている。魂氣は一方を丹田に結んでいる。相対動作ではそれを取った受けの魂氣が取りの丹田に結び、取りの肩の後ろに一瞬静止している。入り身して転換と同じ終末であるが、異なるところは送り足の直後に前の足から踏み替える動作が入り身転換には無く、入り身に際して前の足を転換の軸足の角度で着地すると同時に腰と上体と目付けを反転する。目付けが遅れてはいけない。一眼二足で丁度良い。

 体の変更とは入り身転換から魄氣は前方の足先を後方に置き換え半身を替えて尚かつ陽の魄氣とする。相対動作では取りの魂氣は陽で丹田から前方に差し出され、同側の肩が半身で前方に開き、手首を取った受けの魂氣とともに受けを放つ動作である。それまで丹田の陰の魂氣は緩めず結んだまま。まして転換や踏み替えの間、魂氣が一度も体軸に結ばず終始陽のまま腕で受けを引き動かそうとする動作には魂氣三要素が不在である。秋猴の身無くして膝膠の身無しである。

 体の回転とは、一つは、体の変更で陽の魄氣とせず後方に置き換えた足を一瞬軸足として今や前方の足先から踏み替えて再度転換することで一回転して陰の魄氣のまま。丹田の陰の魂氣も緩めず結んだまま。

 体の回転の別法は、前方回転も後方回転も先ず外方または内方へ足先を直角にして置き換える事で軸足にする。他側の足を180度以上廻してから軸足とした直後に元の軸足を180度以上外方または内方へ更に廻して着地すると一回転し、前方回転では半身は変わらず、後方回転では元と逆になる。

 魄氣の陽とは

魂氣は両手または片手で受けて自身に結び、また発して受けに与え巡って受けに結び、再び自身にも結んで残心となる。ところで、秋猴の身が入り身、転換など陰の魄氣における魂氣の様態である。すなわち広義の陰の魂氣が魄氣の陰に伴うわけである。そして魄氣の陽には魂氣の陽が伴う。魄氣の陽とは足腰の動作における一瞬の踏み込みつまり前方への重心移動であり、陰陽いずれでもない残心や、転換という陰の魄氣に比べて重心は両足の間にあり自然本体同様動的要素を含んだ一瞬の静止にすぎない。そうであるからこその安定であり、静止そのものの安定感を伴っているわけではない。

 陽の魄氣は一般に残心や魄氣の陰への移行が速やかに行われる前段階の一瞬である。受けを固めに至らしめることには矛盾があるだろう。

 単独基本動作、または相対基本動作は技の成り立つまでに連なるいくつかの要素となる。一断面であるから必ずしも残心という技の終末姿勢ではない。つまり、相対基本動作が必ずしも受けを投げたり固めたりするべきものではない。しかし、一動作は静止から一つの動作を経て静止するから、動作の終わりの静止は魂氣でいえば陰または陽で一呼吸したところであり、少なくとも一側の魂氣は陰で丹田を含む中心軸に結んでいる。それは受けの魄氣との結びを伴う場合も想定している他に、昇氣や降氣へ巡り次の陽の魂氣を発する動的局面であったりする。

 いずれにしても基本動作がことごとく受けを固める技そのものであるかのような見方については再考されねばならない。確かに基本動作の内いくつかは技の名称を冠した結びではある。これについては相対基本動作の終局であり、技という形に現される寸前の合氣そのものである。しかし他の基本動作には受けとの間で魂氣や魄氣それぞれの結びのみで、取りの魂氣が受けの魄氣に結ぶ局面とは異なるものが少なくない。

 従って基本動作によっては動きを前提とした局面も在れば、静止つまり技の完遂を目前とした局面も在り、それらを混同する事は避けなければならない。

2013/2/13


39. 変わり目と静止

 魄氣の入り身・転換・回転はその前後の陰陽でしか視覚上容易に認識できない。つまり動作の途中での静止状態は魄氣の陰陽と魂氣の結んだ直後でしかない。いや、魄氣の陽は一瞬でしか無く、結局残心とそれに続く魄氣の陰で短い停止があるに過ぎない。袴を身につけた上での動作になるとなおさら魄氣を形として伺いがたい。

 一連の相対動作をいくつかの段階に分けた後に積み重ねて再構築しながら習熟して行く稽古法は、その点を考慮した場合に限り大変効果的である。その上で緩急は初めて自由に調整できる。逆にその本質が不在では、単に大まかな動きの順番を記憶する稽古に留まるであろう。

 魄氣の陰陽と魂氣の結びなくして静止なし、である。動静一如とは静止も動作の一部であるということ。また、動作の中には常に静止の姿が連なっているということでもある。単なる静止はなく、静止の裏付がない動作もない。魄氣の陽は陰に連なるから残心という静止がある。同様に魂氣の陰は陽に発せられるから静止がある。魂氣の結びは陰陽への巡りで産まれその直後に静止があり、次の巡りの直前である。

 一瞬頭で考える間の静止はありえない。動作の巡りは考える選択ではない。感じる選択である。呼気相と吸気相の変わり目を感じる選択であり、瞬間でしかない自由の感得そのものである。

2013/3/4

 

40. 入り身転換のピットフォール

 片手取り入り身転換・体の変更において取らせた手首の動作を肩と上腕と肘の力を交えて行おうとすれば、上肢から背中と腰にかけて丸くなり腹がくぼみ特有の姿勢となる。氣を込めるよう念じると目付けは限りなく手首に集中する。与えたはずの上肢は陰陽が曖昧となり入り身が顧みられず、まして受けと取りの間での魂氣や魄氣の結びと無縁の動作へと気持ちが動いて行き、結局押し、引き、空かしを専らとする格好になる。正に、基本無ければ合氣に非ず、であり、入り身と魄氣の結びが無いから互いの距離は常に開き、用語の意味とそれを裏打ちするイメージとそれを現す動作の三位一体が存在しないので、何をしようとするのか整理が付かない。ただ、指導者が示す一連の技としての動作を自身が体のあちこちを真似て動かしてみるに過ぎない。

 与えて取らせた上肢を終始緊張させて陽のまま足腰を運ぶことこそ魂氣と魄氣の結びを欠如していることに成る。入り身は魄氣の陽であるが転換・回転は陰であり、その時軸足側の魂氣は共に陰である。つまり少なくとも一方の上肢は陰の魂氣でありそのために他側の魂氣が陽となるのである。単独基本動作入り身運動と入り身転換こそ基本であり魂氣は巡って魄氣に結ぶことが合氣である。その上で片手取り入り身・転換/正面打ち入り身・転換/突き入り身・転換/後ろ取りの氣結び/胸取り云々と相対基本動作が成り立つのである。

2013/3/17

 

 

41. 美の本質

 最大の機能が最善の形を伴う。

 最善の形のみが美を現す。

 美的感覚とは最善と確信する感覚である。

 従って美を意識しない感覚は合氣の動作に至らない。

 動作の中では、自身の美を視覚に捉えることは無い、

 体に感じるしかない。

 美は師の姿にのみある。

 視覚の奥に映る美と、自らの体で感じとる形を繋ぐものこそ

 合氣の成り立ちであり、

   心と体の魂が生命を産む道筋そのものである。

2013/3/23

 

 

42. 『五輪書』地之巻の「第四風の巻」の説明より

 「一 此兵法の書五巻に仕立る事」に「第四風の巻」の説明として、世の中の兵法の各流派のことを記している。

「他の兵法剣術ばかりと世に思ふ事尤也。我兵法の利わざにおいても格別の義也。世間の兵法をしらしめんために風の巻として他流の事を書顕す也。」以下よりつづく。

「他の事をよく知ずしては自のわきまへ成がたし。」

「日々に其道を勤ると云とも心のそむけば其身はよき道とおもふとも直なる所より見れば実の道にはあらず。実の道を極めざれば少心のゆがみに付て後には大きにゆがむもの也。吟味すべし。」

 【現代語訳】「他の流派では、兵法といえば剣術のことだけだと思い、世間にも思われているが、もっともなことである。しかし、わが兵法の利わざにおいては、考え方がまったく異なっている。で、世間一般の兵法を知らせるために、風の巻として、他流のことを記すものである。」「他をよく知らなければ、自己を知ることはできない。」「毎日、その道に励んでも、内容が外れていれば、自身では正しいと思っても、客観的には、真実の道ではない。真実の道をきわめないと、初めの少しのゆがみが、あとには大きくゆがむものであるから心すべきである。」(五輪書 大河内昭爾 p203)

 

 *ここでは武蔵の極めた兵法と他の流派との「利わざ」(理論と業)における考え方の大きな違いを良く知る必要があると説いている。『孫子』謀攻篇に、「彼を知らずして己を知らば一たび勝ち一たび負く、彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず敗る」と。

 合氣道は勝ち負けではなく、合氣を成す自己研鑽であるからこそ、このことを肝に銘ずるべきである。会員諸氏はピットフォールのシリーズを参考にしていただきたい。

2013/4/3

43. 『五輪書』地之巻の「第五空の巻」の説明より

「一 此兵法の書五巻に仕立る事」

「第五空の巻。此巻空と書顕す事空と云出すよりしては何をか奥と云何をか口といはん。道理を得ては道理をはなれ兵法の道におのれと自由ありておのれと奇特を得時にあいてはひやうしを知りおのづから打おのづからあたる是みな空の道也。おのれと実の道に入事を空の巻にして書とどむるもの也。」

 

【現代語訳】この兵法の書を五巻に分たこと

第五・空の巻。この巻を空と書き表すのは、空というからには、兵法には奥も入口もない。道理を体得しても、それにこだわらないことである。兵法の道におのずから自由自在となり、自然と非常な力量を得る。事に臨んではその拍子を知り、おのずから敵を打ち、おのずから相対する。これはみな空の道である。この自然と真実の境地に入ることを、空の巻として書きとどむるものである。

(五輪書 大河内昭爾 )

      2013/4/12

 

『五輪書』空之巻

空と云は物毎のなき所しれざる事を空と見たつる也。 中略

色々まよひありてせんかたなき所を空と云なれども是実の空にはあらざる也。 中略

まよひの雲の晴たる所こそ実の空としるべき也。

実の道をしらざる間は  中略

おのれおのれは慥なる道とおもひよき事とおもへども心の直道よりして世の大かねにあわせて見る時は其身其身の心のひいき其目其目のひずみによって実の道にはそむく物也。其心をしつて直なる所を本とし実の心を道として兵法を広くおこなひただしく明らかに大きなる所をおもひとつて空を道とし道を空と見る所也。

 

【現代語訳】空という意味は、物ごとが何もないこと、知ることができないことを「空」と見立てるのである。 中略

いろいろと迷いがあって、それを解決できないのを空といっているが、これは真の意味の空ではないのである。 中略

迷いの雲の晴れた状態こそ、真の空であると知るべきである。

真の道を知らないうちは、 中略 

自分だけは正しいと思い込み、よいことだと考えているが、心の真実の道をもって、世間の基準に合わせて見ると、その人、その人の心のひいきや見方のゆがみによって、正しい道に背いているものである。そのことをよくわきまえて、まっすぐな精神を根本とし、真実の心を道として、兵法を広く行い、正しく明らかに、大局を判断できるようにして、空を道とし、道を空と見るべきである。(五輪書 大河内昭爾 )

 

 *五輪書の終章である。“迷わずしかし自分を過信せず、広く深く道理を求めて、窮めたうえでは体得したものにこだわらず、ひとりでに思いのまま動けば合氣である。究極の技芸とは心に何も無い姿である。” このように読み解きたい。

 また、道理を求めることは善によるものであると結ばれている。

 2013/4/13

 

44. 拮抗力と呼吸力 

 拮抗してなおも動かそうとする筋肉の働きと、結んで真中に入って与える圧力

1)力とは

2)合氣道のなかにある力

3)呼吸力

4)拮抗力に力ずく

5)力を抜くことも力ずくのうち

6)初歩の段階でも力に対しては氣結び

 

1)力とは

 「力」という語の意味は、①自らや他のものを動かす筋肉の働き、②気力、根気、精神力など、決意し、実行し、持続させる心の積極的な働き、③その他、能力、労力、努力、たよりとするもの、効きめ、権力、暴力などと辞書にはある。「拮抗した力」とは、相対抗して互いに屈しないほぼ等しい力ということになる。

また、「力ずく」とは力を用いて強引に事を運ぶこと、とされている。

「呼吸力」については以下の3)で詳述する。

 

2)合氣道のなかにある力

 合氣道の成り立ちとしては、各動作・姿勢とそれに相応する筋肉の働き、そして心の働き、さらにこれらを表すうえでの語句の意味の三つが挙げられる。語句の意味とは、たとえば左の手首や右の足先などの言葉に相当する具体的な場所や、天地を深さの広い上下として表現することなどである。また、心のたましいを魂とよんで天に昇るものとし、天地の間に充満している空気は天から受ける魂氣そのものである、など心の働きに強く関わった言葉が含まれる。つまり、動作と思いと言葉の三位一体が合氣道の本質であり、上肢の動作は魂氣三要素からなる。また、肉体のたましいが地に下って魄となり、そこから受ける魄氣の三要素が足腰の動作を産む。それらが結ぶ真中は臍下丹田である。

 

3)呼吸力

 今、両手を指先まで伸展しながら息を吸うと、上に向けて広げた腕に天から魂氣がいっぱいに降りて、息を吐きながら腕を弛緩して体側に畳んでいくと魂氣は体に引き寄せられ、更に母指先から吐くように丹田を目指して拳を降ろしていくと、丹田に魂氣が納まっていく。呼吸と共にこれを繰り返すことで腹の中に気力がみなぎっていく事を自覚する。つぎに吸気で手を広げるとき、腕に魂氣を受けるだけではなく母指先からは絶大な魂氣を発して上肢が延び、足腰の動作(陰陽、入り身、転換・回転)と共に体全体が禊と基本動作と心の働きを発揮することができる。

 合氣道を習得する上で、上肢の筋肉の働き(緊張と弛緩)とそれに伴う動作(関節の屈曲と伸展)がまず必要であり、また言葉の意味は不可欠である。そして心に思う事柄は心の力に連なりこれも重要である。そこで、合氣道においても呼吸力という概念が在る。呼吸に伴う力であるが、心と筋肉の両方の働きを含む。そして様々な語句がそれを曖昧とせず、多くの動作を裏打ちしている。上肢については魂氣の三要素、陰陽・巡り・結びである。

 

4)拮抗力に力ずく

 ところで合氣道の業とは単に筋力を互いに競って得られるものではない。力を有効に及ぼすための術技こそが必要であり、それこそが特有の動作である。様ざまな動作を導くものは筋肉の働きに加わる所の心に思うことであり、呼吸と共にこの思う力と筋肉の力が最善の動作を生み出していく。そこでは、呼吸にともない魂氣三要素を行い、受けと一体となる氣結びの技術、つまり、心の力と、実際の上肢の筋力が相まって取り自身が動き、氣結びでつながった受けも動かすこととなる。氣結びを欠けば、筋力だけで効果の乏しい上肢の動かし方に専念しなければならず、これを力ずくという。筋力を抜こうにも氣結びがなければ互いが接点で拮抗しており、抜き様がなく、つまり、抜けば直ぐさま取りは制圧されるか、正立が出来ずに倒れる。氣結びすれば受けから取りに直接伝わる力はたちまち空を切り接点はただ触れた状態に留まり、受けの全筋力は自身の体重をその方向に導いて勢い良く突き進むであろう。すなわち受けは地に結ぶこととなる。

 

5)力を抜くことも力ずくのうち

 受けが取りに対して力を及ぼす際、取りが氣結びの修練をする限り、受けに対してその力の大きさや速さを特別規定する必要はない。一方、取りが氣結びをする上で、息を止めたままいつまでもその動作がうまく出来ない内は、受けが(この場合指導する上位者)その取りに対して力を弱めることで氣結びに入る動作を取りに促しても、先に述べた通りいよいよ実行できない。受けを動かす事が出来たとしても氣結びではなく、相対的消極的な力ずくであると言える。なぜなら、取りにおいて氣結びが不成功なら既に受けから力が及んでおり、それを受けている訳であるからその大小に関わらず、陰陽の巡りがすでに行えない。接触して拮抗し合って停止した時点で受けが力を抜いたところで、力の方向を取りから受けの方へ向けさせるにすぎない。このような対応を続けていくと、受けは取りに対して常時筋力を使わずに触れるだけの動作となり、取りにおいては氣結びの必要性が曖昧となって、いつまでも打突や掴みの呼吸法が力ずくでないような、それでいて実は力ずく的であるという何とも奇妙な稽古と化すのである。

 

6)初歩の段階でも力に対しては氣結び

 呼吸法で氣結びが為された瞬間、取りにとっては受けの筋力やその後ろ盾である体重までがその場で接点を境にしてすり抜けていく訳であるから、基本的に魂氣には力を受けていないことになる。そして既に取りの魂氣からも受けの接点には力が伝わっていない。それは受けの中心に及んでいる。つまり、呼吸力は受けを動かす働きとして取りの上肢に関わるのであるが、直接受けの魂氣に逆らって動かそうとする筋力の働きではない。魂氣三要素を相対動作で呼吸と共に行うことこそ呼吸力である。結んだ瞬間、それまで拮抗する力であった敵は存在しないといえる。単独で氣を巡らし、自己に結んで、残心あるのみだ。

2013/5/22

45. 『五輪書』地之巻より、合気道を学ぶ心得を考える

 

『五輪書』地之巻に、兵法を学ぶ心得として九項目が示されている。

 

第一によこしまになき事をおもふ所  

第二に道の鍛錬する所     

第三に諸芸にさはる所   

第四に諸職の道を知事    

第五に物毎の損徳をわきまゆる事  

第六に諸事目利を仕覚る事   

第七に目に見えぬ所をさとつてしる事  

第八にわづかなる事にも気を付る事  

第九に役にたたぬ事をせざる事  

中略 …… 此道に限て直なる所を広く見たてざれば兵法の達者とは成がたし。

 

【現代語訳:大河内昭爾訳を基本として現代武道に合わせた解釈とする】

第一に、邪心を持たぬこと

第二に、二天一流の道を着実で真剣に修行すること

第三に、広く諸芸にふれること

第四に、さまざまな職能の道を知ること

第五に、ものごとの利害損得をわきまえること

第六に、あらゆることについて、ものごとの真実を見分ける力を養うこと

第七に、目に見えぬ本質をさとること

第八に、わずかなことにも、注意をおこたらぬこと

第九に、役に立たぬことをしないこと

中略 …… この道にかぎって、広い視野に立って真実を見きわめなければ、兵法の達人となることはできない。  

 

「二天一流の道」、「兵法」を合気道と置き換えて読むこと。

「達人」「達者」とは熟達している人、ここでは長年稽古を続けて有段者となっている人。

「鍛錬」は着実で真剣にと解釈した。

「広く諸芸に触れること」は、すでに開祖において修業され、その後合氣道を興されたものであるから、現在合気道を学ぶ者が各種武道を広く行う事は現実的ではなく、開祖の教えに合致するものか見方の分かれる所である。現代の愛好家が広く関心と余裕を持ち得るかどうか、第九の心得に照らして各人の目的とする所により判断されるべきであろう。

第四以降では、広く見識を身につける事が必要との御指摘である。

2013/6/11

46. 合氣道の稽古とは

 合氣道の稽古とは、合氣を体得する為の心身の活動であり、慣れ不慣れの次元とは異なる。その都度互いに指導や気付きを与え合う事もあるが、指導者が先導し全体が案内されるかたちでその日の稽古は進められる。

 合氣道とは、言葉の意味(理)、思い(観念)、動作の三位一体である。開祖が禊と表現されるところである。

 理が膨大であるとか、観念が深淵であるとか、動作の上手下手とかではなく、生きる限り自ずと稽古に親しむものである。それは呼吸する心を取り戻し、心身のたましいに心を向け、それぞれに動きを現すことで命を改めて呼び起こす道であり、稽古はこれをたしなむことに他ならない。

2013/6/17

47. 軸足無き転換

 軸足を決めたらそこに重心を全て載せる。それによって他側の足腰を最大限に置き換える事が出来る。その場の小さな置き換えも、四方八方への置き換えも、大きな踏み込みでも、軸の後ろに回り込む回転でも、この軸足の設定がなければ身動きできない。そして、軸足そのものが同側の腰を最大180度転換させ得る。いわゆる転換は90度、入り身転換は180度。連続して左右の足が軸足を交替すれば一回転する事ができる。いわゆる前/後方回転である。

 軸足を決めたとき魂氣は陰と表現し、他側の足を伸展して踏み込めば陽であるが、膝を屈曲する置き換えは陰のままである。たとえば前方回転では一旦足を飛ばしてもすぐ膝を屈曲して軸足のそばに着地するから、魄氣は陰のままである。

 陰の魄氣から軸足を交替させるとき、対側の足先を踏み込んで軸足とすれば同時に元の軸足の向きを自由に置き換える事が可能となる。これを踏み交えと表現すれば、単独基本動作の入り身転換の反復はその場で軸足の踏み替えを連続的に交替して行う動作である。

 相対基本動作の片手取り入り身転換は、魂氣を与えて受けが触れるまで陰の魄氣でいるが、丹田に巡ると同時に前方の足を受けの真中に踏み込み、その瞬間は魄氣の陽である。着地して軸足となった時、腰は90度転換しており、そのまま腰と体軸を目付けの転換によって更に90度転換すれば180度の入り身転換が成立する。このとき元の軸足は転換した方向に足先が置き換わり、伸展したまま軸足側に引き寄せられ再び陰の魄氣となる。

 軸足の無い姿勢とは自然本体であり、左右の足は均等に重力を受け、重心は両足の間にある。右/左自然体であるところの残心は両足が揃って一本の軸足と成った状態であるが、次の瞬間必ずいずれかに重心が置かれ、たとえば前の足が軸なら後ろの足が後方へ一歩下がって陰の魄氣となるか、前方に一歩入って半身を左右転換することになる。前者はたとえば杖巡りであり後者は入り身投げや天地投げの足腰の動作である。他方後ろの足に軸が移れば前の足が前後に置き換わり追い突きや転換、体の変更に連なる。

 軸足の無い姿勢はつまり静止であるから転換や入り身転換はあり得ない。立ち技で静止して片手取り入り身転換や体の変更を試みるのは、魂氣に片寄って動作させるということであろう。与えた上肢は受けの意のままにさせる訳であるが、陰の陽の魂氣は母指が陽、他の指が陰で、手首の動作と共に狭義の陰陽を現すことが可能である。

 しかし、与えた上肢の肘と肩を移動させることは出来ないものとする。よほどの筋力があれば受けをも動かす仕事量を腕一本でこなすことは理論的には不可能ではないが、合氣道では氣結びに依る呼吸力をもって仕事量に替えるのが核心である。

 互いの魂氣の氣結びに加えて自己の魂氣と魄氣の氣結びが合氣であり、取りの存在そのものである。それには足腰の動き則ち軸足の成り立ちと、それにともなう魂氣の丹田への結びが取りには不可欠である。

 軸足を作らず静止のまま魄氣の陰陽を欠いて、肘と肩に筋力を込めて、手首まで固定して受けへの圧迫を意識すれば、息を詰めて目付けは接点に固着し、気結びと入り身転換は隔たるばかりである。

2013/6/27

48. 四方投げの持ち方

四方投げの持ち方とは、鳥船において両手を陰の陽で差し出して、呼気で陰の陽のまま魂氣を巡り、陰の陰で丹田に結ぶ動作に共通している。また、 二教と三教の魂氣の動作にも一致する。

2013/7/12

①右手を陰の陽で受けの手首の外側に差し出して当てる

②陰の陰に巡ると受けの手首は外に廻り、取りの手背が額に結ぶと取りの魂氣と魄氣が結び同時に受けの魂氣とも結ぶ

①吸気にて魂氣を陰の陽で差し出す(ホー)

②呼気にて魂氣を陰の陽で巡り陰の陰で丹田に結ぶ(イェイ)

胸取り二教:左手を陰の陽で受けの手背に被せ、右半身の入身運動で左脇を閉じ胸に合わせて魂氣が陰の陰に巡ると、右手の降氣が脇を開くことと相まって二教に取ることができる。

正面打ち三教表:反屈した受けの手首の下に陰の陽で魂氣を差し入れ、把持して陰の陰に巡り(回外)地に結べば三教

49. 与えても巡って結ぶ

 魂氣を与えて巡り受けの魂氣と共に自身と結び、再度発して次は受けの魄氣を経て自身の丹田に結べば残心、すなわち技の成り立ちである。

 与えるとは、自然体から一方の魂氣を丹田に巡り陰の陽で結び、他方を腰の後ろに廻す。それに合わせて、腰に置く魂氣と同側の足を軸とし、他方の足先を前に置いて半身の陰の魄氣とする。そのとき腰の前後に両魂氣が陰で結んでいる。そこで丹田から陰の陽のまま脇を開いて行って魂氣を受けの下段に与える。つまり与えた魂氣は丹田との結びを自ら解き、対側の魂氣だけが軸足と腰に結びを保っている。

 相対動作で受けがその与えた魂氣を取ろうと接触した時、呼気で魂氣はその及ぶ所から自身の丹田に戻ろうとする。魂氣と魄氣の結びこそが安定した正立であるからだ。受けに取り込まれるほどの場合は魂氣魄氣ともその成行きにまかせた巡りを呼吸と共に行う事となる。入り身・転換から更に陽の魂氣・魄氣で発して巡らせ、受けを経て取りに再び結べば正立であり、これを残心と呼び合氣の技の成り立ちをしめす。

 魂氣が受けに関わり陰陽で巡り続けても、丹田への結びが無ければ正立がなく、残心・合氣の成り立ちを欠くこととなり、そのことから特有の形と姿勢がもたらされるはずだ。つまり、魄氣はつねに陽で固定し、上体がやや前傾したままで、つねに腰が魂氣より後ろに退けて専ら腕と肩を前で動作させる。軸足と腰は丹田において手の働きにつながることが無い。一見して魂氣と魄氣の結びを欠く特有の姿勢である。

 動作の上で姿勢の良さを求めるのは単に見た目の美しさや安定感を与えるためではなく、合氣の成り立ちの根幹であるからだ。動作の有効性と確実性、すなわち技が姿勢の良さに象徴されるのはこのことによる。一方で合氣は禊であると云われる様にその観念と動作の一致においても、魂氣と魄氣の結んだ姿勢がその基本にあることは明らかである。

2013/7/29

50. 合同稽古の意義 

 ABという、合氣道の稽古を中心にした活動団体があり、交流の手段として合同稽古を設定し互いに技を紹介して切磋琢磨するという、大変積極的な合氣道探求の一時を久々に経験することができた。その感想を記しておく事とする。

 それぞれの指導師範が開祖による合氣を体得した上でそれら団体に段階的な習得を可能成らしめる独自の指導を実行してきたなかで、その団体が技の習熟向上にと互いに稽古交流を積極的に求めるのが合同稽古であろう。ABがそれぞれに特徴ある合氣を理解し、その動作に触れて互いの道友はABをそれぞれに習得し、合同稽古を行う両団体が共有する独自のCという特徴的な状態が生まれる。つまり、友好と仲間意識の伝統が育まれるのである。合気道に依る和の新たな広がりでもあろう。

 ここで、古いOBである私が参加することも含め、第三者的なDという合気道にとっての合同稽古を考える。つまり。ABを習得しCという状況の生まれる点を客観的に自らも把握して彼らと稽古を重ねて行くのである。しかも自身はDの基盤に立っている訳であり、違う点と共通する点の吟味を、飽くまでも基本要素を含めた合氣の三位一体の観点で行わなければならない。

 無造作にDのおもむくままの稽古に終始すると、終えたとき自身に残るのはDのみで、A,B,Cはついに共有されることは無い。つまり、友好と仲間意識の伝統は生まれず無駄に合同という名の稽古が費える。

 長く継続して来た稽古によって今あるDについては、多くの先達によって与えられて来た教えに対して謙虚に感謝し、恩に報いるべく自身を合氣で禊し、それぞれの日常に充分に活かされることを期するべきであろうと考える。すなわち、合氣の和の広がりこそは開祖の説かれた心そのものであるはずなのだ。

  稽古一般の中心、ひいては合気道の中心とは何か。その観点をしっかり据えることは自然体や残心の体軸に劣らず肝要である。人が集うのはその結果である。

 自身を顧みる良い経験は、若い道友との交流によって生まれ、大変象徴的であり清々しい会であった

2013/9/17

51. 基本の稽古とは 

 合氣の道を開祖が創始された時点でその根底に備わっていたものが自ずと基本を為し、それは開祖の教えの中に息づいて来た伝統に通じるものである。

 形をなぞることで技を一つ一つおぼえていって、そのうちの一見単純な技の形をもって合氣道の基本とする様な事があっては、客観性を互いに共有するはずの指導・修練は意味をなさない。客観性とは、基本が幾重にも織り合わされて姿を見せている全体像の核心そのものである。その意味や念いやその動作の一体となったうえでの普遍的価値である。

 基本と呼ぶもののなかにある動作が単に形を作る四肢躯幹の動きによる物理的な働きとしての意味しか持たないのであれば、その様相によって形は如何様にも変化し、全体としての効果も価値も不定のものとなろう。核心として伝達し共有する普遍性は既に存在しないものとなる。

 何事も基本の確立があってこそ修練は成り立つ。一つの技あるいは相対基本動作を反復稽古する意義とは、取りが受けと共に氣結びの完遂を目指し単独基本動作から単独呼吸法へ回帰することにある。究極その動作とは禊に集約され、結果として受けは投げや固めの受け身に至る。

 つまり反復稽古とは受けを地に導く手順に慣れるのが第一義ではなく、取りが合氣を全うすることである。それは魂氣と魄氣の結びが受けを経て滞らず取り自身に巡り、残心へと復帰する念いと動作に他ならない。

2013/9/28

52. 手刀の指

 手刀による受けの打ち込みにおいて、たとえ同時打ちといえども取りが手刀を中心線で刷り上げてこれとぶつかること無く紙一重の間をもってすれ違う技術。手首から前腕にかけてのふくらみが、受けによって打ち降ろされる同じ部位の厚みに対して、同時に入り身で剣線を確保してしかも受けに勝る技術。これらは如何様な基本動作によって成り立ち、どのような修練がそれを可能とさせるのであろうか。また、その動作は合氣の根本要素で組み立てられているのか、つまり取りが手刀を剣に見立てて受けの突きや打ち込みに対抗する上で合氣を行うことの本質は何かということである。

 指の骨はマッチの軸ほどに脆いものであるといわれる。乏しい指の筋肉や繊細な靭帯を強化する修練法があるのか。直線的に強さを保持しようとも、それに斜行乃至は直行する衝撃には殆ど効果がないものである。或は幾度となくその部分が壊れても、和を主張し愉快に稽古を行う合気道において矛盾とは成り得ないのであろうか。

 手刀については、魂氣三要素からみて狭義の陽でもなく陰でもないし、手関節の固定と手指の伸展が広義の陰を放棄していることから、巡りの一瞬にとりうる殆ど理論上の形に過ぎないことを述べて来た。

 徒手において、剣や杖に代わりうる魂氣は上肢全体でもなく手刀でもない、それは反りを伴って常時伸展した母指そのものであると考えざるを得ない。しかも通常は屈曲した示指の上に置き、握った指列の第二関節上で母指先だけを僅かに出しているだけである。突き出て容易に破損することのないように、これが広義の陰の魂氣を現す形である。

 陰から発して他の指も手掌も伸展する広義の陽で受けに結び、その中で狭義の陰に巡る一瞬手刀の形を見せるのであるが、たちまち受けの魄氣に結び、取りの魄氣に広義の陰で巡って陰の陰か陰の陽で丹田に結び残心となるのである。魂氣の三要素は、この華奢な四本の指を母指が守り、手根部の可動に合わせて適時に四指を進展・屈曲へと導き、それらの働きを最大限に全うさせることにあると言っても過言ではない。

 小指球や母指球の豊富な軟部組織を角化させてその強度を増したとしても、また、上肢の近位における筋肉群を強化させたとしても、魂氣三要素に裏打ちされず孤立して硬直した手刀の指の脆弱さは根本的に変わることが無い。魂氣が打ち当たり互いが弾むことと、その殆どを受けにひびかせることの違いこそが、禊に現れている合氣の三位一体を成す魂氣三要素、陰陽・巡り・結びに内在する基本ではあるまいか。

2013/10/18

 

①陽の陰で魄氣の陽
①陽の陰で魄氣の陽
②陰の陰で魄氣の陰
②陰の陰で魄氣の陰
①陰の陽で上段に与え受けは手刀で守る
①陰の陽で上段に与え受けは手刀で守る
②陽の陽に発して受けの魂氣に結び
②陽の陽に発して受けの魂氣に結び
③陽の陰へと巡り
③陽の陰へと巡り
④陽の陰で正面当て
④陽の陰で正面当て
①陰の陽で与える
①陰の陽で与える
②当たって母指から陽の陽へ
②当たって母指から陽の陽へ
③陽の陽で氣結び
③陽の陽で氣結び

53. 合氣道の基本を再認識する

 合氣道における禊とは魄氣の陰陽に魂氣三要素、陰陽・巡り・結びを行う動作である。単独呼吸法は正座によって魂氣に特化して三要素を両手で行う。それにたいして、剣素振りは魄氣の陰陽に加えて入り身、転換・回転の魄氣三要素を動作する基本である。

 したがって、禊、単独呼吸法、剣素振りで合氣道の単独動作を網羅した稽古が行える。

剣を持たない場合は、単独基本動作の入り身運動、入り身転換・回転によってそれに代わる動きが可能である。

 そして合氣道の根本は武道の修練にあり、その稽古においては相対基本動作こそが選択される。

  いずれにしても、“基本即真髄”である。

楽しく達成感を持ちながら稽古を行ううちに合氣道を体得して行くうえにも、

  “正師を得ずんば、学ばざるに如かず”(『学道用心集』道元)

と言われるように、きびしい面を決して疎かにしてはならない。

2013/11/2

54. 耳の前後

 耳の真下は躯幹を前の胸と後ろの背に分ける境界点で

、私は側頸と呼んでいる。

胸鎖乳突筋によって前後に分けられ、前を前頸三角、後ろを後頸三角と呼ぶが、耳の真下で前と後ろに分けると表現し易い。

呼吸法で、呼気と共に魂氣が丹田から体軸を昇ってここに達して、吸気と共に外に発せられる所。また、吸気によって陽で開いて受けた魂氣が呼気と共に体軸に結んで丹田へ降りる所でもある。

 魂氣が昇るとは、陰の陽の手で伸側を丹田に接して呼気と共に指先の方向へ前胸部を上昇させることで、氣の魂(玉)を包んだ手がそれをこぼさないように側頸まで運ぶに等しい。耳の後ろから吸気と共に手掌を天に向けて開くと、魂氣は陽の陽で発せられると言い表すことができる。母指先の反りに合わせて上肢は背部に伸展して行く。

 また、魂氣が降りるとは、吸気によって手掌を天に向け上肢を伸展させてそれに受けた魂氣を、呼気と共に肘から遠位を弛緩・屈曲させて陰の陽から陰の陰で側頸に手背が接し、そのまま母指先が耳の前を前胸部に進み丹田に向かって降りて行くことを言う。耳の後ろは昇氣で発し、耳の前は降氣で巡る。

 昇氣で発するとき耳の後ろに至らず、降氣で巡るとき前胸部に沿わないなら、足腰に支えられた体軸に依らない上肢だけの動作がそこにあり、魂氣と魄氣の結びは生まれない。いわゆる力技あるいは形に従う技の実体がこれである。

 魂氣が丹田で魄氣に結ぶことは合氣といい、単独動作では禊そのものである。そして、相対動作では互いに魂氣と魄氣それぞれの三要素を動作することで、取りが再び自身の魂氣と魄氣を結ぶ残心に終わって合氣を為す。このとき取りは自然体(自然本体または、左/右自然体)で正立または正座にある。

 

 単独呼吸法の昇氣/降氣は「フォトギャラリー」の「単独呼吸法 昇氣と降氣を参照

2013/11/7

 

①諸手取り降氣の形で転換して回外
①諸手取り降氣の形で転換して回外
②頭の高さに差し上げて陰の陰で地に結ぶ・降氣
②頭の高さに差し上げて陰の陰で地に結ぶ・降氣
①諸手取り降氣の形から転換のまま上体の入身運動で側頸を開き陰の陽で結ぶ
①諸手取り降氣の形から転換のまま上体の入身運動で側頸を開き陰の陽で結ぶ
②後ろの足を半歩進めて陽の陽で耳の後ろから発する
②後ろの足を半歩進めて陽の陽で耳の後ろから発する
①後ろ両手取り天地の結びから地の足を後方に置き換え・対側の足から踏み替えて(入り身転換)対側の天の魂氣を陰の陽で側頸に結ぼうとする。このまま耳の前で陽の陽に魂氣を進めても受けの前胸部を後ろに押すだけで体軸には響かない。
①後ろ両手取り天地の結びから地の足を後方に置き換え・対側の足から踏み替えて(入り身転換)対側の天の魂氣を陰の陽で側頸に結ぼうとする。このまま耳の前で陽の陽に魂氣を進めても受けの前胸部を後ろに押すだけで体軸には響かない。
②陰の魄氣で魂氣を昇氣で側頸の耳の後ろ(後頸三角)に結ぶ。
②陰の魄氣で魂氣を昇氣で側頸の耳の後ろ(後頸三角)に結ぶ。
③前の足から踏み替えて同側の魂氣を陽の陽から陰の陽で腰の後ろに結び(入り身転換反復)魂氣を耳の後ろから陽の陽で発する。
③前の足から踏み替えて同側の魂氣を陽の陽から陰の陽で腰の後ろに結び(入り身転換反復)魂氣を耳の後ろから陽の陽で発する。

55. 秘密と秘伝 

 食品や機会の製造工場を見学する番組が根強い人気に支えられている。そこで必ず目にするのは、肝心な所は撮影禁で極秘という場面である。会社の独特の工夫が営業成績を守り、そこで働き家族を養う多くの従業員の生活を守っている。これを国に置き換えると、国民の生命・財産・国土・領海を守るために他国には明かせない肝心な事物があってしかるべきだ。

 米国の占領下にあって以来現在でもなお、各国では常識となっている国益を守るための配慮が欠落し、その点では無法地帯に等しい。所謂スパイ天国という情けない呼称をいただき、諸外国に対して多いに国益をばらまいてきた。密出入国からしてフリーパスともいえる実体で、我が国民が容易に拉致され、その工作船に対しては監視するだけが精一杯で、国際的な無法行為に対しては外交筋の無為無力、国防意識の低落からその事実さえ隠蔽しようとするかの言動が横行してきた。

 遅きに失するともいえるこのたびの国家的機密を守ろうとする立法に、国民の知る権利を侵害する恐れがあるという問題点にまたしてもすり替えて、反対する意見が沸き出しマスコミには過剰に取り上げられ、結果的に我が国を貶めることに躍起となっている現状である。番組スポンサーや、報道への国民の出費にたいして、偏向報道の番組作成に携わる者は恬として恥じない態度を貫き通している。

 一人一人の才知ではさぞ非凡なひとびとであろうが、集団に依る自己不在の価値形成という状況に身を置いて、内容がどうであれ時時の視聴率が良く、結果的に直近の利益と成ればよしとする利益至上主義は、広く国益を守るという価値観とは相容れないものである。自制なき自由は我が身を窮する。

 翻って合氣道は開祖により秘伝とされて来た歴史がある。容易に伝えない奥義ということは、無制限に、簡単に伝わるはずのものではないという意味であろう。正しい系統を身につけて行くには道主の下に師範の存在が第一であり、授けられる側には志と熱意と段階が必須である。

 人に知らせず公開しないということを秘密とすれば、秘伝はけっして伝えないものではないと言える。むしろこの核心を普遍的に共有して来たのが合氣道の歴史である。今や世界各地に普及しつつある。しかし、容易くて、順序をふまず、道統と恩義を欠如した伝統などはそもそもありえない。

2013/11/19

56. 呼吸法・側頸の結びと受けの響き

 側頸の結びとは、たとえば小手返しの手(陰の陽)で丹田から側頸まで昇氣によって一気に上昇して結び、いつでも陽の陽で魂氣を発することの出来る過程である。

 ところで、降氣の形から回外して脇を開き陰の陰で額に結ぶと二教の手であり、ここから手背が頬を降りて陰の陽、つまり小手返しの手で側頸に結ぶ動作は、後ろ取りから回転で側頸に結び陽の陽で発する呼吸法に特有である。

 二教の手から小手返しの手に巡って側頸に結ぶことは、陽の陽で発するまでに前腕を内向きに180度捻ることであり、同時に脇を開いて水平を維持することで受けの胸との間(胸骨上端、頸切痕)に取りの肘が当たり、間合いが保たれる。直後に陽の陽で発したとき、上肢を捻っておいた分母指先の反りの方向に撓(しな)って、受けの同名側の側頸に撓側が接する。そのように、取りの魂氣が受けの側頸から体軸へ響き、腰に達して受けの底から抜けると、取りの魂氣が受けの魄氣に結んだことになる。

2014/2/19

57. 軸足先の方向と回転角から見た四方投げの合氣

禊は合氣   

 合氣道では足腰の動作が地から受ける氣により裏打ちされているという思いを持つ。これは肉体の“たましい”が地に下り魄となりそこから魄氣が足腰を経て臍下丹田に結ぶという考えである。一方、心の“たましい”は天に昇り、魂となりそこから魂氣を手に受けて柏手と共に丹田に結び、ここに魂氣と魄氣を丹田に合わせることで古今天地の氣に連なることができるわけである。これが禊であり、合氣であると『合氣神髄』で開祖が述べておられる。

魄氣と体軸

 この魄氣は、物理的には地から受ける抗力そのものであるが目には見えないし、受けからの外力などと比較しても実際に体感することは困難である。しかし、動作の中で姿勢が崩れたり倒れるときは、足を通じて腰や体軸に受ける力やその喪失を感じないではいられないはずだ。正立、正座や歩行などの動作においては魄氣と体軸の最善の関わりを求めようと心が働くものであるが、合氣道では魂氣を受けた上肢が様々に動作して丹田に結び残心となることで、足腰を含めた全体の動作が完結する。つまり、一連の動作は静止に至り自然体の姿勢に還るのである。

体軸と動作

 左右の足の真中に体軸を置く静止・自然体に対して、足腰の動作とは体軸が安定しながら移動することに他ならない。体軸が一方の足に置かれ、他側の足を四方に置き換えて次に体軸をそこに移すことこそ動作の核心である。つまり、軸足の確立により動作が生まれる。腰を落として膝を中心に軸足を屈曲することはあっても足底を捻りずらすことがあってはならない。回転させるのは軸足の反対側の足腰である。それによる体軸のねじれは限界まで生じた後、軸足の交代でねじれが戻り対側の足腰が回転する。軸足が交互に移って行くうちにその都度安定した体軸の下に回転が連なっていく。

 体軸が足に移らず不変のままで左右の足底が地の上でずれた場合は、静止した姿勢が変化しただけで動作には含まれない。また、手や上体の動きは足腰の確たる動作に伴わなければ有効な働きを成し得ないのである。軸足が確立して存分に回転する対側の手足があってこそ合氣の動作は発揮される。手足腰の一致、あるいは母趾と母指の一致と云われる通りである。

魄氣の陰陽

 魄氣によって裏打ちされる合氣道での足腰の動作は三つに大別される。陰陽、入り身、転換・回転である。これを魄氣の(働きの)三要素と呼ぶことにしている。左半身の自然体の静止から陰陽について述べる。右足に重心を置いて軸足とすれば、左足は足先だけで地に着き常に四方へ置き換えることができる。これを魄氣の陰とする。いま、左右の足の位置を固定したまま体重を前に移動して行けば右の足は屈曲から前方へ伸展し、左の足はその場で足底を最大限踏みしめると下腿は地に垂直と成る。上体はのめることも反ることもなく、目付と上肢は最良の働きが可能と成る。この静止した姿勢を魄氣の陽とする。

鳥船と入り身

 鳥船という運動自体は呼気によって魄氣と魂氣が陰で終わる。そこから吸気で魂氣を陽で発して魄氣も陽とするが、ここで体軸が前の左足へ完全に移るわけではなく、呼気に移行して魂氣は丹田に巡るし魄氣は陰に還る。この間吸気から呼気への移行は巡りと呼び一連の動作であり決して陽の魄氣で停止するものではない。

 魄氣の陽で重心が前方に移動するとき後ろの足が地を離れ、前の足に重心が完全に移ると共に送り足で二本の足が一つに密着し、半身で体軸がこの二本の足に移った瞬間が残心である。静止したと判断する。送り足を前の足の踵に付けることで前方の足先から後ろの足の踵までの線は剣線を外れ、これを入身とする。つまり、魄氣の陽と送り足・残心により入身が成り立ち、このときの二本の足の動作を一足と呼ぶことにしている。

転換・回転

 陰の魄氣から前の左足をそのままの場所で足先だけ外方向に直角に回して踏み、軸足とする。通常その膝に同側の左手を置いて腰をしっかり落とす。後ろの右足を左の膝上を跨ぐように回して膝を屈曲すると右足は軸足の膝から下に回り足先から内股で地に着く。その瞬間は体軸が捻転し不安定であるがその右足を踏み降ろして次の軸としてから、左足をその場で270度外側に回して再度地に着き軸足とする。すると右足は再び小さく90度その場で踏み替えると最終的に右足を軸とする左半身の陰の魄氣に一回転して戻ることになる。これを体の回転とする。

 従って、左の足で剣線に対して外へ直角に軸足を作れば右足の前方から左方への回転は一回転となり、45度の軸足なら右足の回転は270度までに留まる。右足が回らずに剣線に沿って受けの前を真直ぐ前方に踏み出して、内股に踏んで軸として向き直れば入り身転換であり、180度の回転を入り身転換と呼ぶ。

 左半身から前方の足を左外方に置き換えて軸とし、右足を初めの左足の位置に進め剣線に向けて足先を置くと、陰の魄氣で直角に向きを転じて半身も換わり右半身となる。これを転換とする。

相対動作

 諸手取り前方回転の呼吸法片手取り四方投げ表ではいずれも、右半身で魂氣を与え受けが手を取ると同時に直角の外転換で左半身になって剣線を外す。次に左足を軸として右足が受けの前に入る。そのためには、当然受けの魂氣に対して、取りは剣線を外すだけでなく呼吸法で確実に結んでいることが不可欠である。

 左足を新たに軸とする際の左足先方向が、右足と共に反時計回りに回転する腰と上体の回転角度を決め、それはとりもなおさず受けに対する取りの魂氣と魄氣の以後の方向を決定付けるわけである。回転した直後の正面打ち近似の残心で取りの魂氣、すなわち母指先の方向が受けの項に向かっているか、魄氣、すなわち目付けと腰と前の足先が受けの背面の中心に向かっているか。取りの魂氣と魄氣のいずれもが受けの魂氣と魄氣に結び、体軸に結んでいることが合氣の要訣である。取りの魂氣が再び丹田に結びそこで自身の魂氣と魄氣が結べば、禊であり受けは取りの真中を経て取りの後ろに回り足下に落ちて地に結ぶ。…… 画像参照

軸足先

 このように、外転換の陰の魄氣から前方の足を軸とする際、軸足先の向きが90度の範囲で変化することによって取りの前面の回転角度は、反時計回りに概ね135度の開きを有することとなる。四方投げの用語については、回転角の範囲から見て以上のような範囲内で受けに向かうことも可能であるが、その結果受けの体軸への結びが確実であるのは一点に尽きる。すなわち、一回転であり、軸足先は直角に外方に向けて剣線に一致させた場合である。ただし、魂氣が四方投げの持ち方で受けの手を取り額に振りかぶって取りの手背が結んだとき、受けの腕が回外して上体が取りの正立した体軸に十分結ぶことによりその体軸が取りの背側を時計方向に回ることとなる。そうすると、残心で互いに結ぶことの出来る回転は必ずしも一回転に限られるものではないことが分かる。

氣結びと回転による四方投げ

 四方投げの持ち方により受けの魂氣と取りの体軸が取りの額で結ぶことこそ、以後の回転軸の確立に必須である。それは軸足先を外側へ限界まで向けることを可能とする。そうあってこそ互いに結んだ魂氣が回転により受けの体軸、つまり魄氣に結ぶことへと連なることができる。

 取りはこの回転軸を固定し、対側の足腰を回転し、次に軸足を交代して体軸の捻りを戻すことで残りの足腰にも回転を加える。ここに踏み替えて一方を置き換えさらに踏み替えて二つの軸による一回転が成り立つ。

2014/3/15

諸手取り前方回転呼吸法

①
②
③
④

片手取り四方投げ表

①
②
③
④

58. 魂氣と魄氣で捉える一教と入り身投げ

“両手で陰陽の氣の巡り”を相半身入り身で行うか逆半身入身で行うかによって一教表と裏の初動の違いとなる。

その後の動作を、表は逆半身入身と鳥船の陰、裏は入り身転換と鳥船の陰に続き後ろ回転。

 

“両手で陰陽の氣の巡り”の一往復を逆半身入り身から相半身入身では入り身投げ表、逆半身入身転換に後ろ回転で相半身入身は裏。いずれも魂氣の巡りには受けの前胸部で昇氣を交える。

2014/3/23

59. マー君、メジャー初勝利のインタビュー

 常日頃プロ野球のヒーローインタビューでは、毎回選手の気持ちに限ったおざなりな質問に終始するアナウンサーのセンスに、あきらめてただ聞き流すばかりである。野球に限らず日本のスポーツアナウンサーはどうしてこれほど鈍感なのかと不思議に思っていた。きょう一番に活躍した選手がその場面でどのような技術を駆使し、打者であれば相手の投手が繰り出したボールとのせめぎ合いはどのように勝利したのか、知りたいことはフアンならずともそこに集中する筈である。

 今回マー君のメジャーリーグ初勝利に、アメリカのアナウンサーがインタビューするのを初めて聴いた。しかも女性アナウンサーであるところも初めてであり、マー君から何を聞き取るのか注目したのだが、長年の習慣から決して期待はしていなかった。

 ところが、立ち上がりに失点したあと中盤から追加点を与えず立ち直ったことについて、何が良かったのか具体的に、言わば技術論を質問したのである。マー君の明確な受け答えはゲームの勘所を野球フアンに解き明かすことで、野球の面白さや技術の高さを一層深く印象づけることとなり、短いインタビューの成果は見事に得られたのである。健全なバランス感覚と常識の備わった報道を見せつけられて、正直、驚きとともに安心感を持つこともできた。

 とにかく気持ちや心に思ったことを、言葉で求めるだけの姿勢は物事の理解という点で明らかに偏った不完全な視点であり、それを良しとする価値観のいびつさは決して通用するものではない。観念に偏重する価値観にもかかわらずそれに疑問も不満も感じずに、共有しているという思い込みは物事の本質を理解し体得することからかけ離れるのみならず、進歩の望めない次元に満足している状態となる。

 思いの裏打ちに欠く用語を口にしても一知半解の域を出ない。また、用語によって特定されない動作は曖昧な形となる。そして、念じることに動作が対応しなければ普遍的な形は生まれない。語句と思いに対応する動作の三位一体こそが武技を生むのである。

 単独呼吸法を例にあげると、魂、氣、陰陽、巡り、結びという語句があり、それぞれは思いによって表わされ、それぞれに対応する動作が現される。すなわち三位一体であり、合氣そのものである。

 また、主として足腰の動作を基軸とする徒手と武器を用いた単独基本動作には、魄、氣、陰陽、入り身、転換・回転という語句とその思いに伴う動作の形がある。そして、魂氣と魄氣の結びを合氣とし、禊の種々の動作こそが合氣であることを開祖はたびたび示しておられる。

 思いは全てに先立つ。しかし全てが思いだけではない。

2014/4/7

60. 軸足を持たない姿勢

 体軸とは上体の中心軸であり、腰または丹田と頭頂を結ぶ直線を想定する。

躯幹の中心を為すと同時に魂氣が通る道として氣の働きを想定する上でも重要な意味を持つ。魂氣が丹田から側頸や更には額に昇り、逆に額や側頸から丹田に降りる際は、この体軸を通るという想いで動作をする。

 一方、魄氣とは、足底から腰の間の動作と形を裏打ちする氣の想いであると同時に、体軸を昇り頭頂に抜けて天に結ぶと想定することができる。用語の緻密な設定と、天地の間で巡る魂氣と魄氣の想定と、それに相当する動作のそれぞれを確立させることが三位一体であり、合氣の実体である。魂氣と魄氣が丹田で呼吸と共に一つとなる想いと動作こそが禊であり、合氣である。

 魄氣が足底を経て丹田に昇り足腰が地に立つという想いは、同時に体重がその魄氣に支えられて安定していることになる。その意味で体重を支えた足を軸足と呼び、左右一方の足だけがその働きを持ち得る。なぜなら、左右の足で同時に体重を支えるとき、体軸は上体と腰を結びそのまま垂直に地に至る直線となり、それは両足の間に想定されることとなる。動作の中でも円運動をその本質とする合気道にあって、体の回転軸は常に一本である。地に着いた軸足と体軸の連なりによる一本の中心軸こそが回転軸となり、それ自体は揺れ動くことのない垂直線でなければならない。

 つまり回転軸は軸足によってなりたち、足底は地に密着して重心を支える。下肢関節の可動域からその軸足においては体の回転が180度までに限定され、一回転するには左右の足で軸足を交替する必要が生じる。回転軸の足先を反対側の足が回る前方回転も、踵側を回る後方回転も順次両足が回転軸とならなければ一回転できない。

 また足先を内方に向けた軸足によって反転した躯幹に対して、対側の足がその場で足先を外方へ135度踏み替えるだけなら半身が転換するだけで、その時の軸足が入身による置き換えの場合は入り身転換と呼ぶ。また、受けとの間合いを詰めない、剣線の外方への置き換えなら単に転換と呼ぶこととする。転換では対側の足先は45度外方に踏み替えるだけである。いずれにしてもこれらの動作は軸足を後方に作る陰の魄氣で一瞬静止する。

 このとき入身転換による軸足の置き換えでは、転換によって重心を移動することで体軸に連なる新たな軸足を作ったわけである。しかし、軸足の確立に至らず回転軸としての働きがなければ足の置き換えだけで一旦静止する。魄氣の陽で体軸が前後の足の間に留まったわけである。すでに記した如く、重力は両足に分かれてかかるから重心を通る体軸は両足の間で地に降りる垂直線として想定される。この状態は入身・残心、入身転換、転換、回転のいずれにも相当しない。これらは少なくとも陰の魄氣であるからだ。

 このことから、鳥船では、陰の魄氣を起点として後ろの軸足に一致する体軸が前方の足に向かって陽の魄氣で移動するが、決して前方の足に移って軸足の移動が起こるわけではない。

陽の魄氣は陰の魄氣のように体軸が定まる静止ではなく、体軸の揺れ動く瞬間の姿勢である。軸足を持たない姿勢である。

2014/4/24

61. 諸手取り後手の結び

 受けによる四教の懸かり際で取りが諸手取り呼吸法を行うには、転換と共に脇は閉じるが、肘の弛緩・屈曲による間合いの詰めと、取り自身での魂氣の肩から側頸への結び(降氣の形)が困難であることに気付く。手首から遠位の手が陰の陽へ巡るまでに、諸手による抵抗を前腕で感じることが先行すると動作が途絶する。

 転換の動作を開始しながら脇を閉じた後も、魂氣は肘関節の屈曲を先行して寄せるのではなく、手首、手指の弛緩屈曲という広義の陰の氣を示し、体軸による迎えが不都合なく優るような動作が必要であろう。他には、腰に結んでの後ろ回転・左右反復により魂氣を巡らすという大きな動作もあり得るが、これはそれなりに魄氣の相対基本動作としての修練を要するからここでは省く。

 体軸による迎えとは、肩や側頸の高さで僅かでも前屈しないよう目付けで維持しつつ、手首の屈曲(小手返しの手)による母指の体軸への巡りを両方から成し遂げることである。それには体軸の下方に連なる軸足の屈曲を最大限活用して十分な転換に耐えなければならない。上で連なる側頸も遅れず開くことにより魂氣の結びを厳密に行えるよう、目付けを剣線に沿わせることを怠らない。それが前腕の肘での屈曲と筋収縮や挙上へのこだわりを少しでも打ち消し、諸手と共にある取りの魂氣と魄氣の結びを円滑にするであろう。

 天秤棒を片手で担ぎ上げる動作に近似している。体重程の荷を天秤で担い始める体勢に持っていくことは、膝を折って重心を下げ腰と肩を結ぶ体軸を垂直に近い状態のまま滑り込ませることに成否の鍵がある。片手(陰の魂氣)と、上体の軸に肩(側頸)と、そして足腰(陰の魄氣)の一致が動作(氣結び)されなければ成り立たない。

2014/5/9

62. 目付けの働き

 目付けとは、自らが天地の間にあってその前半分の視認を可能とするのみならず、体軸を地から頭頂まで直立させる唯一の動作である。

 上肢を介する魂氣の陰陽の巡りと、表は丹田に、裏は腰への結びの要素は、正立した体軸においてこそ成り立つものであるから、目付けが水平にあることは必然である。

 さらに、目付けの転換は即座にその前後を入れ替えることで体の転換を伴い、魂氣の働きを瞬時に前後の空間へ及ぼすことが可能になる。同時に転換の軸足が剣線を外すことで、目付けと共に体軸と対側の足先までを剣線の外に置き、陰の魄氣で静止することができる。これは入り身転換である。

 ところで、合氣道においては、徒手の場合、魂氣を巡らすのは上肢そのものの動作に特定される。そこで、坐技単独呼吸法による上肢の特有の動作が合氣道の基本の一つとなる。

 今、呼気と共に体軸へ巡った手は丹田から魂氣を掬い上げていく想いで、つまり陰の陽で母指を除く指が体軸に沿って上昇し、側頸に至って母指先がそこに接触するとき、これを昇氣と称する。母指先が側頸で体軸に繋がったという想いは、魂氣と魄氣の結びが体軸の先端に至ったと言う解釈である。

 一気に側頸へ昇氣で結ぶには、胸骨直上部に側頸が開いていることが肝要である。陰の魄氣で転換した際、目付けが剣線に沿ってさらに転じると、その対側の頸部は昇氣の軌跡上で魂氣に結ぶべく同期して開く。入り身転換では目付けが先駆けで転じ、腰と躯幹がそれに続く動作となるから、側頸の開く瞬間は必然的に生じる。

 魂氣は陰の陽で側頸に結び留まらず、吸気によって母指先から魂氣を発する想いで手掌を開き上肢を伸展する。足腰に支えられた丹田に発し、体軸を通り側頸から上肢を経て母指先を気流が噴出する想いは、同時に胸郭が一気に緊張して開き吸気が極致に至るから、陽の魂氣は吸気もいっしょに発せられるはずである。

 このような思いで上肢の撓側が全体に受けの躯幹に接するなら、呼吸と共に受けと氣結びを成したことになる。これを、呼吸法と言う。ただし、受けに接触した部分がその体軸を経て受けの躯幹の底にひびかなければ受けへの影響は乏しい。つまり、体表に当たって取りの上肢が反発するようでは受けの中心にひびかない。受けの側頸に当たり、体軸を経て受けの底にひびいて行けば魂氣は受けに伝わり、呼気と共に取りの上肢は自身の体軸に巡る。魂氣の発する母指先は目付と軸と足先の一致によって初めて体側に巡り、速やかな残心が成り立つことで体軸に結ぶことができる。

 魂氣が受けの真中に浸透し、取りの丹田を回って腰の真下に受けの腰が落ちるとき、これを呼吸力と称することができる。則ち、氣結びの軌跡を想う中で、上肢の動作が受けの中心に関わって取りに還るとき、受けに及ぼす仕事量が呼吸力に相当するのであって、表面に当たった衝撃の強さを呼吸力とは言わない。

 以上の如く、目付けの移動は転換の先駆けとなり、結びのつぼである側頸を開く動作にも欠くことができない。さらに、魄氣の陽に伴う入り身や鳥船における体軸の移動方向、あるいは固め技で二教や三教、四教における体軸の振れる方向へと目付けは向かう。いずれにしても、目付を失い体軸が屈曲するようでは、間合いを詰めることも丹田への氣結びも叶わない。

2014/6/18

63. 回転軸により何が回転するのか

 魄氣が足底を経てその上位にある腰の重心を通る中心軸、すなわち体軸に切れ目無く連なれば、地から垂直に立つ回転軸が出来上がる。目付けが最大に機能するなら回転軸は限り無く安定した頭頂までの一直線を保持できる。そのときは入り身転換に加えて前後への回転もぶれることなく動作できるであろう。

 相対動作でのそれは当然魂氣の結びが大前提となる。すなわち、受けの魂氣が取りの魂氣に結び、更には取りの魄氣に結ばなければ互いの体軸が分立することとなり、両者は共通する一本の回転軸のもとでの転換・回転ができなくなる。取りと受けが一体となれずして転換・回転は動作しきれない。

 単独動作において、地を踏む一側の足が回転軸となっても、重心を通る体軸がそこに直接繋がらなければ、対側の足に従いながら頭部や上肢、躯幹そのものが回ることになる。本来の回転軸に相当する体軸は躯幹に含まれたまま回転するものとなってしまう。

 取りの中心をなす体軸そのものが、回転する体の一部となれば、入り身転換や回転が成立しないばかりか、相対動作においては入り身(漆膠の身)や転換に伴う魂氣の結び(秋猴の身)で一旦魄氣が受けに結んでも、次の動作(入り身転換や回転)で体軸は受けから離れていく。

 合氣道における回転軸は、独楽の軸のようにそれ自体が回転するものではなく、地に対してぶれるものでもない。せいぜい45度の捻りによって地を踏むことで、足底と膝と腰からなる軸が上位の体軸と地を確実に繋ぐであろう。それは、正に体軸が回転軸に一致して魄氣を受けた瞬間であり、陰の魄氣の姿勢にほかならない。

 従って、回転角が大きくなるか反回転に連なる場合は左右の足の間で回転軸の緻密な交代が必要となる。 

 回転軸により転換・回転するものは目付けと左右の肩と腰であり、魂氣はその軸のもとで最良の巡りが可能となる。

2014/7/10

64. 側頸に結ぶ魂氣の二態

 魂氣とその陰陽

 魂とは先人の心のたましいであり天にあると考えられている。魂氣とは先人のたましいを受けることによって得られる自身の存在感である。単独呼吸法によって魂氣は天から上肢に受けて体内に取り込み、母指の先から体外に放たれては上肢を広げて再び屈側で受ける。つまり魂氣は体外では上肢と天の間で、体内では体軸に沿って丹田まで巡るという想いを持つ。それに基づく上肢の各部の動きを魂氣の三要素として特徴づけることができる。すなわち、陰陽・巡り・結びである。

 吸気と共に上肢を伸展して手掌を天に向けて拡げると魂氣を受け、指先(特に母指先)から魂氣を発すると想い、この動作を魂氣の陽と呼ぶ。次に、呼気と共に上肢を肘で曲げて手を弛緩し屈曲しながら手掌に魂氣を包み、側頸に母指が接してそこから体の芯を丹田にまで降りて行くと想いながら、母指先を側頸から躯幹の真中で胸部、腹部を経て臍下丹田に降ろす。この動作は魂氣の陰とする。

 この間、手掌を天に向けると狭義の陽、地に向けると狭義の陰と言うことにする。前者は手掌を目にし、後者は手背を目にする向きである。また、脇の開閉は上肢を差し出すか引き寄せるかに相当し、広義の陽か陰の動作となる。つまり、広義と狭義で魂氣を陰陽に分けると、四通りの動作によって上肢の位置と形を表現できるわけである。

 

 降氣と昇氣

 魂氣の陰は呼気と共に側頸から丹田に降りるから降氣とし、狭義の陰で手掌を包み、母指だけは伸展してそこから氣が降りて丹田におさまると想えば、それに応じた上肢の動作を形作ることができる。

 一方、吸気と共に上肢を膝の上に伸展して手掌を天に向けて拡げると魂氣を受け、呼気と共に手首を弛緩・屈曲しつつ小指から丹田に向けて着けながら手掌を閉じて行く。魂氣が丹田に納まる思いを持って動作し、左右の母指は内方を指して互いに丹田で母指先が接する。他の指は上方に向き呼気を続けながら指先から魂氣が胸部を昇って行く想いで脇を開いて行くにつれて、肘関節が屈曲する。両側の頸部に耳の下で母指先が当たり、この動作を昇氣と呼ぶことにしている。そこで吸気と共に肘を一気に開くと改めて母指先から魂氣が発せられ手掌を天に向ける。そのとき丹田から一続きに母指先を経て魂氣が発せられる想いで上肢を各指先まで緊張伸展する。これは広義の陽で狭義の陽でもある。そこから呼気に巡るときはその伸展した上肢いっぱいに魂氣を天から受ける想いを描く。

 

 方位点としての母指

 つまり呼気に伴い広義の陰で狭義の陽の魂氣が丹田から側頸に結び(昇氣)、陰の陰に巡って手背が頬に結び額を経て対側の頸部に母指先が巡ってから丹田に降りる想いで上肢が肘を伸展し脇を閉じて地に向かう動作があり、体軸は魄氣の入り身転換または前方回転を伴う。これを片手取りの相対動作で行えば呼吸法のひとつとなる。

 魂氣を陰陽で発して巡り、丹田や側頸に結びさらに巡る。このような想いに応じた動作は母指先を魂氣の通る部分として意識することから始まる。あり合氣道の上肢の動作は母指先に基本がある。そこで、側頸に陰の陽で母指先が接するのを昇氣、陰の陰で接するのは降氣、前者は取りの耳の後ろで背側に向き、後者は耳の前で地に向く。

2014/8/5

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