1. 両足で踏ん張ることと両手で剣・杖を握ることは非合気の象徴

『合気神髄』より、

〝円に十を書く、その十の上に自己の左右の足で立つ〟p172

〝天地の和合を素直に受けたたとえ、これが天の浮橋であります。片寄りがない分です〟〝右足をもう一度〟〝踏む〟〝自転公転の大中心はこの右足であります〟p69

〝こんどは左足、千変万化、これによって体の変化を生じます。左足を三位の体にて軽く半歩出します〟〝また右足は〟〝動かしてはなりません〟〝すべての気を握るのは、この右足〟である。P70

〝左足だけで巡るのである〟p172

このとき魂氣を受けた手の動作においては〝左はすべて発し兆し、無量無限の気を生み出すところであります〟〝魂の比礼振りが起こったら左が自在に活躍します〟p70

〝魂の比礼振りは、あらゆる技を生み出す中心である〟p108

 

p105について

 開祖が左、右と限定して説明する言葉には、手と足の役割が左右それぞれ移り代わるなかに技の生まれる仕組みが表わされている。また、自然の法則、原則というわかりやすい表現にとどめて、臨機応変、自在に動くことが必要と説いている。

 曰く、〝五体の左は武の基礎となり、右は宇宙の受ける氣結びの現れる土台となる。この左、右の氣結びがはじめ成就すれば、後は自由自在に出来るようになる〟

〝すべて左を武の土台根底とし、自在の境地に入れば〟つまり軸足交代によって、不思議な〝身の軽さを得〟て、〝魂の比礼振りが起これば〟〝右は左によって主力を生みだされる。また左が盾となって、右の技のなす土台となる。これは自然の法則である。この原則を腹において、臨機応変、自在に動くことが必要である〟

 

 開祖の「動き」とは、はじめ右足を動かさず左足を巡らす。左に軸を移せば右の手は軽くなって技を生み出す主力となる。これは自然の法則である、という。

 

 

 開祖の言う〝三位の体〟とは結局、軸足と非軸足をつくることであろう。体軸側の手は重く、自由に巡る非軸足側の手は自在に空間へと発することが出来る。したがって、軸足を交代すれば体軸側であった手は自由な非軸足側となって技を生むことができる。このときの手は不思議な軽さを得て魂の比礼振りが起こると比喩されており、〝心の持ちよう〟でこのことが可能になる、と開祖は言う。

 

かねてより私は魂氣三要素、陰陽・巡り・結びが手の働きをなすものと考えている。魂の比礼振りとは手が魂氣によって働くことを指し、魂氣三要素と同義であろう。

 

これらのことから、左右の手を働かす際も、杖を用いるときも、軸足側と非軸足側を随時使い分けるのが原則であって、両足で同時に踏ん張ることや、同時に両手で剣・杖を握ることはそれぞれ非合気の象徴であると言えよう。

                                      2019/7/11

2. 驚くほどに直截的な開祖の言葉

 驚くほどに直截的な開祖の言葉を『合気神髄』の中から見出したときは、後生に向けられた深い思いやりを感じずにはおれない。

 

 さらに、開祖が擬態語を発せられるくだりもある。

p118〝すべてのものをやるさいに、天の浮橋に立たされてということになれ、と、こうなる〟

p119〝こう立ったなれば、空の気と真空の氣を通じてくるところの、宇宙のひびきをことごとく自分の鏡に写しとる。そしてそれを実践する〟中略

 〝相手が歩いてくる折りにじゃなア……。全部知らなければいけない。合気は相手がきたらスパーといく。今ここに相手がくる。坐って立とうとすると必ず分かる。あまれるところをもってホイ。小戸の神業である。

 今日のすべての世の中の出来事は、神さまがなさる。そして立て直しは各自がしなければならない責任がある〟 中略

〝合気は相手の目を見たり、手を見たりしてはいかん。自分の心の問題、絶対に見ない。こういう具合に……。いわば法華経の念彼観音力である〟

 

〝スパーといく〟と言う動作は、p70〝三位の体〟で軽く半歩出した左足に始まる千変万化、たとえば燕返しのような入り身転換であろう。鳥船の魄氣の陽と陰、すなわち禊である。

〝自分の心の問題〟という指摘は、相手の動作を見て、受け止めて考えてから動作をはじめるのではない、ということか。

 さらには、P67〝自由はこの重い空の気を解脱せねばなりません。これを解脱して真空の氣に結べば技が出ます。解脱するには心の持ちようが問題となってきます〟と言う言葉にも通じる。すなわち、受けと一体になった取りの魂氣と魄氣(空の気)の結びが軸足交代によって対側の手足に移ると、受けに連なった手はそのまま自身と受けの体軸から解かれて、p103〝身の軽さを得る〟のであって、言いかえると、

p70〝魂の比礼振りが起こったら〟丹田から発して母指先で虚空に円を描く(真空の氣に結ぶ)ことができる。

 逆に、このことを心にとめるから自然に軸足交代がなされるわけだ。合氣の思いが緻密な動作を裏付けることになり、言葉と思いと動作の三位一体が合氣の根元である(p178参照)。

 さらに、p178〝「心」と「肉体」と、それを結ぶ「気」の三つが完全に一致して、しかも宇宙万有の活動と調和しなければいけないと悟った〟。ということは、天にある心のたましい魂から手に受ける氣と、地にある肉体のたましい魄から足腰に受ける氣が、呼吸とともに丹田において一致すること、つまり合気は禊そのものであり、p179〝真理の力が身心に加わるのである〟と。

                                      2019/7/14

3. 〝「言葉は神とともにありき」の状態に〟

 言葉と思いと動作の三位一体は人の行いそのものである。

 もちろん合気道だけの概念ではない。密教では三密加持、法華経では念彼観音力。

 ところで、合気とは魂氣魄の三要素が呼吸とともに一致して身心を調和させ、そのことで新たに加わる生命力を実感することである、と開祖の『合気神髄』からうかがえるところである。

 吸気で拡げた両手に天から魂氣を受け、地からは足腰に魄氣を受け、呼気で丹田に巡った手は軸足を経た体軸で魄氣と結び、再び吸気で上肢を伸展して母指先から魂氣を虚空に発し、呼気にあわせて丹田に巡る。

 丹田で体軸に与る魂氣は〝空の気に結ぶ〟とも表現され、軸足とともに動かすことの出来ない体軸内に在り、その手は体軸上においてのみ呼気で上下させることが出来る。

 一方、非軸足側の手は吸気で虚空に伸展して魂氣を母指先から、更には掌やすべての指先から、発することが出来る。『合気神髄』によると開祖はこれを、とらわれの心が一切無い〝真空の気に結ぶ〟、と表現されている。

 私は真空の氣を陽の魂氣、空の気を陰の魂氣と呼んで、手のあらゆる動作を言葉で表現して伝えることが出来るようにしている。これをさらに狭義の陰陽、つまり手掌が地に向けられると陰、天に向けると陽と言うふうに分けている。そこで、広義の魂氣を先に呼んで、たとえば陽の陰とか、陰の陰というふうに呼べば手の4通りの位置が表現できる。

 一方、合気道など武術に限らず、社会生活においても、言葉の概念がはじめに曖昧であれば、とんでもない判断の誤りに陥ることとなり、やがて自己存立にまで瓦解が及ぶのは自明である。

 開祖曰く〝「言葉は神とともにありき」の状態におかなければいけない〟〝心を表現する言葉〟と〝調和した肉体の活動が無ければならない〟(p178)

 魂氣三要素の陰陽、巡り、結びがそれぞれ呼吸とともに動作として確立しなければ技を生じることも無いのである。曖昧な言葉で動作を表現しても、技を伝えることは出来ない。

 言葉は客観性を無視して個人の観念の内にあるものではない。真理を表すものでなければならない。〝「言葉は神とともにありき」の状態におかなければいけない〟

                                      2019/7/19

 

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